第十話
(とりあえず、この件は保留にしておくか。
どっちにしろ、時間に正確な瀬野さんは連絡係としては優秀だもの)
甘い塊を噛み砕いてから、音矢は答えた。
「それは大変な事態です。
僕たちも及ばずながら内通者摘発の手助けをしたいのですが、
研究機関に出入りを許されていないので、どうにも……
瀬野さん、くれぐれも、ご自身の安全にお気をつけてください。」
「大丈夫。なんとかするわ」
彼女の声には、一点の陰りもない。
「それで、どんなふうに倒したの?」
(内通者がいるかもと言ってから、
僕の手口を知りたがるとは、やっぱり怪しいな)
情報漏洩の容疑者に、あらいざらい正直に話す気にはなれなかったので、音矢はとぼけることにした。
「まあ、これまで通り、血と下ネタの話ですので、
瀬野さんのお気には召さないでしょう。
返り血は僕の作業服でご覧になったし、下ネタはというと……
女性に、みだらな行為をするとか話しているうちに、
相手の[持ち物]が見る間にムクムクと大きくなると言った次第で」
統帥権干犯について語った時の出来事を、音矢は意図的に省略して伝える。実際、あの会話の間に神代細胞は増殖し、手から生えた剣が急激に成長していった。患者の体格もそれにつれて大きくなった。
患者はずっと同じ位置に立っていた。それにもかかわらず、初めは遠すぎて電球の笠に届かなかった剣は、やがてそれにかすめるほどに、最後は激しく叩いて明かりを揺らすほどに伸びた。
剣と腕の長さが変化したことに気づいてないらしい患者を挑発し、間合いを読み違えて壁に斬りつけるように誘導して、音矢は剣を折ることに成功した。
そして、身長が伸びたことで電球に頭部が近くなってくれたことも利用した。音矢は[ペンギンくん]を拾ってから空間界面を発動し、鎖で電球のコードを引き寄せてぶつけ、患者を感電させた。
「なによ、そのふざけた話! あんた嘘をついてないでしょうね」
「いや、音矢くんは本当のことを言っている」
氷砂糖を食べ終わった翡翠が会話に加わった。
「あんな現象はボクも初めて見た。とても興味深い」
「そんなことに興味を持ってはダメ!」
翡翠としては、神代細胞が剣と化して成長する現象のことを言ったつもりだろうが、瀬野は誤解したようだ。
「なぜだ? あれはボクに……」
[ボクにとって重要な研究対象だ]、と続けるはずの言葉を、瀬野はさえぎった。
「確かに、翡翠くんにもあるものだけど、まだ早いでしょう!
子供のくせに、いやらしい」
「ボクは子供ではない。大人だ。そう言ったのは瀬野さんだ。
だから、ボクは労働の義務を果たすために……」
「ちょ、ちょっと! 翡翠くん! ダメじゃないの」
「ああっ!……そうか」
瀬野と翡翠の間に妙な空気が生まれる。気を利かせた音矢は、会話の流れを変えることにした。
「なんといっても、今回の大手柄は翡翠さんですね。
翡翠さんが第3号の患者……
南方実篤さんの足にしがみついてくれたおかげで、
攻撃する隙が作れましたよ。助かりました。ありがとうございます」
「そうだ! ボクはちゃんと働いたぞ!」
翡翠は胸を張る。
「ついでに、翡翠さんの口から今回のことを説明してもらえますか?
どうも、僕が話すと誤解されやすいみたいですし。
あはは。また悪い癖が出たみたいで」
「ああ、あの弁慶を悪い人のように表現したアレ?
そうだ。あんたはそういうヤツだったわね……
翡翠くんお願い。あなたなら普通に話してくれるでしょう?」
「わかった」
翡翠はゆっくりと今回の行動を話す。
しかし、その内容は瀬野を通じて礼文に伝わっても今後の作戦行動に支障はない。
(翡翠さんを足止めに使うこと、そして鎖を使うことや、
空間界面で窒息させることくらいは礼文だって考えつくだろうから、
どっちにしろ忠告する。瀬野さんだって助言するかもしれない)
(でも、一番肝心なことは暴走患者に伝わらない)
(敵の注意を引き、僕が計略を立てる時間を稼ぐために必要な
[ナゼナニ攻撃]については、翡翠さんに意義を教えていないからね)
(翡翠さんは、あれが一種の[お弔い]になると思っている。
死に行く人が持っている知識の一部でも引き継げば、彼らが生きた証になる。
だから気になる言葉が出てきたら丁寧に教えを請えと、
僕はあらかじめ頼んでおいた)
([なぜ、そうなる?] [あれは、なにか?] は
翡翠さんがいつも発している言葉だから、瀬野さんも不信感をもたない。
そして、[真世界への道]の信者は
訪れた[天使]に自分の行為を説明することになっているから、
礼文も重要視しないだろう)
(そして今も、翡翠さんは瀬野さんの注意をひきつけてくれている。
まったく助けになる仲間さ)
翡翠の話を聞きながら、瀬野は車を操縦している。音矢の行動を監視する暇などない。
(その間に、僕はこれを読もう)
音矢は革鞄を開け、小冊子と手紙を手に取った。神代細胞を翡翠が回収している間に2階を捜索し、実篤の部屋にあったゴミ箱で発見したものだ。
(こんなに面白いものが手に入った。
なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ)
抜刀隊のメロディを口笛で吹きつつ、音矢は[真世界への道]が発行した文書を読みふける。
瀬野は礼文の事務所に回収した神代細胞と制御石を届けに来た。ふだんなら、そこで事務的なやりとりがあるのだが、今日の彼女は感情をむき出しにして礼文を責めている。
「なにしてるのよ。ちゃんと関連文書は信者に焼かせるっていってたでしょう!
警察にみつかったらどうするのよ!」
勧められた椅子にも座らず、仁王立ちで彼女は声を張り上げているが、礼文は涼しい顔だ。
「音矢くんとやらが回収してくれたのだから、結果として問題はない。
なかなか気の利く男ではないか」
「でも、あいつに読まれてしまった……」
「ここの住所などの重要事項を記載したものは見つからなかった。
彼はそう言ったのだろう。だから、気にすることはない」
礼文はテーブルの上にある神代細胞が詰まった保存用の瓶を見つめている。その中身はこれまでとは異なっていた。
「それが本当かどうかわからないでしょう!
音矢が見つけた時に、重要な部分を隠したかもしれないじゃないの!」
「彼らを家に送ってから帰社するまぎわ、発見された文書を手渡されたときに、
それを君は言って、身体検査をしたそうだな。
しかし、なにも出てこなかったのだ。安心したまえ」
まったく気持ちをこめずに、礼文は瀬野をなぐさめた。
「それでも、恥ずかしくて下着の中までは見られなかったし……
重要な部分を破棄して、内容だけ暗記しているかもしれない……」
「なに、この事務所に彼が来たら、歓迎してやるさ。
なんなら、全てを説明してもよい。私としては、不都合はないよ」
「やめて!」
礼文はステッキを手に取り、L型グリップ部に彫られた三日月文様を指で撫でる。これを購入した日から、暇を見ては庭で杖術の稽古をしている。士官学校と実戦で鍛えた剣技と自信を、彼は日々取り戻しつつあった。
「どうしよう、これからも、こんなことが起きて、
翡翠くんに裏事情がバレてしまったら……
私がずっと嘘をついていたことがわかったら……
私は、嫌われてしまう。どうしよう……」
――これは
(本来なら焼却処分するはずだった)消せない痕跡(である関連文書)に
(嘘つきが)苦しめられる物語――
――そして――
「……瀬野さんが、そんなことを……」
過去の話を聞き、音矢は絶句する。患者の暴走で中断された会話を、今日彼らは再開していた。
翡翠は、孤島で音矢たちに神代細胞を投与することになったいきさつを語る。
「ボクは空間界面の研究ではなく、
水晶細胞の適応実験を行わなければならないと言われた。
でも、ボクは水晶の細胞が優先されて、
自分の空間界面を後回しにされるのが嫌だったので、ヘソを曲げた。
今ではあれも重要な研究課題だと思っているが、
あのときは全く興味が持てなかったんだ」
「いかにも翡翠さんらしい……」
(反応ですね、あはは)
おもわず笑いそうになって、音矢は後半を言わずにおく。この時点の彼は、まだ平静をたもっていた。
「その前に、瀬野さんから善悪について書かれた教科書ももらっていたから、
安全性が保障されていない実験で
これ以上人を殺すのはよくないとも思ったので、
なおさら嫌だと思った」
「最初は普通の道徳教育をしておいて、後から非合法な人体実験をしろと?」
(まったく、瀬野さんときたら段取りが悪いな。……
それとも、急に[研究機関]の方針が変わったのか?)
音矢は推理しながら、翡翠の話に耳をかたむける。
「何回も水晶細胞を実用化しろと言われたが、そのたびにボクはヘソを曲げた。
そうしたら、瀬野さんは絵本を持ってきた」
「絵本?」
「ああ、瀬野さんはそれを見せて説明してくれた。
桃太郎に征伐される鬼。四天王に退治される酒呑童子。
腕を切り落とされる羅生門の鬼。
彼らと同じくボクも鬼だと……
この角と、この醜い体がその証拠だと言われた。
そして、鬼は人々に嫌われて退治される。
だから研究機関に守ってもらわなければならない。
命令に従わなければ、保護を打ち切って、
ボクが人間に殺されるのを放置するとも言われた。
ボクは殺されるのが嫌なので命令に従うことにした。
でも、本当に自分が鬼で、研究者でもない普通の人がボクを迫害すると、
内心では信じていなかった。しかし……」
茶の間で音矢の隣に座る翡翠は、帽子を押さえた。その下に隠された角を意識しているようだ。
「それは正しいことが、孤島で証明された。
うっかり風に帽子を飛ばされて、君たちに見られたとき……
他の人は驚いて、気味悪がっていただろう」
「はい」
音矢はあの時のことを思い出した。
彼と同様に孤島に連行された3人の実験台は、翡翠をひどい言葉で罵ったのだ。
「でも、音矢くんだけは、平然としていた。
『まあ、誰にでも他人と違う個性はあるものです』と慰めてくれた。
だから……ボクの細胞を君に投与したんだ。
水晶の細胞だけを投与しろとは言われていた。
でもボクは……ボクと同じ存在が欲しかったんだ。
この世で一人きりでいるのは寂しかったから。
……せめて、暴走するまでの間だけでも、
君がボクと同じ細胞を共有する存在だったらうれしいと思って……
君の死を半ば予想しつつも、神代細胞を投与した。
やはり、ボクは姿だけではなく、心の中まで鬼なのかもしれない。
瀬野さんの言うとおりだ」
答えてから、翡翠はうつむいた。
「……瀬野さんが、そんなことを……」
翡翠の告白を聞いて、音矢は絶句する。彼は、無意識のうちに拳を握りしめていた。
(なんだよ、それは! ひどいじゃないか!)
だが、心に湧き上がった怒りは、翡翠に向けてのものではない。
あの日、瀬野が翡翠の帽子をかぶり直させるところを音矢は見ていた。風が強いことを配慮してのことなら、その直後に帽子が飛ばされるというのはおかしい。
(帽子が飛ぶように、瀬野さんはわざとアゴ紐を緩めていたんだ!)
(そうして、翡翠さんが皆の嫌悪を集めて、
自分がおぞましいバケモノだって思い込むように仕組んだんだ!)
(誰一人として味方がいない状態なら、
翡翠さんは瀬野さんの言うことを聞くしかない。
翡翠さんのやりたいことを止めて、
やりたくない実験を強制するために、脅した)
それが音矢にとっては癪に障る。
(翡翠さんにとって嫌なことをやらせるのに、
重ねて嫌な思いをさせるのは不当だ。
仕事に伴う苦痛をねぎらうなら、報酬を上乗せして与えるべきだ)
(大いに負担をかけているのに、瀬野さんは翡翠さんの希望を叶えようとしない。
まったく翡翠さんの心を考慮しようとしない)
(つまり、瀬野さんにとって翡翠さんの自由意思は必要ないんだ)
(翡翠さんは命令に従うだけの人形であってほしいと、
彼女は願っているんだろう)
痛みを感じて、音矢は下に目をやる。関節が白くなるほど握りしめられた自分の拳を見て、彼は気を取り直す必要を感じた。深呼吸してから、翡翠に質問する。
「瀬野さんは、他になにか言ってましたか?」
「君に翡翠細胞を投与したことが発覚したとき、瀬野さんに怒られた。
そして、これ以上余計なことをするな、話すなとも言われたのだが……」
翡翠は軽く首を横に振った。
「余計なことを話さないように、
必要がないときは部屋にこもっていろとも言われている。
最初は我慢していたのだが、
君と話すと楽しいからボクはつい茶の間に来てしまう」
「そういえば、ここに来たばかりの時は、ずっと閉じこもっていましたね」
呉羽を始末しに行く直前の行動を、音矢は思い出した。
「自分の保身と寂しさの解消のために、ボクは君を不幸にした。
それなのに、被害者である君と楽しく遊び、
君の教育を受けて能力を向上させてボクは喜んでいる。
音矢くんを犠牲にしすぎだから、少しは自重しろと、
瀬野さんには何度もたしなめられた」
「それはいつですか?」
基本的に翡翠はいつも音矢と行動している。
「恒例になった食事会の前、君がカマドで飯を炊いているときだ」
「……ああ、なるほど……」
確かに、そのときは翡翠のそばには瀬野しかいない。
「瀬野さんに注意を受けるたびにボクも反省して、
音矢くんに頼るのをやめようと思うのだが……
食事会が始まると、うまい飯に気をとられてしまう。
そして、君の語る話題に興味をそそられ、
罪を意識することを忘れ、知識を得ることを楽しんでしまう……
どう考えても、鬼の所業だ」
しょげる翡翠を見ながら、音矢は考えた。
(彼女が僕を嫌う理由がわかった。僕が、瀬野さんの目論みを破壊したからだ)
音矢の唇が笑いの形に歪む。
(翡翠さんに僕という味方ができてしまった。
その力を借りて、翡翠さんは自分のやりたいことを実行していく。
瀬野さんが望まない方向に、この人は成長していく)
「あはは」
音矢は声を出して笑う。それで彼の顔は普通の笑顔に変わった。
「翡翠さん、そんなに気に病まなくてもいいですよ。
僕は現在の状況とこの仕事に満足していますから」
「本当か?」
「要するに、お金の問題ですよ。研究機関からもらう給料が僕には必要なんです。
今は不景気ですからね。
お金のために、ちょいとばかり苦労するなんて普通にあることですよ。あはは」
「だが……」
音矢は翡翠の手を取った。温めるように、彼は両手のひらで翡翠の小さい手を包む。
「[やったもん勝ち]そして[勝てば官軍]ってのが僕の主義ですからね。
やられてしまったことは今さら言っても仕方ないですし、
翡翠さんも反省してるみたいだから、水に流しますよ。
そういうわけで、
翡翠さんは遠慮しないで僕と楽しく遊び、
喜びとともに能力を向上させてください。
過去の過ちでいつまでもクヨクヨと悩まれるほうが迷惑ですから」
「君はそれでいいのか?」
「はい」
明るく答え、音矢は翡翠の手から、自分の片手を放して庭を指した。そこには土を積んだ小さな山ができている。
翡翠のために、彼が準備した物だ。
「なんだか、辛気臭くなってしまいましたね。
気分転換として、庭で流体力学の実験でもしましょう。
あの土山に水をかけて、それがどんな流れを作るか観察する。
これは賢くなるために必要な学問ですよ」
ようするに水遊びである。
音矢は楽しむことに罪悪感を覚えている翡翠を動かすため、言葉をかざった。
「おおお! 流れが曲がる! どんどん変化していく! おおおお!」
袖をまくり、ジョウロで土山に水をかける翡翠は、すっかり夢中になっていた。
「あはは。どうです、これも興味深い現象でしょう」
「お?」
水で削られていく土山からビー玉が現れた。音矢があらかじめ翡翠のオモチャを埋めておいたのだ。それは流れによって動かされる。
「おお! 転げた!」
楽しそうにはしゃぐ翡翠を見て、音矢は微笑んだ。
(そうだ。これが、翡翠さんの本来の姿だ。
やりたいこと、興味があることに集中しているときが、
一番の幸せなんだろう。
僕はその手助けをしてあげたい)
(だって)
(翡翠さんが楽しくしているのを見ると、僕も楽しくなるから)
――これは
――ミイラ取りがミイラになる物語――
音矢は翡翠の罪を許し、彼の姿を受け入れ、成長を助けようとしている。
翡翠と共に暮らすことで生まれた友情。
彼の持つ、逆境にくじけない心への尊敬。
そして翡翠が敵の注意を引いてくれることへの感謝が、音矢の心を動かした。
[一人ぼっちの子供のそばに、
いつもいっしょにいて手助けをしてくれる人があらわれたら、
その人になつく。当然の結果だよ]
音矢が翡翠に与えた評価。
それが、そっくりそのまま自分にもあてはまることに、音矢は気がついていなかった。
次回に続く。
少しお休みをいただいて
次回は 6月 7日(火曜) 20:10ごろに投稿予定です。




