93.迷子になったみたいに(☆)
ここから月は見えないはずなのに、温かな気配をすぐ傍に感じる。きっと蜂蜜みたいにとろみのある光が、この町を丸ごと包み込んでいるからだろう。
うつむく度に湯へ滴る雫が、小さな波紋を幾つも起こし、大きな決意を固めようとしている私の心を惑わせる。生まれたままの身体さえ曖昧にぼかして現実味を遠のかせていく。
どうやって終わらせるか。できるだけ彼を傷付けずに。
どうやって私のせいにするか。彼が自分を責めずに済む方法は……?
最初はそればかりを考えていたはずなのに。
過去と一つになった彼を目にしたが最後、堰き止めていたはずの未練が溢れ出し、我儘と化して止まらなくなってしまった。
一緒に町を回りたいとか、思い出を作りたいとか、名前で呼んでいいかとか、そんなお互いの痛みを強めるであろうことを言うつもりはなかったのに。
一緒に過ごしている間ずっと、彼の優しい視線を感じてた。それは甘いときめきよりも深い安らぎをもたらしてくれる、海のような慈愛に思えてならないのだよ。
「……カケル」
まだ届けられるかどうかもわからない、ありのままの名がぽろりと零れる。
何故あなたは来てしまうのだ。何故私を必要とするのだ。
自分だって望んだことなのに、たまらなくやるせなくて胸が苦しくなる。
いっそあなたから突き放して。今の私にはどうしたってできそうにないから。
その胸に縋りつきたくなる衝動を止めてほしい。
そんなふうに願う私はきっとこの上なくずるいのだろう。
考えれば考えるほど、彼に私は相応しくない。幼い頃だってそう、偶然何もかもが似ていただけだ。
なのに、それなのに、私は……。
コンコン、と軽く叩く音で意識が肉体へ戻ってきた。
「トマリ、いつまで入ってるの。逆上せるわよ」
「大丈夫だ。もうすぐ出る」
戸の向こうから届いてきたのは母の声。でも心配しているのはおそらく兄なのだろう。インターホンのチャイムは体感でいうと十分ほど前に鳴った。つまり母はついさっき帰ってきたばかりで、私がどれくらいここにいるか正確には知らないはず。入浴中の妹に声をかけるのはためらわれるから母に頼んだのだと考えられる。
兄も年齢と共に多少は丸くなったのだろう。昔と比べて考えていることが伝わりやすくなったように思う。
だから旅館からの帰り道で散々酷いことを言ってきた理由だって一応わかってはいるんだ。
でも簡単に許せはしない。思い出すとまた腹が立ってくる。苦い思いがふつふつと蘇ってきた。
過去の職場で顔を合わせたことのある菊川さんと合流した後、私も二人と一緒に旅館へ向かった。今日出勤している母に庭園に出入りする許可をもらうためだ。カケルさんは宿泊客だから問題ないけれど、私はそうじゃないからな。
でも先に私たちを出迎えたのは兄だった。
兄は縮こまっているカケルさんに一瞬険しい表情を向けたけれど、すぐにゆっくりと頭を下げ「いらっしゃいませ」と挨拶をしていた。
私が母と話している間に余計なことを言わなければ良いのだがな。いや、菊川さんもいるのだからさすがにそれはないか。ひとまずはそう思うことにして少しの間その場を離れた。
それからカケルさんと菊川さんは、従業員の大石さんの案内で部屋へ向かっていった。
母から承諾も得られたし私は一旦家に帰ろうと考えた。玄関の扉に手をかけたときだった。
強すぎず、弱すぎずの力加減で腕を掴まれて振り返った。
「家に戻るんだろ。俺も行く」
兄の真顔にほんの少しの哀愁を感じたのは気のせいだろうか。このときはまだそれくらいに捉えていた。
辺りも薄暗くなり始めた帰り道。人気がなくなるとシン、と空気が凍るような静寂の音が際立った。息がほんのり白くなる。
「トマリ、ちゃんと着いてきてるか」
「いなくなる訳がないだろう」
「何故横を歩かない」
「深い意味などない。少し疲れただけだ」
前を行く兄の方からも白い息が流れてくる。あくまでも背を向けたまま、時折沈黙を挟んでも、機嫌の悪そうな言葉が止まることはない。
「長い時間連れ回されていたようだな。あの男に」
「私が連れ回したのだ。なんでもかんでもカケルさんのせいにしないでくれ」
「必ず送っていくなんて調子の良いこと言っておいて、結局自分は連れと旅館に戻っただけだ。無責任なところがまるで変わってない」
「送ってくれたではないか。旅館に兄貴がいることは知っていたし、私も母と話があるから寄っていきたいと言ったのだぞ。何もおかしなことはないだろう」
「いいや。あの男はまた自己満足で動いてるだけだ。ここへ来たのだってそうなんだろう。結局は二十一年前と同じ……」
「いい加減にしてくれ、兄貴!」
思わず大きな声を上げてしまった。だって聞いてられないだろう、こんなの。
やっと振り向いた兄は狼のように鋭い目をしていた。だけど私は負けじと睨みつけた。たとえ小動物のように非力だとしても。
この男が偏見に塗れた言葉ばかり吐くのは今に始まったことじゃない。家族である私はとっくに慣れている。それでも今回ばかりは譲る訳にいかない。
「幼い頃のことがあるから印象が悪いのはわかる。だが彼も私ももう大人なのだぞ。自分の判断で責任を持って行動できる」
「何が責任だ。あんな何も考えてないような顔をして」
「二十一年前。さっき兄貴はそう言った。それこそが昔と同じではない証拠だと思わないのか。この長い年月、私たちがそれぞれどのようにして過ごし、再会してからどのように関わってきたのか兄貴は何も知らないだろう。彼がどれほどの覚悟でここへ来てくれたか想像できるか。できないだろう。そんな兄貴にわかったようなことを言われたくはない!」
兄はついに言葉に詰まったようだ。しかしそれは一瞬のこと。
すぐにズカズカと私の方へ詰め寄り、人差し指まで突きつけてくる。
「お前のことを思って言ってるんだろうが! 大体な、男のくせにあんなチャラチャラと着飾って。なんだあの髪色は。なんだあの化粧は。いい歳してアイドル気取りか? 地に足のついた人間ならもっとまともな格好で来るもんじゃねぇのか」
「あれは彼のアイデンティティだ。否定する権利など誰にもないはずだ!」
「あいでん……なんだって? とにかくな、俺が簡単に認めると思うなよ!? 責任を持つだの守るだの、言うだけだったら誰にでもできんだよ。あいつに本物の覚悟があるか確かめるまでは信用できねぇ!」
お互いに肩で息を切らしているのがわかった。自覚している以上にヒートアップしていたようだ。
そうなるとあとは冷めていくだけだった。理性の膜を突き破った棘をみっともなく剥き出しにしている兄。こんな相手には触りたくない、そう思うのも無理はないだろう。
「……もういい。どれだけ言っても無駄だとわかった」
「あ? 俺の話はまだ終わってな……」
「兄貴なんか嫌いだ!!」
一気に言い放つと、私は兄の横をすり抜けて家の方向へ早足で歩いた。
夜の色が深くなっていく中、しばらくは何も聞こえてこなかったけれど……
「おい! 待てトマリ! 一緒に帰ってる意味がないだろ!」
「…………」
「待てっつってんだろ。ああ、もう!」
兄が駆け足でついてきているのはわかってたけど、振り向く気にも、ましてや許す気にもなれなかった。
悔しかった。悲しかった。
私たちの関係について文句を言われるのならまだわかる。
でも彼の全てを否定されるなんてあんまりだ。耐えられない。
昔も今も、とても大切な人だから尚のこと。
険悪な空気のまま結局は同じペース、同じタイミングで帰宅して現在に至るのだが、またこの後兄と顔を合わせなきゃならないと思うと気が重い。
だからといっていつまでもこうしている訳にもいくまい。さすがに自分の中でケリをつけて、素早く浴槽から上がった。
甘じょっぱいような匂いが脱衣所にまで流れ込んでくる。なんの料理かはまだわからなくても、母が昔から好んでいる味付けなのはわかる。
洗面台の前、鏡の中の自分に目が留まる。気が付けばそこへ手を伸ばしていた。
冷たい感触の彼女の顔は今、白く、幼く、心細げで。これから大人の女としての決断を下そうとしているようにはとても見えないくらい。これはもう、造形ではなく内面から滲み出るものの問題なんだろう。
生ぬるい雫が胸元を伝っていく。それをただ見ていることしかできない。二十八歳のこの身体が、未だに自分のものと思えなかったりする。
しばらくはそこを動けなかった。
だけどだんだんわかってきた。
メイクもお洒落も大好きだ。それがあってこその私だ。
でもここから先は何も飾らない、背伸びしない、そんな時間があっても良いのではないか。私は案外昔から変わっていないから。
そうやってやっと、面影残る彼と向き合うことができるのではないか。
そうだ、ドレスアップだけが魔法じゃない。素顔で臨む、二人きりの舞踏会があってもきっと良い。
限られた時間なら尚更、嘘偽りなくありたいではないか。
できるだけ嘘を避けて生きてきたはずなのに、何故かそんなことを思う。
決意というほどではないけれど、私の中で拗れていた考えが少しだけまとまった気がして。
脱衣所を出る頃には心なしか足の裏に伝わる床の感触がはっきりしたように思う。
「お母さん、遅くなってすまな……い……」
ウォーターサーバーの水を飲もうと立ち寄ったキッチンで、私の声は細くなって消えた。
そこに立っている母の姿は昨日と特に変わりはしないけれど、手元にあるものを見つめる顔には昨日と違った色が浮かんでいる。
「ああ、トマリ、やっと出てきた。相変わらず長湯ねぇ」
「お帰りなさい、お母さん。それ……」
「友達に会ってきたんだってね。びっくりした、あの子あんなに大きくなって。昔は小柄で女の子みたいな顔立ちだったのに」
「でも面影はあるだろう。思い出すまで時間がかかった私が言うのもなんだがな」
「それ。詳しく聞いてみたかったのよ」
母はあの写真を持っていた。あどけない私たちと無邪気な初恋が閉じ込められた一枚。
旅館で彼と直接会ったのかはわからない。だけど、もう大部分を理解したのだろう。
砂時計が再びひっくり返されてしまったことも、きっともうわかってる。
写真をそっと棚に戻した母が目細めて私を見つめる。
そうか、と今になって気付いた。旅館から出るとき、私の腕を掴んで引き留めた兄も同じような目をしていたこと。兄は笑ってなどいなかったはずなのに、どういう訳か重なって見えるんだ。
「気になることはいろいろあるけど、あんたが話しやすいところからでいいわ。まだ時間はあるでしょう。聞かせてちょうだい」
緊張感は不思議とない。むしろ今は肩を貸してほしい気分だった。
数々の別れ道を選び、困難を乗り越えてきた、それを気の遠くなるほどの間繰り返してきた、そういう人でないと辿り着けない境地があるのだろうから。