第48.5話 私は勇者になってしまったようです…えっ?私がW主人公役!?作者さんそんなの聞いてないよ!?(中中)
改稿済
気がつくと、私は再びあの場所に立っていた。
どこまでも広がる暗闇。
足元さえも曖昧で、遠くには底の見えない穴がぽっかりと口を開けている。
その中央に、彼はいた。
そして――。
黒い何かが、何よりも大切な人の胸へ剣を突き立てた。
「――っ!」
声にならない息が漏れる。
助けなければ。
今すぐ、あの人のもとへ行かなければならない。
そう思っているのに、身体が動かない。
腕も、足も、指先さえも。
まるで見えない鎖に全身を縛りつけられているようだった。
「やめろ……」
必死に声を絞り出す。
けれど、喉を強く締めつけられているように、掠れた声しか出なかった。
黒い何かは、何も答えない。
人の形をしているようにも見える。
けれど、輪郭は煙のように揺らぎ、顔も表情も分からない。
ただ、その手だけが彼を掴んでいた。
「どうして……」
黒い何かは、倒れた彼を無造作に引きずっていく。
その先にあるのは、底の見えない深い穴。
このままでは駄目だ。
あそこへ連れていかれたら、もう二度と会えなくなる。
そんな確信だけが、胸の奥へ突き刺さった。
(やめてくれ……!)
身体中へ力を込める。
(どうして、そんなことをするんだ!)
叫ぼうとしても、声は出ない。
手を伸ばすことさえ許されない。
それでも私は諦めなかった。
身体に纏わりつく黒い何かを振り払おうと、聖剣へ意識を集中させる。
淡い光が刃を包み込む。
けれど――。
何も変わらない。
聖剣の光に触れても、身体を縛る黒い影は僅かにも揺らがなかった。
(そんな……)
力はある。
魔力だって残っている。
それなのに、どうして動けない。
(動いてくれ……!)
歯を食いしばり、全身へありったけの力を込める。
(お願いだから、動いてよ……私の身体!)
黒い何かが、彼を穴の縁へ引きずっていく。
あと少し。
もう時間がない。
「限突――」
掠れた声を無理やり押し出す。
「《オーバー・クロック》ッ!!」
しかし、何も起こらなかった。
身体能力を限界以上に引き上げるはずの力が、まるで拒絶されたように発動しない。
(どうして……!?)
魔力はある。
力も残っている。
発動条件だって満たしているはずだ。
なのに、何一つ応えてくれない。
「動け……!」
それでも私は力任せに身体を捩った。
肩が軋む。
腕が震える。
全身を締めつける黒い拘束が、さらに強く食い込んでくる。
「動けぇぇぇぇっ!!」
その瞬間――。
全身を縛りつけていた力が、突然消えた。
「えっ――」
抵抗するために込めていた力の行き場を失い、私は勢いよく地面へ倒れ込む。
「くっ……!」
慌てて顔を上げる。
(これで……動ける!)
私はすぐに立ち上がろうとした。
だが――もう遅かった。
黒い何かは、既に彼の首元を掴み、底の見えない穴の縁へ立っていた。
彼の身体は力なく垂れ下がっている。
「やめろ……」
黒い何かが、ゆっくりと腕を持ち上げた。
その先にある暗闇を見た瞬間、これから何が起こるのか理解してしまった。
「やめてくれ……!」
私は走り出そうとする。
けれど、身に纏った重い鎧が身体へ食い込み、思うように足が前へ出ない。
邪魔だ。
こんな物を着ている場合じゃない。
「邪魔だぁぁぁっ!!」
留め具を乱暴に外し、聖騎士の鎧をその場へ脱ぎ捨てる。
金属のぶつかる音が、暗闇の中へ虚しく響いた。
身体が軽くなる。
私は地面を強く蹴り、彼へ向かって必死に手を伸ばした。
「待ってくれ!!」
届いて。
お願いだから、届いて。
「私が助けるから!!」
黒い何かの腕が動く。
「だから――その人を離せぇぇぇぇっ!!」
けれど――。
時は、既に遅かった。
黒い何かの腕が動き、彼の身体が暗闇の中へ放り出される。
「やめろぉぉぉぉっ!!」
必死に手を伸ばす。
指先が、あと少しで彼へ届く。
あと少し……ほんの少しだけ前へ進めれば――。
彼の姿は、そのまま底の見えない穴の中へ消えていった。
「――っ!!」
その瞬間。
世界が暗闇に閉ざされた。
気がつけば、私は見知らぬ天井を見つめていた。
「…………」
しばらく無言で天井を眺める。
(知らない天井だ……)
……いや。
(まあ、昨日見たばかりだから、知ってる天井なんだけど……)
どうやら私は、最初の訓練で気を失い、そのまま部屋まで運ばれたらしい。
ゆっくりと身体を起こす。
「いたた……」
腹部には、アルバードさんに蹴られた時の鈍い痛みが残っていた。
窓へ目を向けると、外はすっかり暗くなっている。
空には二つの月が浮かび、淡い光が部屋の中へ差し込んでいた。
「もう夜なんだ……」
かなり長い間、眠っていたらしい。
その短い眠りの中で、私はまた何か夢を見た。
……はずだ。
けれど、何を見たのかは思い出せない。
誰かがいたような気がする。
必死に何かへ手を伸ばしていたような気もする。
でも、思い出そうとすると、記憶は霧のように形を失ってしまう。
ただ一つ分かるのは――。
決して、気分の良い夢ではなかったということだけだ。
「うぅ……汗、すごい……」
額だけではない。
寝間着は汗を吸って肌へ張りつき、身体全体が気持ち悪かった。
とりあえず着替えよう。
そう思い、ベッドから降りた時だった。
「ん……?」
頬に、冷たい感触が残っている。
私は何気なく指先で触れてみた。
「これは……」
濡れている。
最初は汗だと思った。
けれど、鏡の前へ立った瞬間、それが汗ではないことに気づく。
目元から頬へ、細い涙の跡が残っていた。
「私……泣いてたの?」
鏡の中の自分へ問いかける。
当然、答えは返ってこない。
どうして泣いているのか分からない。
悲しい夢だったのか。
怖い夢だったのか。
それとも、誰かを失うような夢だったのか。
何も覚えていない。
それなのに、胸の奥にはぽっかりと穴が空いたような、妙な喪失感だけが残っていた。
「……何だったんだろう」
目元を指で拭う。
理由の分からない涙は、考えれば考えるほど気味が悪かった。
けれど、いくら考えても答えは出そうにない。
「まあ……思い出せないなら、仕方ないか」
私は気持ちを切り替えるように息を吐き、汗で濡れた服を着替えた。
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅぅ……。
静かな部屋の中に、思った以上に大きな音が響く。
「…………」
私は無言でお腹へ手を当てた。
「お腹空いた……」
かなり空いている。
夕食を食べずに眠ってしまったのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
けれど、それにしても異常なほどの空腹だった。
まるで何日もまともに食べていないみたいに、胃が食べ物を求めている。
どうしてここまでお腹が空いているんだろう。
思い当たることがあるとすれば、昼間の訓練だ。
アルバードさんへ向かって地面を蹴った時。
自分でも驚くほどの速度が出た。
あの瞬間、身体の中を何かが一気に駆け巡るような、不思議な感覚があった。
熱いような。
冷たいような。
力が身体の奥から溢れ出すような感覚。
「あれが、この世界でいう魔力なのかな……」
もしそうなら、魔力を使ったことで大量に体力を消耗したのかもしれない。
まあ、今考えても分からない。
「それより、ご飯だよね」
私は部屋の時計へ目を向ける。
かなり遅い時間だった。
「まだ食堂、開いてるかな……」
少し不安になりながらも、空腹には勝てない。
私は部屋を出て、食堂へ向かうことにした。
私はゆっくりと部屋のドアを開けた。
廊下へ出ると、昼間とは違い、王城は静寂に包まれている。
窓から差し込む二つの月明かりだけが、長い石造りの廊下を淡く照らしていた。
人の気配はほとんどない。
警備に当たる騎士が遠くに立っている程度で、昼間の賑やかさが嘘のようだった。
私は静かな廊下を歩き始める。
すると、廊下の突き当たりを二人の人影が横切るのが見えた。
「ん?」
思わず足を止める。
「あれは……板野くん?」
見間違えるはずがない。
クラスメイトの板野だった。
そして、その隣を歩いている人物を見た瞬間、思わず目を丸くする。
「国王陛下……?」
ヨハン王だった。
私は腕時計へ目を向ける。
時刻は二十二時を回っている。
(こんな時間に……?)
板野と国王。
あまりにも不思議な組み合わせだった。
何を話しているのかは分からない。
二人はそのまま角を曲がり、姿を消していく。
(ちょっと気になるけど……)
少しだけ後を追いかけたい気持ちになる。
けれど、すぐに首を横へ振った。
(いやいや。尾行なんて失礼だし、私には関係ないことだよね)
私は気持ちを切り替え、そのまま食堂へ向かうことにした。
食堂へ着くと、昼間とはまるで別の場所になっていた。
長テーブルは片付けられ、代わりに酒樽や酒瓶が並んでいる。
そこには任務を終えた騎士達が集まり、大声で笑い合っていた。
「ガハハハハッ!」
「今日は飲むぞぉ!」
酒の匂いが充満し、肩を組んで歌う者、腕相撲を始める者、既に机へ突っ伏して眠っている者までいる。
昼間の厳格な騎士達とは思えないほど賑やかだった。
「うわぁ……」
私は少しだけ苦笑する。
嫌いではない。
でも、こういう賑やかな場所は少し苦手だった。
なるべく人が少ない場所を探し、カウンター席へ腰を下ろす。
すると、奥から一人の男性が静かに歩いてきた。
「いらっしゃいませ。何かご注文はございますか?」
穏やかな声だった。
黒髪を綺麗なオールバックにまとめ、白いシャツに黒いベスト。
落ち着いたバーテンダー姿が、不思議なほど様になっている。
年齢は四十代後半くらいだろうか。
朝や昼の食堂では見かけなかった顔だ。
(夜だけここにいる人なのかな?)
それにしても――。
整った顔立ちだった。
派手さはない。
けれど、大人の余裕と落ち着きを纏った、とても魅力的な男性だ。
普通の女性なら、一目見ただけで心を奪われても不思議ではない。
……ただ。
(なんだろう、この人)
物腰は柔らかい。
笑顔も穏やかだ。
それなのに、目の前へ立たれた瞬間、本能が静かに警鐘を鳴らした。
圧倒的な威圧感。
いや、それとも存在感と言うべきなのだろうか。
まるで静かな湖面の下へ、とてつもない怪物が潜んでいるような感覚。
一歩踏み込めば飲み込まれてしまう。
そんな底知れない雰囲気だけが、その人から静かに漂っていた。
「何か、食べられる物はありますか?」
私が尋ねると、男性は穏やかに頷いた。
「なるほど……」
少しだけ考え込むように顎へ手を添える。
やがて何かを思いついたのか、優しく微笑んだ。
「かしこまりました。少々お待ちください。すぐにお持ちいたします」
そう言うと、静かにカウンターの奥へ歩いていく。
私は、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
(……綺麗)
歩き方一つとっても無駄がない。
姿勢は真っ直ぐ。
歩幅も一定。
まるで長年磨き上げられた芸術作品のように、美しく洗練されていた。
そして――隙がない。
戦いの経験なんてほとんどない私ですら、一目で分かってしまう。
(この人……強い)
しかも、普通じゃない。
人間離れした強さ。
穏やかな笑顔の奥に、とてつもない覇気が静かに眠っている。
今は鞘へ収まっているだけ。
もし、その力が抜き放たれたなら――。
きっと、とんでもないことになる。
そんな確信だけが胸の中へ浮かんでいた。
(……何者なんだろう)
自然と背筋が伸びる。
そんな私の緊張を吹き飛ばすように、豪快な笑い声が酒場へ響き渡った。
「わーっはっはっはっ!!」
(この笑い声は……)
聞き覚えがある。
振り向くと、そこには豪快に笑うアルバードさんが立っていた。
「ミツルギの坊ちゃんじゃねぇか! どうしたんだ、こんな時間に!」
(いやいやいや!)
思わず心の中で全力ツッコミを入れる。
(貴方に気絶させられて、ご飯を食べ損ねたんですよ!!)
そう叫びたかった。
ものすごく叫びたかった。
でも、相手は悪気ゼロの笑顔である。
その笑顔を見てしまうと、何となく言えなくなってしまう。
「は、ははは……」
結局、苦笑いしかできなかった。
(うん、私えらい)
ここで我慢できた私は、本当にえらいと思う。
誰か褒めてほしい。
……というか。
大体、原因はアルバードさんなんだけどね?
「ええ、ちょっと食事を取り損ねてしまって……」
私が苦笑しながら答えると、アルバードさんは豪快に笑った。
「そうかそうか! 今日は運がいいぞ!」
大きな手で私の肩を軽く叩く。
「なんせ、今日はミハエルの旦那が来てくれてるからな! あいつの飯とつまみは絶品なんだ!」
(ミハエルさんって言うんだ)
どうやら、先ほどの男性の名前はミハエルというらしい。
(なんだか天界にいそうな名前だなぁ)
そんなことを考えていると、まるで会話が聞こえていたかのような絶妙なタイミングで、ミハエルさんが戻ってきた。
両手には熱々の鉄板が一枚ずつ。
湯気を立ち上らせながら、静かに私達の前へ置く。
「こちらをどうぞ」
ジュゥゥゥ……。
鉄板の上では、こんがりと焼き色の付いたウィンナーが香ばしい音を立てていた。
熱せられた油が弾け、小さな音を鳴らすたびに、食欲を刺激する香りがふわりと鼻をくすぐる。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
(これは絶対に美味しいやつだ……!)
香りだけで分かる。
私のお腹が、今にも飛びつきそうな勢いで反応していた。
ぐぅぅぅ……。
「…………」
……うん。
聞かなかったことにしよう。
これでも私は、結構食いしん坊なのだ。
「アルバードも、これでよろしいですよね?」
ミハエルさんが穏やかに尋ねる。
「ああ! ありがとうな!」
アルバードさんは満面の笑みで鉄板を受け取り、嬉しそうに頷いた。
そう言ってミハエルさんは、アルバードさんの前へビールジョッキと、同じく焼きたてのウィンナーを静かに差し出した。
アルバードさんのことを、自然に呼び捨てで呼んでいる。
(呼び捨て……ということは、かなり親しい仲なのかな?)
そんなことを考えながら、私は目の前のウィンナーへ視線を落とした。
表面には綺麗な焼き色がつき、熱せられた油が照明を受けてきらきらと輝いている。
「いただきます」
一口、口へ運ぶ。
パリッ――。
心地よい音と共に皮が弾け、閉じ込められていた肉汁が一気に口いっぱいへ広がった。
「……っ!」
思わず目を見開く。
旨味たっぷりの肉汁が舌を包み込み、そのまま喉を通って身体の奥へ染み渡っていく。
噛めば噛むほど肉の旨味と香辛料の香りが溢れ出し、疲れ切っていた身体へ力が戻ってくるようだった。
「美味しい……!」
自然と笑みがこぼれる。
こんなに美味しいウィンナーを食べたのは初めてだった。
改めて見てみると一本一本がかなり大きい。
(おっきい……)
口へ運ぶだけでも少し苦労する。
それでも、美味しいから全く問題なかった。
「はふっ、はふっ……!」
熱々なのに止まらない。
気付けば夢中になって頬張っていた。
その様子を見て、アルバードさんが満足そうに笑う。
「やっぱり、ミハエルの旦那のつまみは最高だな!」
ミハエルさんは穏やかに微笑み、軽く頭を下げた。
「かの『嵐戮のアルバート』と称されたお方に、そのようなお言葉をいただけるとは光栄でございます」
「よせやい」
アルバードさんは照れ臭そうに頭を掻く。
「お前さんの方が強ぇくせに、何を言ってやがる」
「ふふっ、それは昔のお話ですよ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
そのやり取りには、長年連れ添った戦友のような空気が漂っている。
(やっぱり、ただ者じゃない……この人、一体何者なんだろう……)
私は二人を交互に見つめた。
アルバードさんがここまで認める相手。
しかも、この人自身も人間離れした気配を隠しきれていない。
「アルバードさん」
私はウィンナーを口へ運びながら尋ねた。
「この人……ただ者じゃないっていうのは分かるんですけど、一体どんな人なんですか?」
アルバードさんは「あぁ?」と声を漏らし、ミハエルさんへ視線を向ける。
「ミハエルの旦那のことか?」
そう言うと、まるで大したことではないと言わんばかりに口を開いた。
「こいつは元騎士団長だ」
「……え?」
思わず固まる。
(えぇぇぇっ!?)
さらっと言った!?
本当に、驚くほどさらっと!
私は思わずミハエルさんを見つめた。
穏やかな笑み、落ち着いた物腰、優しそうな雰囲気。
どう見ても、料理人か執事のような印象だった。
そんな人が、この国の元騎士団長……?
(全然そうは見えないんだけど!?)
驚きが隠せない。
でも、さっき感じたあの底知れない気配を思い返すと、不思議と納得もできた。
(だから、あんなに強そうだったんだ……)
しかし、新たな疑問も浮かぶ。
(でも、どうして今は酒場で働いてるんだろう?)
するとアルバードさんが懐かしそうに笑った。
「俺としては、また戻ってきてほしいんだけどなぁ」
ジョッキを片手に笑う。
「ミハエルの旦那は昔、『黒騎士』って呼ばれてた、この国最強の戦士なんだ」
「それは、もう過去の栄光ですよ」
ミハエルさんは困ったように微笑み、軽く肩をすくめる。
「昔話を持ち出されると、少し恥ずかしいですね」
そのやり取りに、私は思わず笑ってしまった。
(なんだろう、この二人)
まるで昔からの親友みたいだ。
私はその光景を眺めながら、熱々のウィンナーをもう一口頬張る。
(うん……やっぱり美味しい)
幸せだった。
「だけどよ」
アルバードさんが真面目な顔になる。
「なんで騎士を辞めちまったんだ? お前さんなら、まだまだ最前線で戦えただろ」
ミハエルさんは少しだけ目を細めた。
「私は、今やりたいことをやっているだけですよ」
その一言だけだった。
多くを語らない。
それ以上聞くなと言っているわけでもない。
それでも、その言葉だけで十分だった。
(……なんだろう)
過去に何かあったのだろうか。
そう思わせる、不思議な重みがあった。
アルバードさんも、それ以上は何も聞かなかった。
二人とも笑っている。
それなのに、その一瞬だけ酒場の空気が静かになったような気がした。
(この人……)
アルバードさんが認めるほどの実力者。
しかも、身体には目立つ傷一つない。
歴戦の戦士なら、もっと傷だらけでもおかしくないはずなのに。
それなのに傷がないということは――。
(そもそも、この人が負けるところが想像できないんだけど……)
そんなことを考えながら、私は最後の一本を食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
自然と笑みがこぼれる。
「とても美味しかったです」
ミハエルさんは優しく一礼した。
「ありがとうございます。またのお越しを、お待ちしております」
私は軽く会釈を返し、背後から聞こえてくるアルバートさんの豪快な笑い声を耳にしながら、酒場を後にした。
「さて……明日に備えて寝ることにしますか」
今日はいろいろありすぎた。
訓練。
気絶。
不思議な夢。
そして、元騎士団長ミハエルさんとの出会い。
そんな一日を思い返しながら、私は静かに眠りについた。
それから私は、ひたすら剣を振り続けた。
アルバートさんに完膚なきまでに叩きのめされたことが、悔しくて仕方がなかった。
だから振る。
朝も昼も、夕方も。
腕が上がらなくなっても、足が震えても、剣を振り続けた。
(意外と私、負けず嫌いなんだよね)
これも、ある意味では家庭環境の影響なのかもしれない。
そうして私は、少しずつ、少しずつレベルを上げていった。
――一ヶ月後
【御剣 正義】
職業 勇者
LV20
HP5000
MP2000
SP2500
攻撃 4500
防御 3000
魔力 3400
精神 2910
素早さ 1500
器用さ 1700
運 50
スキル
・天命剣「リミテッド・ソード」
・スラッシュ
・限突「オーバー・クロック」
・ブレイジング・ダンス
・剛力
・鉄壁
・クロス・ジャッジメント
パッシブ
・勇者の加護
・精霊の加護
・剣の加護
そんなある日だった。
私の右手が、淡い光を放ち始める。
光は渦を巻くように集まり、やがて一本の剣の形を成していく。
神々しい輝きをまとったその剣は、まるで最初からそこに存在していたかのように、私の手へ静かに収まった。
「ほぉー!」
アルバートさんが感心したように目を見開く。
「ミツルギの坊ちゃん、もう聖剣を出せるようになったのか!」
(だから私は女だって……)
心の中だけで小さくツッコミを入れながら、私はその剣を見つめる。
その名は――
『レイアード』。
勇者だけに与えられる聖剣。
私は恐る恐る柄を握った。
「……軽っ」
思わず声が漏れる。
剣なのに、とんでもなく軽い。
いや、軽いなんてものじゃない。
「えっ……本当に軽い!?」
まるで羽でも持っているようだった。
鶏の羽一本と言われても納得してしまいそうなほど、重さを感じない。
しかも――。
(見た目、凄すぎない!?)
刀身には美しい装飾が施され、眩い輝きを放っている。
見るからに「勇者専用です」と言わんばかりの存在感だった。
(いやいや……もう少し普通の剣でよくなかった!?)
もっとこう……。
シンプルで格好いい感じを想像していたんだけど。
これじゃあ目立ちすぎる。
少しくらい空気を読んで、スマートなデザインになってくれても良かったのに。
「さすが御剣君、男らしい……」
「聖剣を持つだけでイケメン度が増す御剣君……」
「しゅきぃ……」
(おかしい)
私はごく普通の女の子だ。
なのに、どうして男らしさが増したとか、イケメンだとか言われなければならないんだろう。
(なんでぇぇぇぇ!?)
心の中で盛大に叫びながら、私は泣く泣く聖剣を構えた。
試しに訓練用の案山子へ向かって軽く振る。
次の瞬間――。
スパンッ。
「……え?」
ほとんど力なんて入れていない。
それなのに、案山子は抵抗する間もなく、真っ二つになっていた。
切断面は驚くほど滑らかで、まるで最初からそこだけ切り離される運命だったかのように綺麗だった。
「ひえぇぇぇ……」
思わず情けない声が漏れる。
(これ、危なすぎない!?)
こんなの、人に当たったら洒落にならない。
いや、洒落どころか普通に大惨事だ。
「……訓練中は封印しよう」
私は心の底からそう決意した。
こんな物騒な剣を軽い気持ちで振り回したら、本当に誰かを斬ってしまう。
やっぱり、普段の訓練は木剣で十分だ。
そして、遠征まで残り一週間。
北へ向かう日が、刻一刻と近づいてきていた。
だからこそ、手を抜くわけにはいかない。
(もっと強くならなきゃ)
勇者だからじゃない。
皆を守るため。
そして――。
あの人を、ちゃんと守れるくらい強くなるために。
私は静かに聖剣を消すと、その日の訓練を終え、部屋へ戻っていった。
「疲れたなぁ……」
私はいつものようにシャワーを浴びる。
やっぱり訓練の後は、汗を洗い流すのが一番だ。
温かいお湯が全身を包み込み、張り詰めていた身体が少しずつほぐれていく。
「ふぅ……」
さっぱりしたところでベッドへ潜り込もうとした。
だけど――。
「……眠れない」
今日は何故か目が冴えていた。
遠征まで残り一週間。
その緊張なのか、それとも別の理由なのか、自分でも分からない。
「少しだけ外の空気でも吸おうかな」
私は部屋を出て、静かな王宮の庭へ向かった。
夜風が心地いい。
昼間の暑さが嘘のように涼しく、花の香りが風に乗って漂ってくる。
(綺麗だなぁ……)
二つの月が夜空を照らしていた。
日本では絶対に見ることのできない景色。
私はしばらく景色を眺めていた。
その時だった。
かすかに、男女の話し声が聞こえてきた。
「……こんな時間に?」
不思議に思い、声のする方へ視線を向ける。
庭の中央に立つ大きな木。
その近くに置かれたベンチへ、二人の人影が並んで座っていた。
「……黒杉くん?」
隣にいるのは、晴渡さんだった。
二人とも穏やかな表情で話している。
その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「楊一も外の空気を吸いに来たの?」
「ああ。何となく眠れなくてさ」
「ふーん」
晴渡さんは黒杉くんの隣に座り、二人で夜空を見上げていた。
しばらくすると、晴渡さんが黒杉くんの顔を覗き込む。
「楊一?」
「な、何だよ?」
「顔赤くない?」
「ち、違うって! さっきまで走ってたからだよ!」
「あっそ」
晴渡さんは黒杉くんの顔をじっと見つめたあと、再び夜空へ視線を戻す。
その距離の近さに、私の胸がまた痛んだ。
「まぁいいや」
晴渡さんが小さく笑う。
「楊一が隠れて何かしてるのは昔からだから、今さら気にしないよーだ」
「そんなことないだろ」
「あるわよ」
即答だった。
「楊一って、嘘をつく時に癖があるし」
「はっ!? 癖!?」
「うん」
「どんな?」
「教えるわけないじゃん」
「何でだよ!?」
「絶対に直そうとするでしょ! 楊一は我慢とか無茶をよくするし!」
「返す言葉もないや」
二人の会話は、とても自然だった。
まるで何年も同じやり取りを繰り返してきたような、遠慮のない距離感。
「ぐっ……ここまで知られては、手も足も出せん……」
「それに、何年幼馴染をやってると思ってるの? 癖を一つや二つ直したって意味ないからね。すぐに気づくんだから」
そう言いながら、晴渡さんは黒杉くんの頭へ手を乗せた。
そのまま、優しく髪を撫でる。
(あれ……?)
普通は逆じゃないだろうか。
……いや。
私も黒杉くんの頭を撫でてみたいけれど。
(そこは、今は気にしないでおこう……)
「お、おい」
「ん?」
「普通、逆じゃないか?」
「何が?」
「いや……何でもない」
黒杉くんは困ったような顔をしていた。
けれど、本気で嫌がっているようには見えない。
むしろ、どこか安心しているようだった。
そして――。
晴渡さんが、静かに口を開いた。
「私、絶対に楊一を守るから」
「え?」
黒杉くんが驚いたように聞き返す。
「絶対に」
「急にどうしたんだよ」
「別に」
晴渡さんは視線を逸らしていた。
けれど、その声は真剣だった。
私は二人を遠くから見つめることしかできなかった。
(守る……か)
そうだよね。
今さら私が、黒杉くんを守るなんて――おこがましいのかもしれない。
勇者になったからって。
少し強くなったからって。
長い間ずっと一緒にいた二人の間へ、簡単に入れるはずがない。
やがて黒杉くんは、晴渡さんを見ながら穏やかに笑った。
「ありがとうな」
「何よ、急に」
「いや……嬉しかったから」
晴渡さんが少しだけ目を丸くする。
それから、照れたように顔を逸らした。
「変な奴」
「俺もそう思うよ」
「……っぷ、何それぇ!」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
その光景が、あまりにも眩しかった。
私には入り込めない。
二人だけの時間だった。
(あの二人……やっぱり付き合ってるのかな)
そう考えてしまうのも無理はない。
二人は幼馴染だ。
私が知らない頃から、ずっと一緒にいる。
それに比べて、私と黒杉くんの関わりなんて、あってないようなものだ。
小学生の頃に助けてもらった。
それから私は、遠くから追い掛け続けていただけ。
話し掛ける勇気すら持てないまま。
(だったら、晴渡さんを選ぶのは当然だよね……)
私が手を伸ばしても届かない場所に、晴渡さんは最初から立っていた。
胸が苦しい。
息を吸うことさえ、上手くできなくなっていく。
(そんなことなら……)
もう少しだけ、勇気を出しておけばよかった。
もっと黒杉くんと話していればよかった。
もっと一緒に笑っていればよかった。
もっと近くにいられるよう、頑張ればよかった。
後悔ばかりが胸の中へ溢れてくる。
その時だった。
視界がぼやけた。
「あれ……?」
目元を擦る。
指先が濡れていた。
涙だった。
(はは……私、泣いてるんだ……)
情けない。
格好悪い。
そう思うのに、涙は止まってくれなかった。
胸が痛い。
苦しい。
こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
そして私は、ようやく理解した。
(あぁ……私、本当に好きだったんだ)
ずっと憧れだと思っていた。
幼い頃に助けてもらったヒーローだから。
尊敬しているだけだと。
遠くから応援している、ファンみたいなものだと。
そう、自分へ言い聞かせていた。
だけど、違った。
私は――黒杉楊一という一人の男の子に、恋をしていた。
最初にして、最後の恋。
ようやく気づいた時には、もう遅かった。
しばらくして、晴渡さんが立ち上がった。
「あーあ、なんだか眠くなってきちゃった。そろそろ戻るね」
「ああ」
「楊一も風邪を引かないようにね」
晴渡さんは歩き始める。
けれど、途中で足を止めると、黒杉くんへ振り返った。
「だから、ちゃんと見てるからね」
月明かりの下で、晴渡さんが微笑む。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
(……聞きたくない)
これ以上、二人の会話を聞いていたくなかった。
私は踵を返し、その場から逃げ出した。
ただ、逃げるように。
涙で滲む視界のまま、王城の廊下を走った。
「お? 御剣じゃ――」
誰かの声が聞こえた。
危うく肩がぶつかりそうになる。
「ご、ごめん……!」
顔を上げることもできず、私はそのまま走り去った。
誰だったのかも分からない。
声すらまともに耳へ入らないほど、動揺していた。
その夜――。
私は枕へ顔を埋め、声を押し殺しながら泣き続けた。
――――――一樹視点
「……なんだったんだ?」
今のは御剣だったよな。
顔を伏せていたから、はっきりとは見えなかった。
けれど、何か様子がおかしかった。
普段の澄ました顔とは違う。
なんというか――妙に弱々しくて、いつもの御剣らしくない顔をしていた。
いや、それどころか、一瞬だけ女みたいに見えた気さえする。
(何かあったのか?)
そう考えていると、廊下の向こうから見慣れた顔が歩いてきた。
「あれ、一樹。こんなところで何してるんだ?」
「あぁ、楊一か」
楊一が軽く手を上げる。
「帰りが遅かったからさ。板野に絡まれてるんじゃないかと思って、探しに来たんだ」
「悪い悪い。ちょうど戻るところだったんだ。一緒に部屋へ戻ろう」
どうやら何事もなかったようだ。
それなら、それでいい。
歩き始めながら、俺は何となく尋ねた。
「そういや、御剣には会ったか?」
「御剣? いや、会ってないけど」
「……そうか」
なら、楊一は関係なさそうだ。
さっきの御剣の妙な様子も、別のことが原因なのだろう。
(まあ……考えても仕方ないか)
少し引っ掛かるものは残った。
だが、本人が何も話していない以上、無理に踏み込むことでもない。
「じゃあ、部屋へ戻るか」
「ああ」
俺達は他愛もない話をしながら、静かな廊下を歩いて部屋へ戻った。
みっちゃん……




