97.線香花火に焦がされて(☆)
指と指を絡ませたのはどっちからだったのだろう。ぎゅっと力を込めているうちに、最初から一つだったような懐かしい感覚を覚えていた。
もう寒くなんてない。
いや、冷たい微風が心地よいとでも言おうか。高揚した心と身体がこんなにも熱いから。
今はただ、夜空で咲き乱れる花々に心を奪われ、隣にあるぬくもりに愛おしさを感じるばかりだ。
「花火……」
ちょうど音が静まったときに彼の呟きが聞こえた。私は彼の耳元へそっと唇を寄せる。
「ここでは冬にも花火が上がるんです。びっくりしましたか」
「うん、日本の花火は夏のイメージだったから」
「まぁ……それが今夜だってことは、菊川さんから聞いて知ったんですけどね」
「ふふ、トマリは本当に正直者だね。こういうときはカッコつけていいのに」
苦笑なんかしながらも、細めた目はとても嬉しそうだ。それはもう涙が出そうになるほど優しい色をしてる。
伝えたい言葉が喉の奥で幾つも蠢いている。今やっと形になった言葉ばかり。今までずっと存在していた想いだろうにな。
声には出さずに一つ、二つと零してみる。一気に溢れ出してしまわないように、小出しにしておきたかった。
だってもうすぐ終わるのだから。
こんなに沢山の想いを押し付けるのはさすがに迷惑というものだろう。
「トマリ、今何か言った?」
「えっ……」
「さっきから何か言ってるように見えたんだけど、僕の気のせい? それとも……」
カケルさんの声は、ドン、ドン、と二つ弾ける音で遮られたけど、私を奥まで射抜くような熱っぽい視線はそのままだ。
なんだろう、急に容赦ない。
優しいだけじゃない、何か吹っ切れたような表情だとわかると、胸に甘い痛みと脈打ちを感じた。
「……きです」
「ごめん、聞こえなかった」
「嘘。本当はわかってるくせに」
「どうだろうね。僕は何度でも聞きたい、今夜だけは」
「…………っ」
「そんな理由じゃ駄目?」
声が詰まったけど、もう後戻りはできない。逃してくれそうにない。意地悪に目覚めてしまったこの人は。
距離が近くなると意外な一面が見えてくると聞くけれど、私も過去の経験で知ってはいるけれど、こんなタイミングでだとはな。
でも、嫌かといったら、それは……
すっかり汗ばんだ手を握り直した。
張り合うみたいに視線を合わせる。なのに唇は宙を食む。まだ恐れてる。
それでもこの夜が終わったらもう言えないんだ。
「好きです」
さっきから私が一人で零していた言葉。一度声に出してしまうとたがが外れてしまいそうで怖かった。
その予感は間違いじゃなかったかもしれない。実際鼓動はどんどん激しくなる。
だけど大切な人へ渡す大切な想いだから、一つ一つ丁寧に紡げそう。そんな小さな自信に後押しされた。
「カケルさんが好きです。一緒には行けないけど、私が知る人の中で今はあなたが一番好きです」
「ありがとう。凄く嬉しい。僕も君が一番好きだ」
「だからカケルさん、最後にもう一度触れてくれませんか」
「もう一度? いま手を握って……」
「今度は背を向けませんから」
決して視線は逸らすまいと努めるのが精一杯。これから別れようという相手にこんな我儘。その優しさに最後まで甘えて。
私はずるい。私はやっぱりこの人が思うほど純粋ではないよ。
瞬きをやめたグレーの瞳に夜空の煌めきが映ってる。綺麗だ。私の意識の全てがそこへ奪われていく。
そうしているうちに完全に通じ合ってしまったみたいだ。恐れが消えていく最中で抗えない引力が私たちの間に生まれた。
「で、でも」
いつの間にか林檎のように頬を染めた彼が、額にじんわり汗を滲ませながら言葉にもならないためらいを零したけれど、それだって束の間のことだ。
「……いいの? 本当に」
そう言いながら両手はもう私の肩に触れている。まるで桃や苺などの柔らかい果実を扱うみたいな優しい力加減。
私を案じるような潤んだ目。そんな顔をしないでほしい。今はどうかためらわないでほしいんだ。
真っ直ぐ見つめたまま、私は頷いた。
彼が届きやすいように上を向いて瞼を閉じた。
打ち上げ花火の音がちょうど途切れたからなのか、鼓動も息遣いも聞こえてくるみたい。
視界は暗闇で遮られているはずなのに、ほのかな熱が徐々に近付いてくるのがはっきりとわかった。
「トマリ。大好きだよ」
甘い香りを纏った囁きのすぐ後に、そっと重なり合った一点で小さく弾けた。
ほのかな熱なんて気のせいだった。
まるで線香花火に触れられたみたいに痺れを伴いながら焦がされる。
体内で枝分かれする火花に悶えてしまいそう。
伝わる想いは痛みそのもの。優しさは麻酔のようだ。
そんな言葉が酩酊した頭に浮かぶ。
疼いては鎮まり、また疼いてと繰り返す。そうやって虜になっていく。
息が苦しくなったところで離れられたけど、それでもまだ至近距離。視線がきつく絡み合って、簡単には解けそうにない。
大きな手は私の肩をさすってくれる。慈しみながらも眉を寄せ、やっと絞り出したような声で。
「ごめんトマリ。もう一度」
「待って」
「ごめん」
「…………っ」
また柔らかく塞がれてしまったけれど、こんなか細い抵抗は無意味だとわかっていながら言った私も同罪だ。
「もう一度」
実際、こんなにも優しい手を振り解けずにいるくらいなのだから。
「もう一度だけ……」
掠れた声の彼の懇願が続く。気が遠くなるくらい、もう数えきれないくらい。私はちゃんと応えられているだろうか。
終わる気がしない。本当に夜は明けるんだろうか。
でもこれで良いんだ、今は。
思えば私たちは出会った頃から“いい子”だったことなんて一度もなかったじゃないか。
藤や桜などの花々が本当の私たちを見ていた。今だって天高くで幾重も咲き乱れている。
罰を与え合うには相応しい夜だ。そして許し合えるのもまた、お互いしかいない。
風の冷たさはいくらか和らいだような気がする。束の間の静けさが訪れていた。
なんだか時間の感覚もよくわからなくなっていた。多分、花火はあともう何発か上がると思うけれど。
大判のマフラーは今、隣り合って座る私たち二人の肩を包んでる。手はずっとずっと、繋ぎっぱなし。今夜はきっとこのままなんだろう。
「カケルさ……」
新たに打ち上げられたのが見えて口を噤んだ。音に遮られるからというのもあるけれど、それ以上に胸が押し潰されそうで声が詰まったからだと思う。
気付いた彼が微笑みながらこちらを見る。
ついさっきあのようなことをしたばかりなのに、今はこんなに遠く見えてしまうんなんてな。
「カケルさん、明日は何処に行くんですか?」
「菊川さんといろんなところを回ってみるよ。工芸品のお店で焼き物を作る体験ができるらしくて、ちょうどキャンセルが入って空きができたから僕を連れて行きたいって言ってた。でも何を作ろうかなぁ。すぐには思いつかないや。トマリなんか良い案ある?」
「そうですね、よく見かけるお茶碗みたいな形状も良いとは思いますが、カケルさんは紅茶とスコーンで優雅にティータイムというイメージがあります。偏見ですけど。仮にそのイメージを採用するなら、あえて和風のティーカップなど作っても面白いのではないかと思います」
「あ〜、いいね! それできるか聞いてみるよ。僕が紅茶もスコーンも好きだってよくわかったね」
「ミルフィーユが食べられるなら、おそらくそういった焼き菓子も好きなんじゃないかと思いまして」
「ミルフィーユかぁ……そういえば一緒に食べたときも紅茶頼んでたっけ、僕」
彼もまた、遠くを見つめるような目で夜空を仰いでいる。胸がきゅっと締まる。
思わず手を伸ばすような気持ちで口を開いた。
「カケルさん、ミルフィーユは横に倒して切り分けると上手く食べられるって言ってましたが、実際はボロボロに崩してましたね」
「ははは、そうそう! あれは我ながらカッコ悪かった! トマリも楽しそうに笑ってるから、まぁいいやって思っちゃったけどね」
「懐かしいですね」
「懐かしいね……」
この人と共に歩む道を選べば、今度は罪悪感を覚えることもなく笑い合える時間を得られたのかな、などという考えはすぐにかぶりを振ってかき消した。
そんなこと考えても意味ないだろう。いい加減割り切ったらどうだ。
だけどこんなにも情緒的な夜。それはなかなか難しいことでもあった。何度でも彼の笑顔を思い出してしまいそうだ。
「菊川さんとこんなに仲が良いというのには驚きました。一緒に働いてた頃、菊川さんも店舗にいらっしゃることがあったけど、カケルさんとは仕事の話だけしかしていないように見えたので」
「あのときはちょうどリニューアルを挟んでたでしょ。菊川さんはきっと、いっぱいいっぱいな僕に気を遣ってあまり話しかけなかったんだと思うよ。そういう人なんだ。相手へ与える情報をあえて最小限にするっていう」
「なるほど、そういう気遣いの形もあるんですね。私じゃ思いつかなかったことです」
「僕はわかっててもできなかったな。特にトマリにはいろいろ話しかけちゃったでしょ。逆にプレッシャーだったんじゃないかと反省したよ」
「そんなことないですよ……」
なんの話題を出してもすぐに私の話にしてしまうな、この人は。ここは菊川さんトークを盛り上げて哀愁をかき消したいところなのだが。
余韻はほどほどにしたい。冷たい考え方かもしれないけれど、これもできるだけ未練を残さないようにするためだ。許してくれ、カケルさん。
「明日。楽しんできてくださいね、菊川さんと」
会話の中とはいえ、何度も都合よく登場させてしまって菊川さんにもちょっと申し訳ない。
なんとなく私の意図が伝わってしまったのか、カケルさんは眉を八の字をして笑った。
「うん、一緒に働いているうちに思い出沢山作っておくよ」
「一緒に……働いているうちに?」
「あっ、いや! そのっ、ほら仕事もこの先どうなるかわからないじゃない? 菊川さんも僕も役職変わったりすることがあるかも知れないし」
「まぁ、そうだとは思いますが」
「そうそう、時間は有限だから大事にしようねって話」
何か誤魔化されたような気がする。胸の奥に不穏なものを感じた。この感覚、前にもあった。忘れる訳がない。
この人はオーラが凄くてとても目立つ。実際仕事もできるし人柄も魅力的。だけど優しすぎるから、人に悪意を向けられたときでさえ逃げずに受け止めてしまって。
私が体調を崩したときも彼は一人で抱え込んだ。心配することさえ許してくれなかった。
悪評が広まってしまったと和希から聞いている。マネージャーを辞めるかも知れないという噂があったことも。やっぱり誤解は解けなかったのか? 私を助けたりなんかしたせいで……
「カケルさん、私で良かったら話……」
「あっ、トマリ! いま二発上がったよ! 最後の見せ場が来るんじゃない?」
「そう……ですね」
また一つ、二つ、と登っていく。
カケルさんの予想通り、夜空を埋め尽くすくらい沢山の花が競うように弾けて咲いた。
有終の美と呼ぶにはあまりに荒々しい。
さっきまで見惚れていたのに、人の心というのは実に勝手だな。
――カケルさん、私で良かったら話……――
最後まで言えなくて良かった。
この人が何を抱えていたって、私はもう寄り添うことはできない。ましてや解決の手助けをするなんて。罪悪感だってなんの役にも立たない。
だからこれでいいんだ。この人を愛し、大切にしてくれる人は他にもいるはずだ。そういった人たち委ねればいいんだ。
何も、私じゃなくたって。
繋いだ手を一度、握り直した。彼も同じようにして応えてくれたことがとても嬉しいのに、胸は細く泣くような軋みの音を立てていた。




