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プロローグ

2026/05/28 更新

途中で改稿前のストーリーがごっちゃになってるところがあります。ストーリーは事態は同じです。

それでもよろしければ、見てくれると嬉しいです。

同じ夢を繰り返し見るようになったのは、最近のことだ。

夢の内容は酷く曖昧だった。

まるで指の隙間から零れ落ちる砂みたいに、記憶が少しずつ崩れていく。

掬い上げても、形を思い出そうとしても、風に攫われるように消えてしまう。

必死に集めようとするほど、夢は遠ざかっていく。


白かったはずの景色。

誰かの声。

何か大切だった感情。

その全部が、波にさらわれた足跡みたいに薄れていく。

なのに――。


胸の奥だけは、異様なほど熱を持っていた。


忘れていく恐怖とは真逆に、

心臓だけが「忘れるな」と激しく脈打っている。


掻き消えそうな夢の残滓を、

必死に両手で掬い集めているような感覚だった。


――忘れてはいけない。


本能が、そう警鐘を鳴らしていた。

白い空間の中に、一人の少女が立っていた。


第一印象は――月。


月光を溶かして編み上げたみたいな白銀の髪が、静かな風に揺れている。

透き通るほど白い肌は、この世界のものとは思えないほど儚く、美しかった。


ルビーのような紅い瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。

その瞳には、どこか人間離れした静けさと、胸を締め付けるほど強い意志が宿っていた。

まるで夜空そのものに見つめられているみたいで、息をすることすら忘れそうになる。


見つめ返そうとしても、何故か直視できなかった。

神秘的すぎるその存在に、本能が畏れているのかもしれない。

視線を逸らした瞬間、少女の白い手がそっと自分の手を掴む。


冷たいはずなのに、不思議と温かかった。

顔を上げる。

少女は何かを伝えようとしていた。

けれど、この白い空間では声が聞こえない。

それでも、不思議と分かった。

口の動きだけで、彼女が何を言っているのか理解できた。


────「待ってる……貴方のことを」


君は誰?


純粋な疑問だった。

会った記憶もない少女が、自分を待っていると言う。

何故、自分なのか。

自分は特別な人間じゃない。

頭が良いわけでも、運動ができるわけでもない。

誰かを救える力なんて持っていない。


ただ周囲に流されて、平凡な毎日を生きているだけの人間だ。

何かを変えられるわけでもない。

誰かの希望になれるわけでもない。


そんな“何者でもない自分”を、どうして彼女は待っているのだろう。

理解できなかった。


それでも――。


少女の瞳に見つめられると、不思議と拒絶する気持ちは湧かなかった。

慈愛に満ちたその眼差しは、

まるで「それでもいい」と言ってくれているみたいだった。

少女の唇が、再び静かに動く。


────「私は――」


その瞬間だった。

彼女が名前を告げようとした途端、

世界そのものが拒絶するみたいに、耳障りなノイズが空間へ走った。


キィィィィ――――ン……


頭の奥を直接引っ掻かれるような、不快な音。

まるで“何か”が、

彼女の名前を知ることを許していない。

いや――。


“思い出させまい”としているようだった。


声は歪み、

輪郭を失い、

彼女の名前だけが黒く塗り潰されたみたいに聞き取れない。


その異様な拒絶に、思わず息が詰まる。

少女は悲しそうに目を伏せた。

そして、繋いでいた手をゆっくり離していく。


待って――!


反射的に手を伸ばす。

だが、届かない。

追いかける。

何度も。

何度も。

必死に手を伸ばし続ける。

けれど、そのたびに白かった空間は闇に侵食されていった。


足が重い。

鉛みたいに動かない。

それでも、手を伸ばすことだけはやめられなかった。

少女は最後に、どこか寂しそうに微笑んだ。


────「待ってる」


ノイズ混じりの声だけを残して、少女は闇の中へ溶けるように消えていった。

そこで、目が覚めた。


「……なんで、こんなに汗かいてるんだ?」


起き上がった瞬間、服が肌に張り付く。

シーツまでびっしょり濡れていた。

まるで悪夢に魘されていたみたいだった。

気持ち悪さに顔をしかめ、慌てて服を脱ぎ捨てる。

夏でもないのに異常な汗だった。

息も少し荒い。

心臓だけが、まだ夢の続きを見ているみたいに脈打っている。

悪夢だったのだろうか。

そう考えながら、夢の内容を思い出そうとする。

けれど――。

掴みかけた記憶は、指先から崩れる砂みたいに零れ落ちていく。


白い空間、少女、声。

何か大切だったはずなのに、輪郭だけを残して消えていく。

気味が悪かった。

異様で、現実感がなくて、

まるで“自分の知らない記憶”を無理やり見せられたみたいだった。

なのに、不思議と恐怖はない。

怖いはずなのに、

胸の奥には嫌悪よりも、奇妙な喪失感だけが残っていた。

何かを忘れてしまった。

とても大切な何かを。

そんな感覚だけが、妙に心へ引っ掛かって離れない。

ただ一つだけ。

月みたいな少女の姿だけは、何故か頭に焼き付いていた。


「……変な夢だな」


小さく呟き、黒杉楊一はベッドから立ち上がった。

カーテンを開ける。

途端に、柔らかな朝日が部屋へ差し込んだ。

さっきまで自分を包んでいた白い空間も、少女の面影も、夢の中の異様な空気も――朝の光に押し流されるように薄れていく。


窓の外では車の走る音が聞こえる。

どこかの家からはテレビの音。

通学する学生達の笑い声。

当たり前の日常。

現実は、驚くほど普通だった。

つい数分前まで、あんなにも胸を締め付けていた感覚が嘘みたいに思えてくる。

楊一は小さく息を吐くと、制服へ着替え始めた。

クローゼットから取り出した制服は、昨日と何も変わらない。


見慣れたシャツ。

見慣れたネクタイ。

見慣れた学ラン。


夢の中の幻想的な光景とは正反対の、どこまでも現実的な日常。

ただ一つ違っていたのは、胸元の学年バッジだけだった。


黒杉楊一は、この春から高校二年生になった。


着替えている途中、不意に部屋の外から元気な声が響く。


「楊一ー! 早く起きなさい! ご飯できてるわよー!」


聞き慣れた母の声だった。

その瞬間、胸の奥に残っていた得体の知れない不安が、少しだけ薄れていく。

さっきまで見ていた夢があまりにも現実離れしていたせいか、

誰かの“いつもの声”を聞いただけで、不思議と安心した。

ちゃんと日常がここにある。

そんな当たり前のことに、ようやく現実へ引き戻された気がした。


「今着替えてる!」


慌てて返事をしながらシャツに腕を通す。

その拍子に机へ身体をぶつけ、置いてあった時計が床へ落ちた。


「あっぶな……」


時計を見る。

時刻は七時三十分。


「やばっ……」


普段より十五分ほど遅い。

楊一は一気に目を覚ますと、頭の中で慌ただしく時間を逆算し始めた。

学校までは徒歩二十分。

八時十分までに家を出れば間に合う。


残り四十分。


朝食十分。

歯磨き五分。

髪セット三分。

着替えは今ので終了。


そこで一度計算を止める。


「……シャワーは無理だな」


朝のシャワーは日課だった。

寝起きの気持ち悪さを流さないと落ち着かない。

だが今日は時間が足りない。


「シーブリーズで誤魔化すか……」


脳内でスケジュールを組み直す。


朝食十分。

歯磨き五分。

整髪三分。

荷物確認二分。

残りは移動時間。


――いける。


「八時までに家出れば間に合う!」


自分に言い聞かせるように頷くと、制服の襟を整え、鞄を掴んで一階へ駆け下りた。

リビングへ入った瞬間、味噌汁の香りが鼻をくすぐる。

テーブルには朝食が並び、母がちょうどご飯をよそっていた。


「おはよう、母さん」

「おはよう、楊一」


いつも通りの穏やかな笑顔。

その姿を見ているだけで、さっきまで胸の奥にまとわりついていた夢の気味悪さが、少しずつ薄れていく。

白い空間も、少女の声も、今は遠い。

代わりにあるのは、味噌汁の匂いと、朝の食卓の温かさだった。

席へ座ると、母が呆れたように言う。


「ほら、早く食べなさい。一樹くんと美空ちゃん、もう外で待ってるわよ?」

「え、今日早くない?」

「あんたが遅いのよ」


正論だった。

楊一は苦笑しながら味噌汁を啜る。

温かい。

徹夜明けみたいに重かった身体へ、じんわり熱が染み込んでいく。

さっきまで感じていた不安も、

こうして朝ご飯を食べているだけで、少し馬鹿らしく思えてくるから不思議だった。

ふと、楊一はあることに気づく。


「あれ、父さんは?」


いつもなら新聞を読みながら座っているはずの席が空いていた。


「あの人なら今日は休み。疲れてまだ寝てるわ」

「最近忙しそうだったもんな」

「二十三連勤だもの。今日くらい好きに寝かせてあげないと」

「二十三……?」


思わず顔が引きついた。

二十三連勤。

その言葉の重さに、現実感が薄れる。

高校生の自分には、まだ想像もつかない世界だった。

朝から夜まで働いて、

休む暇もなく、

疲れ切って倒れるみたいに眠る。

それを“当たり前”として生きていく。


――いつか、自分もそうなるのだろうか。


そう思った瞬間、将来というものが急に遠くて、重苦しいものに感じられた。

大人になるって、もっと自由なものだと思っていた。

なのに現実は、ただ擦り減っていくだけみたいで。

ほんの少しだけ、気が遠くなる。

楊一は誤魔化すように味噌汁を飲み干した。

朝食を終えると、鞄を持って玄関へ向かう。

母も後ろからついてくる。


「今日は何時に帰るの?」

「一樹の家で勉強するから少し遅くなるかも。向こうでご飯食べるなら連絡するよ」

「分かったわ。気を付けてね」

「いってきます」


玄関の扉を開ける。

すると――。


「よう! 楊一!」

「おはよ、楊一!」


快晴の空の下、一樹と美空が立っていた。


「二人ともおはよう」


そう返すと、一樹が珍しそうに目を丸くする。


「お前がこの時間に出てくるとか珍しくねぇ?」

「ほんと。楊一って、いつも十分前行動するタイプなのに」


美空まで小さく笑う。

確かにその通りだった。

俺は昔から時間に細かい。

待ち合わせ時間の十分前には着くし、

電車の時間も逆算して動く。

遅刻しそうになる状況そのものが落ち着かなかった。

だからこそ、今日みたいにギリギリで家を出るのはかなり珍しい。


「寝坊しちゃってさ」


苦笑しながらそう言うと、一樹は豪快に笑った。


「ははっ! 楊一でも寝坊とかするんだな!」


山崎一樹やまざき いつき


昔からの親友で、いわゆる“陽キャ”という言葉がそのまま人になったような男だ。

スポーツ万能。

身体能力は高く、

運動部でもないのに、校内では結構有名だったりする。

特に格闘技が好きで、

ボクシング、空手、柔道、果ては海外の総合格闘技まで妙に詳しい。

そのくせ勉強は壊滅的で、

テスト前になると毎回「頼む楊一ぃぃ!!」と泣きついてくるのが恒例になっていた。

ただ、一樹の凄いところはそこじゃない。

誰とでもすぐ打ち解けるし、

空気を読むのも上手い。

喧嘩っ早そうに見えて、意外と周囲をよく見ている。

だからこそ、

こうして昔から変わらず一緒にいられるんだと思う。

ちなみに今日も放課後、一樹の家で勉強会をする予定だ。


「あんた達! 急がないと遅刻するわよ!」


前を歩いていた美空が、呆れたように振り返る。


晴渡美空はれわたり みそら


楊一と一樹の幼馴染で、

昔から何をやらせても卒なくこなすタイプだった。

成績は学年上位。

運動神経も抜群。

しかも、それを鼻にかけることもない。

困っている人がいれば放っておけないし、

面倒見も良い。

だから男女問わず人気がある。

整った顔立ちも相まって、

校内ではかなり有名人だった。

本人は気づいていないが、

密かに“ファンクラブ”みたいなものまで存在しているらしい。

もっとも、美空本人にその話をすると、

「意味わかんない」と本気で嫌そうな顔をするので、誰も直接は言わない。

ただ――。

そんな完璧超人みたいな美空でも、

昔から一緒にいる自分達には割と容赦がない。


「ほら、楊一も一樹も急いで!」


そう言って先を歩いていく姿は、

昔からずっと変わっていなかった。


そんな二人と比べれば、俺は本当に普通だった。


成績は中の上くらい。

運動も平均。

何か特別な才能があるわけでもない。

一樹みたいに人を引っ張れるわけでも、

美空みたいに何でも完璧にこなせるわけでもなかった。

どちらかと言えば目立たないタイプだ。

争い事も苦手で、

出来るなら穏便に済ませたい。

誰かとぶつかるくらいなら、

自分が少し引けばいいと思ってしまう。

だから、多分。

俺一人だったら、

こんな風に毎日騒がしく笑って過ごすこともなかったんだと思う。

けれど――。

そんな俺でも、

二人と一緒にいる時間は嫌いじゃなかった。

三人は昔からずっと一緒だった。

泥だらけになって公園を走り回っていた頃から、

今までずっと。

中学も高校も同じ。

もう腐れ縁みたいなものだ。

学校へ向かう途中、一樹がふと思い出したように口を開く。


「そういや今日、変な夢見たんだよな」

「夢?」

「あ、私も!」


美空まで食いついてきた。

どうやら一樹は、見知らぬ草原に立っている夢を見たらしい。

初めて見る景色なのに、何故か懐かしかったという。


美空は、誰かが崖から落ちる夢を見たらしい。

顔は見えなかった。

でも、とても大切な人だった気がした――と。

その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥が小さくざわついた。

朝見た夢が脳裏を掠める。


白い空間。

月みたいな少女。

闇に消えていく背中。

忘れているはずなのに、

その“感情”だけがまだ胸に残っていた。


「それで今日は二人とも早起きだったのか」

「まあな」

「一樹が早起きしてたのは私もびっくりした」

「うるせぇ」


二人はいつも通り笑っている。

けれど、自分だけ少し落ち着かなかった。

偶然にしては、妙に引っかかる。

三人とも“夢”を見ていた。

しかも、どこか現実みたいな感触を残す夢を。

そんな流れで、俺も自分の夢の話をした。


白い空間。

月みたいな少女。

暗闇。


話している間も、胸の奥が微かに熱を帯びていた。


「へぇ、女の子の夢か」


一樹がニヤニヤする。


「可愛かったのか?」

「……それが、顔を思い出せないんだよな」


思い出そうとする。

だが、掴みかけた瞬間に霧がかかったみたいにぼやけて消える。

まるで、思い出すこと自体を拒まれているみたいだった。


「でも……綺麗だった気はする」


自分でも曖昧な答えだった。


「ふーん……」


何故か一樹は残念そうに唸る。

自分の夢でもないのに、何が不満なんだ。


「それ以外、本当に覚えてないの?」


美空が少し真面目な顔で聞いてくる。

その視線に、

思わず自分でも考え込んでしまう。

何か大事なものを忘れている気がする。

なのに、それが何なのか分からない。

思い出そうとするほど、

指の隙間から零れる砂みたいに記憶が崩れていく。


「うん……そこだけ曖昧なんだ」


そう答えるしかなかった。


「そっか」


それ以上、美空は追及しなかった。

やがて話題はいつもの日常へ戻っていく。

けれど――。


胸の奥に残った小さな違和感だけは、

最後まで消えなかった。


そんな会話をしているうちに、学校へ到着する。

この時の俺達は、まだ知らなかった。

これが“始まり”に合図とういことを。


―――― 学校の教室


学校に着くと、一樹は「トイレ行ってくる」と言い、美空も「取りに行く物がある」と別行動になった。

俺は一人で教室へ向かう。

だが――教室へ入った瞬間、空気が変わった。

ざわついていた教室が、一瞬だけ静かになる。

視線が集まる。

そして、その中心にいる男を見た瞬間、

思わず顔をしかめた。


「――よぉ!! 黒杉くぅ〜ん!!」


下品な笑い声。

大柄の男が、取り巻きを連れてこちらへ歩いてくる。


板野正和いたの まさかず


教室の空気を自分のものみたいに振る舞う、

俺が一番関わりたくないタイプの人間だった。


「今日も辛気くせぇ顔してんなぁ〜?」

「寝不足かぁ? それとも人生そのものがつまんねぇのか?」


取り巻き達がゲラゲラ笑う。

板野は俺の机へ勝手に腰を乗せると、

見下すように口元を歪めた。


「なぁ黒杉。お前ってさぁ、“いる意味薄い”よな?」

「……」

「勉強も普通。運動も普通。顔も普通」

「しかも暗ぇし、つまんねぇし」


わざと周囲へ聞こえるように声を張る。


「マジで何が取り柄なの? お前」


教室の空気が少しだけ重くなる。

笑っている奴もいれば、

気まずそうに目を逸らす奴もいた。

板野は、そういう空気を楽しむタイプだった。

誰かを見下して、

周りが笑う空間を作って、

自分が一番上に立ってる気にならないと気が済まない。


「まぁでもさぁ」


板野はニヤニヤしながら、わざと俺の肩へ腕を回してくる。


「美空ちゃんと毎日イチャつけるなら、お前みたいな陰キャでも人生楽しいか?」


その瞬間。

教室の空気がさらにざわついた。

板野はそれを見て、満足そうに笑う。

俺が嫌がる反応も、

周囲が困る空気も、

全部含めて楽しんでいる顔だった。


「……」


正直、殴りたくなる。

けれど、ここで言い返せば、

板野はもっと面倒臭くなる。

だから俺は、黙って睨み返すだけだった。

すると板野は、つまらなそうに鼻で笑う。


「おぉ怖ぇ怖ぇ」

「その目。陰キャのくせに反抗的じゃん」


そう言って、

今度は肩を強く掴んだ。


「でもさぁ――」


耳元で、低く囁く。


「お前、美空ちゃんの隣にいるの……マジで身の程わきまえろよ?」



ここまで執着してくる理由は分かっている。


――美空だ。


板野が美空に好意を持っているのは、見ていれば何となく分かる。

その美空が、毎日俺達と一緒にいるのが気に入らないのだろう。

自分より下だと思っている相手が、

自分の欲しいものを当たり前みたいに隣に置いている。

それが我慢できないんだ。

本当にくだらない。

そう思っていると、板野は俺の肩を掴んだまま、口元を歪めた。


「なぁ黒杉」


低い声だった。

さっきまでみたいに周囲へ聞かせる声じゃない。

もっと粘つくような、不快な声音。


「お前さぁ……最近ちょっと勘違いしてねぇ?」

「……」

「美空ちゃんと毎日一緒にいるからって、自分が特別になった気でいる?」


肩へ食い込む指の力がさらに強くなる。

ガタイが良い分、握力も強い。

鈍い痛みがじわじわと広がった。


「お前みたいな地味な奴がさぁ」

「周りからチヤホヤされる側にいちゃ駄目だろ」


板野は嘲笑う。


「分かるか? “場違い”って言葉」


教室が静まり返る。

誰も止めない。

いや、止められない。

板野はこういう空気を作るのが上手かった。

誰かを笑い者にして、

周囲を巻き込んで、

自分が上に立っている空気を作る。

それを全部、“イジり”みたいに誤魔化す。

だから余計に厄介だった。


「……」


正直、腹は立っていた。

でも、ここで言い返したら、

板野はもっと面倒臭くなる。

自分だけじゃなく、

一樹や美空にまで絡み始めるかもしれない。

だから俺は、黙って睨み返すだけだった。

すると板野は、鼻で笑う。


「うわ、その顔」

「マジでムカついてんじゃん」


そう言って、さらに肩へ力を込めた。

骨が軋むみたいに痛い。

それでも顔を歪めまいと、

必死に平静を装う。

だが次の瞬間――。

肩の痛みがふっと消えた。

誰かが板野の腕を掴んでいた。

振り向けば、一樹が立っていた。


「教室入る前にトイレ寄ってたら、何やってんだよ。板野テメェ……」


低い声だった。

振り向けば、一樹が板野の腕を掴んでいた。

その瞬間、

教室の空気がさらに張り詰める。

板野と一樹。

この二人は昔から最悪だった。

顔を合わせれば噛みつき合う。

性格も価値観も真逆。


板野は“他人を見下して上に立ちたい人間”で、

一樹は“そういう奴が一番嫌いな人間”だった。


だから相性が致命的に悪い。


「おやおやおやぁ? 一樹じゃねぇか」


板野はニヤついたまま、一樹を見上げる。


「相変わらず黒杉にベッタリだなぁ?」

「保護者気取りか?」

「……は?」


一樹の声が低くなる。

板野はさらに口角を吊り上げた。


「つーか、お前さぁ」

「そんな必死に庇ってると、マジで犬みてぇだぞ?」

「主人守ってキャンキャン吠えるタイプの」


取り巻き達が笑う。

その瞬間、一樹の目つきが変わった。

空気が一気に冷える。


「あ? 今なんつった?」

「別にぃ?」

「黒杉みたいな陰キャに付き合ってるお前も、大概変わってるよなって話」

「……」

「だって普通さぁ、もっとマシな奴とつるむだろ?」

「お前、顔も広いし運動も出来るしさぁ」

「なのに、なんでそんな地味男の世話係やってんの?」


板野は完全に煽っていた。

一樹がキレるのを分かった上で。

すると一樹は、鼻で笑う。


「お前みたいに、弱ぇ奴見つけてイキる趣味ねぇからだよ」

「……あ?」

「つーかさぁ」

「お前、自分がクラスの中心だと思ってるみたいだけど」

「周りから普通に嫌われてるの気づいてる?」


教室が静まり返る。

板野の顔から笑みが消えた。

一樹はさらに続ける。


「猿山のボス気取りしてるけど、猿の方がまだ空気読めるんじゃねぇか?少なくとも、お前より頭悪くはなさそうだわ」

「テメェ……」


板野の額に青筋が浮かぶ。

一樹も腕を掴んだまま離さない。

互いに睨み合う。

今にも殴り合いになりそうだった。


「一樹、もういいって」


俺は慌てて声をかける。

だが、一樹は視線を外さない。


「良くねぇだろ」

「こいつ、お前に調子乗りすぎなんだよ」


その声には、

本気で怒っているのが滲んでいた。

自分のことみたいに怒ってくれている。

それが分かるからこそ、

余計に申し訳なくなる。


「でも――」


「ちょっと!! 何してんの!?」


鋭い声が教室へ響いた。

美空だった。

教室へ入ってきた瞬間、

険しい顔で駆け寄ってくる。

その表情を見た瞬間、

板野は小さく舌打ちした。


「……チッ」


そして乱暴に一樹の手を振り払う。

最後に俺を睨みつけてから、

不機嫌そうに自分の席へ戻っていった。

教室に重かった空気が少しずつ戻る。


「楊一、大丈夫!?」


美空が真っ先に俺の肩へ触れる。

心配そうに顔を覗き込んできた。


「痛くされてない?」

「変なことされてない?」


いつもの落ち着いた美空とは違う。

本気で焦っている顔だった。

一樹も苛立ったまま舌打ちする。


「楊一、お前マジでたまには言い返せって」

「じゃねぇと、ああいう奴どんどんエスカレートするぞ」


分かっている。

でも――。

争いたくない。

言い返して、

もっと面倒になる方が怖かった。


「あはは……ごめん」


苦笑いする。


「でも、自分そういうの苦手なんだ」


すると二人は、

同時に嫌そうな顔をした。


「そこが心配なのよ」

「そうそう。お前、我慢しすぎなんだよ」


一樹は深くため息を吐く。


「お前さぁ、自分が傷つくのは平気でも」

「見てるこっちは普通に腹立つんだわ」


その言葉に、少しだけ胸が詰まった。


美空も小さく頷く。


「頼ってよ、ちゃんと」

「一人で我慢される方が嫌だから」


二人とも、本気で心配していた。

その気持ちが伝わってくるから、

余計に申し訳なくなる。


「……ありがと」


そう言うと、

ようやく二人は少しだけ表情を緩めた。

しばらくして空気も落ち着き、

一樹は肩をすくめながら言う。


「まぁ、困ったらちゃんと言えよな」

「今度はもっと早く止めるから」


美空も笑う。


「そうそう。ちゃんと頼りなさいよね!」


二人はそれぞれ自分の席へ戻っていった。

――本当に、良い友達を持ったと思う。

そう感じながら、自分も席へ座る。

ちょうど朝のホームルームの時間だった。

担任の教師が教室へ入ってくる。


「ホームルーム始めるぞー。早く席つけー」


先生は気だるそうに欠伸をしながら出席簿を開いた。


昨日は徹夜でゲームでもしていたのだろうか。

目元には薄くクマが浮かんでいる。


いつも通りの朝、いつも通りの教室。

誰もが、

この数分後に“世界そのもの”が壊れるなんて思っていない。


現在――九時九分。

ふと、時計を見た。

その瞬間だった。

先生の声より、生徒達のひそひそ話より。


何故か、秒針の音だけが異様に耳へ響いた。


ッチ……ッチ……ッチ……


背筋が粟立つ。

冷たい指で、首筋をなぞられたみたいな悪寒。

俺の席は後ろの窓際だ。

時計からは遠い。

なのに――。

秒針の音だけが、耳元で鳴っているみたいに近かった。


いや、違う。

近づいている。

音が、じわじわと、ゆっくりと。

逃げ場を塞ぐみたいに。


「……っ」


息が詰まる。

何かがおかしい。

理由は分からない。

なのに本能だけが、

必死に警鐘を鳴らしていた。


逃げろ、今すぐ、ここから。

先生が出席簿を見ながら名前を呼ぶ。


「黒杉陽一」


ッチ……


ッチ……


ッチ……


音が頭の中へ入り込んでくる。

周囲の音が遠ざかる、笑い声。

椅子を引く音、誰かの咳払い。

全部、水の中みたいにぼやけていく。

その代わりに、

秒針の音だけが異様な存在感を持って響いていた。


チッ……


チッ……


チッ……


鼓動が早くなる。嫌な汗が背中を伝う。

胸の奥がざわつく。


違う。


これは緊張じゃない。

もっと根源的な――“生き物としての恐怖”だった。


まるで、自分では理解できない何かが、

すぐ近くまで来ている感覚。


心臓が暴れる、息が浅くなる、喉が乾く。


視界が歪む。


時計の針が、次の一分へ近づくたびに。


“何か”が、こちらへ近づいて来る気がした。


嫌だ、怖い。


何が怖いのかも分からないのに、身体だけが震えていた。


その時、歪んだ世界の中で、先生の声だけが唐突に鮮明になる。


「黒杉陽一!!」

「せ、先生っ……!」


返事をしようとした、その瞬間――。


カチッ。


秒針が動いた。

時計を見る。


――九時十分。


その瞬間。世界が、壊れた。


ゴォンッ――――!!!


耳を裂くような轟音。


校舎全体が爆発したみたいに揺れた。

床が跳ねる。

窓ガラスが悲鳴みたいな音を立てる。


「きゃあああああっ!!」

「うわぁぁぁっ!?」

「なんだよこれぇぇ!!」


教室中が悲鳴に包まれる。

だが、それ以上に恐ろしかったのは――。


鐘の音だった。


ゴォォォン……


ゴォォォン……


重い、暗い。


まるで“死”そのものが鳴いているみたいな音。

学校のチャイムじゃない。

もっと古く、もっと禍々しく。

聞いているだけで、

本能が「終わりだ」と理解してしまう音だった。


「な、なんだよこれ……!」


誰かが泣き声混じりに叫ぶ。

その瞬間、床が赤く光った。


「――っ!?」


タイルの隙間から、

赤黒い光が滲み出している。


まるで床の下に、

巨大な“何か”が脈打っているみたいだった。

ぞわり、と全身に鳥肌が走る。

光はゆっくり広がっていく。

いや、広がっているんじゃない。


“描かれている”。


教室全体へ、巨大な紋様が。

円、文字、理解不能な記号。

赤い線が、生き物みたいに蠢きながら床を這っていく。


そして完成した。


――巨大な魔法陣。


その瞬間、教室の空気が変わった。


重い、息が苦しい、耳鳴りがする。

空間そのものが、

軋んでいるみたいだった。


あり得ない。

現実じゃない。


なのに、脳だけが理解してしまう。

“これは人間が触れてはいけないものだ”と。

恐怖が背骨を駆け上がる。


本能が叫ぶ。

逃げ。逃げろ、逃げろ。


「一樹!! 美空!!」


気づけば叫んでいた。

二人へ向かって必死に手を伸ばす。


「楊一!!」

「楊一っ!!」


二人もこちらへ駆け出す。


だが、遅かった。

魔法陣が、太陽みたいに眩く発光する。

視界が白に焼き潰される。


耳鳴り、吐き気、身体がどこかへ引きずり込まれる感覚。

重力が消える、落ちているのか、浮いているのか、それすら分からない。

最後に見えたのは。


必死にこちらへ手を伸ばす、

一樹と美空の顔だった。


その直後――。

俺の意識は、闇へ呑み込まれた。




――――夢



また、あの夢だ。

だが、いつもの白い空間ではない。

辺り一面、闇。

底も、果ても分からない黒。

音すら沈み込んでいくような静寂の中に――一人の少女がいた。

見覚えがある。


そうだ、何度も夢に現れる少女だ。


少女は、闇の中で膝を抱えるようにうずくまっていた。

その姿を見た瞬間。

胸の奥が、ずきりと痛む。


理由なんて分からない。

会ったこともない。

名前も知らない。


なのに――。


まるで昔から知っていた誰かを見つけたみたいに、胸がざわついた。

闇の中は相変わらず、鉛みたいに足が重い。

一歩踏み出すたび、何かに沈んでいく感覚がする。

それでも、自分は前へ進くのをやめなかった。

近づかなければいけない、一人にしてはいけない。


そんな感情だけが、妙にはっきりしていた。

ゆっくりと少女へ近づく。

すると少女は、こちらへ気づいたように顔を上げた。

その瞬間、何故か、一瞬だけ。


“本当に人間なのか?”


そんな考えが頭をよぎる。


紅い瞳。

白すぎる肌。

月光みたいな髪。


綺麗なのに、現実感がない。


まるで――最初からこの世界に存在していないものを見ているみたいだった。

なのに、不思議と怖くない。

むしろ、安心してしまう。

それが余計に異常だった。

少女は小さく口を開く。

今度は――はっきり聞こえる声で。


――――「寂しい……」


その声は小さかった。

けれど、胸の奥へ直接落ちてくるみたいに響いた。

まるで、ずっと独りだった人間が零した声みたいで。

その瞬間、自分でも分からない感情が込み上げる。

苦しい、胸が締め付けられる。

どうしてこんなに心が痛むんだ。

まるで、自分まで長い間、何かを失くしていたみたいに。

気づけば、自然と声をかけていた。


「どうしたの?」


少女はゆっくり振り向く。


――泣いていた。


静かに、けれど、今にも壊れてしまいそうな顔で。

その表情を見た瞬間、胸の痛みがさらに強くなる。

会ったこともないはずなのに、何も知らないはずなのに。

どうして、こんなにも悲しいんだろう。

どうして、この涙を見たくないと思うんだろう。

気づけば、自分まで泣きそうになっていた。

悲しませたくない、独りにしたくない。

ただ、それだけを強く思った。

だから、自分は本心から言葉を口にする。


「必ず迎えに行くから……だから、泣かないでよ」


その瞬間、少女は、少しだけ目を見開いた。


驚いたように。


――まるで、“その言葉を待っていた”みたいに。


そして次の瞬間、少女は、酷く嬉しそうに笑った。

その笑顔は綺麗で、優しくて、


なのに何故か――。


触れてはいけない存在のはずなのに――不思議と、安心してしまった。

そして少女の身体は、闇へ溶けるように薄れていく。


「待っ――」


咄嗟に手を伸ばす。

だが、その手はまた空を切った。







「ッハ……!」


肺が焼けるみたいに息を吸い込む。

勢いよく身体を起こした瞬間、視界がぐらりと揺れた。

荒い呼吸のまま目元へ触れる。

指先が濡れていた。


「なんで……泣いてるんだ……?」


頬を伝っていた涙は、まだ温かかった。

夢の内容は思い出せない。


なのに――胸の奥だけが、ひどく痛い。

大切な何かを置いてきてしまったような、奇妙な喪失感だけが残っていた。

呼吸を整えながら周囲を見渡す。

そこで、違和感に気づいた。


「……どこだ、ここ?」


冷たい床。

鼻を抜ける、石と金属が混ざったような匂い。

高すぎる天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、白い壁には金の装飾が刻まれている。

床には赤い絨毯が真っ直ぐ奥まで伸び、左右には甲冑を纏った騎士達が整列していた。

まるで――。

RPGや映画で見た、西洋の王城そのものだった。


あり得ない、さっきまで、自分達は学校にいたはずなのに。

動揺していると、周囲でも次々と生徒達が目を覚まし始める。


「ここどこだよ!?」

「なんなんだよ、これ!?」

「意味わかんないんだけど!」


悲鳴と混乱が広がる。

中には泣き出している生徒までいた。

その声が、広い空間へ不気味に反響する。


自分はゆっくり立ち上がった。

足元の感覚がまだ現実じゃないみたいに頼りない。


その時だった。


「「楊一!」」


聞き慣れた声。

振り向けば、一樹と美空がいた。


「一樹! 美空! 良かった……無事だったんだね!」

「あったりめぇだろ!!」


一樹のいつも通りの声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩む。

だが、美空は不安そうに周囲を見回していた。


「ここ……一体どこなの?」


それは俺にも分からなかった。

ただ一つ言えるのは――ここが学校ではないということだけだ。

この場所そのものが、まるで現実じゃない。

そして――。


玉座の奥にいた“男”が、ゆっくりと立ち上がった。


白と黄金で彩られた煌びやかな城の中で、

その男だけが異質だった。


漆黒のマント。

闇をそのまま織り上げたような黒衣。

王冠を戴いた姿は、王というより――帝王。


男が立ち上がった瞬間。

ざわついていた空気が、嘘みたいに静まり返る。

ただ一歩、前へ出る。

それだけで空気が震えた。

騎士達は一斉に跪き、頭を垂れる。

その光景を見た瞬間、生徒達のざわめきも止まった。


その者は地を揺らすような重厚な声が、広間全体へ響き渡る。


「ようこそ!! 勇者殿!! 貴方達を待っていた!!」


勇者。


その言葉を聞いた瞬間、生徒達の間に動揺が走る。


「は……?」

「勇者って何だよ……」

「意味わかんない……」


誰も理解できていなかった。


ここはどこなのか。

何故、自分達がここにいるのか。

目の前の男は誰なのか。


ただ一つだけ、はっきり分かる。


――もう、自分達の日常には戻れない。


その予感だけが、胸の奥で静かに脈打っていた。


現在、改稿版を投稿しています。

そちらの方もストーリーは同じですが、話の内容や追加台詞など変わったり増えたりしていますので、主に、黒杉くんの殺され方など・・・是非読んでいただければと思っています。

※いずれ統合しますけど・・・。


改稿版URL

https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/1443099/


あと、気に入っていただけたら・・・ブクマしてくれると・・・うれしいなぁ(チラチラ

皆様の一回のブクマで励みになりますので、今後とも応援していただけると嬉しいです。

あわよくば、評k(ごめんなさい、調子乗りました。

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