ハインツとのダンスと罠
「ご機嫌麗しゅう存じます。王妃殿下。
お迎えに上がりました」
カタリーナが王妃宮の玄関ホールに降りると、ハインツは丁寧な礼を執る。
今日の彼は、グレーの夜会用貴族服だ。
緑掛かった茶色の髪の、穏やかな雰囲気の美青年がそれを着ると、爽やかさが際立つ。
(これは……困ったわね)
着こなしは見事だ。
だが、一つ大きな問題があった。
丈が膝より長い上着の下に、彼はウェストコートを着ていた。
その色が、深紅だったのだ。
カタリーナの今日のドレスも深紅だ。
ワンポイント程度ならともかく、ここまであからさまに同色を使うのは大問題だった。
公式の場で目立つように同色を使うのは、夫婦や恋人など特別な関係のときだけだ。
(ドレスの色は、事前に伝えたはずなんだけれど。
なんで、こんなことになってしまったのかしら。
一応は夫婦の陛下とだって、こんなにあからさまな同色を使ったりはしないのに……)
とは言え、今から着替えている時間はない。
ドレスを変えたら、アクセサリーや化粧もそれに合わせて変えなくてはならない。
これらの組み合わせは、侍女たちとの綿密な打ち合わせの末に決まったものだ。
適当に決めるなんてジビラたちが許さないだろうし、また侍女たちと打ち合わせをしていたら、とても夜会には間に合わない。
かと言って、ハインツに着替えてもらうわけにもいかない。
広大で入退宮の管理も厳しい王宮は、出入りするだけでも時間が掛かる。
アショフ家まで往復させたら、やはり夜会には間に合わない。
カタリーナは仕方なく、ハインツの腕に手を置いて彼のエスコートを受け入れる。
本宮内のホールに着くと、使用人がカタリーナたちの入場を知らせて扉を開ける。
会場内の全員が礼を執る中、ハインツにエスコートされてカタリーナは設置された壇上へと上がる。
そこでカタリーナが開会を宣言すると、楽団が演奏を始める。
ハインツと共に壇上を下りてホール中央に向かい、二人はダンスを始める。
夜会の主要なイベントと言えば、やはりダンスだ。
開幕では、最も身分の高い者がファーストダンスを踊り、それが終わってから他の者たちも踊り始める。
(一、二、三、一、二、三……)
会場全員の視線が集まる中、カタリーナはダンスに集中していた。
彼女は、ダンスが苦手だった。
前世では、男女二人で踊るダンスなんてなかった。
「好きです」と言葉にするだけで色情狂扱いされる社会では、人前で男女が手を取り合って踊るなんて許されるはずもなかった。
今世ではまともな教育を受けていない上に、社交界にもほとんど出してもらえなかった。
全くの未経験だったが、最近になって猛練習を始めた
それでも、まだまだ付け焼き刃だ。
「どうして笑っているのかしら?」
ハインツがくすくすと笑い出すので、カタリーナは気になって尋ねてしまう。
「申し訳ありません。
一生懸命に踊るお姿が、あまりにもお可愛らしくて」
「……仕方ないじゃない。
ダンスの練習は、最近ようやく始めたんだもの」
「大丈夫です。
こう見えても、ダンスは得意なんです。
失敗は私がフォローしますから、もっとダンスを楽しんで下さい」
そう言ってハインツは笑う。
思わず安心してしまうような、優しい笑顔だった。
だがカタリーナにとって、その笑顔は凶器でもあった。
橙に近い茶色の瞳は、熱を込めて彼女を愛おしげに見詰めていた。
上を見上げたとき、吐息が触れるほどの距離にあるその眼差しと、視線が合ってしまった。
それで、カタリーナの頬は赤く染まってしまう。
それを見て、ハインツはさらに笑う。
可愛らしいものを目にして心が和んだかのように笑う。
(あっ!)
誤って出してしまった足を、カタリーナは強引に正しいステップに戻そうとした。
しかしそれは、ヒールの高い靴でするには無理のある動きだった。
バランスが取れず、ぐらりと体が傾く。
ハインツは、ホールドした腕でカタリーナを抱き寄せると、二人の体をくるりと入れ替える。
そのままもう一回転半を追加して、カタリーナの失敗を見事な二回転スピンへと変えた。
会場からは感嘆の声と拍手が湧き上がる。
何が起こったのか、カタリーナにはしばらく分からなかった。
突然、世界がぐるぐる回ったと思ったら、会場が自分たちを喝采しているのだ。
だが、ハインツが助けてくれたことと、抱き寄せられて彼との距離が一瞬だけゼロになってしまったことだけは、しっかりと理解できた。
「あ、あ、あ、ありがとう」
「どういたしまして」
ハインツはおそらく、優しい笑顔なんだろう。
確認はできなかった。
恥ずかしくて、カタリーナは顔を上げられなかった。
熱に浮かされているうちに彼とのダンスは終わった。
開幕を告げるファーストダンスが終わり、貴族たちも踊り始める。
お喋りと酒、ダンスと恋を参加者が楽しむ中、カタリーナは周囲を確認する。
ハッツフェルト家とコルウィッツ家は、どちらも不参加だ。
両家による領地戦が始まり、パーティどころではないのだろう。
アウフレヒト辺境伯家とオルローブ侯爵家の者たちは、憎々しげな目を時折カタリーナに向けている。
やはり、深い恨みを買ったようだ。
カタリーナに近付きたがる貴族はいない。
敵対する不可侵貴族家はもちろん、王家に連なる家門の貴族たちもそうだ。
王家の系譜の者たちさえ、手短に挨拶を済ませるとカタリーナの許を離れて行く。
『吸血の愚王妃』の名が知れ渡っているからだ。
自らの手で死刑囚を殺すことを好む残虐な王妃を、呪術で人の血を吸う邪悪な女を、誰もが恐れていた。
「王妃殿下。葡萄酒はいかがですか?」
唯一の例外が、ハインツだった。
挨拶を終えた彼はにこにこと近付いて来て、二つ持っていた杯のうちの一つをカタリーナに差し出す。
「ありがとう。
でも、あまりわたくしには近付かない方が良いわ。
それがあなたのためよ?」
「そんなことはありません。
王妃殿下とお近付きになることこそ、私のためになります」
「『吸血の愚王妃』っていう、わたくしの渾名を聞いたことはあるでしょう?」
「あの渾名は、とんだ見当外れです。
私が知っている王妃殿下は、決して愚かではありません。
むしろ、大変聡明な方です。
呪術に関する鋭い考察には、本当に驚かされました。
それに、自ら処刑されているのは、何か理由があるんですよね?
おそらくは、呪術に関連するものだと思っています。
ですから、残虐なんて噂も見当違いです。
私の知る王妃殿下は、いつも民のことをお考えになっている、とてもお優しい方です」
「ありがとう。嬉しいわ。
でもね、あなたがわたくしをどう思っていても、人前で長く一緒にいればあなたにも悪い噂が立ってしまうわ。
今日のこのドレスも、ごめんなさいね。
あなたのウェストコートと同じ色だけれど、他の人は偶然、とは思ってくれなかったみたいね」
夜会で同色の服を示し合わせて着るのは、親密な関係を社交界に知らしめるという意味がある。
おかげで、ハインツはカタリーナの愛人だ、という噂話がそこかしこから聞こえて来る。
「何も問題はありません。
そうやって私を気遣ってくれるあなたは、やはりとても優しい人です。
それに、とても美しくて、とても可愛らしい。
本当に魅力的です」
(っ!!?)
カタリーナは驚愕してしまう。
ハインツはカタリーナの前で片膝を突くと、カタリーナの手の甲に唇を落としたのだ。
跪いてするそれは、立ったままするものよりも更に深い敬意、更に深い愛情を示す。
恋人や主君に対してするものだった。
ハインツのその突然の行為に、会場は響めく。
「噂が事実になれば良い。
私は、そう思っています」
カタリーナの手の甲から唇を離したハインツは、跪いたまま上目遣いの笑顔を向ける。
優しげに微笑んでいる。
しかし穏やかな顔付きの彼の目は、獲物を狙い澄ました獣のようだった。
「わ、わ、わたくし、よ、よ、夜風に、あ、当たりたいわ。
ひ、ひ、一人で考え事もしたいから、つ、つ、付いて来ないでね?」
この国ではときたま見られる男性からのアプローチだが、カタリーナにとっては驚天動地のアプローチだった。
好奇の目を周囲から一身に浴びる恥ずかしさと、人前で女性として男性から求められるという慣れない状況に、カタリーナは耐えられなかった。
一目散に逃げ出してしまった。
ハインツの楽しそうな笑い声が、背後から聞こえた。
会場を出たカタリーナは、ジビラと共に夜の庭園に出る。
(驚いたわ。
まさか、人前であんなことをするなんて)
本宮からかなり離れた場所まで逃げて来て、設置されているベンチに座る。
夜風に当たり、火照った顔を冷やす。
「やれやれ。
ここに誘き出すための策を、いくつも考えてあったんだが……。
まさか自分から、のこのこやって来るとはな」
暗がりから男が現れた。
ジビラがカタリーナの前に立ち、警戒姿勢を取る。
「挨拶もせずに話し掛けるなんて、礼儀がなっていないわね。
それとも、独り言だったのかしら?
ボールシャイト小侯爵?」
四十前後で小太りの彼はイーヴォ・ボールシャイト。
不可侵貴族家の一つ、ボールシャイト侯爵家の跡取り息子だ。
普通なら跡を継いでも良い歳だが、父親が現役で頑張っているため未だ小侯爵のままでいる。
「ああ。これは失礼した。
ご機嫌麗しゅう。王妃殿下」
彼の言葉を聞いて、ジビラが顔を顰める。
およそ王族に対する言葉遣いではなかった。
暗がりから現れたのは、彼だけではなかった。
カタリーナとジビラを包囲するように、八方からぞろぞろと三十人前後の男が現れる。
その半数以上が衛兵だった。
顔を一気に険しくしたジビラは、太ももから短剣を抜く。
「私が隙を作ります!
申し訳ありませんが、お一人でお逃げ下さい!
この身は汝が剣!
この命は汝が盾!
この――」
「武器誓句!?
駄目よ! 待ちなさい!」
武器誓句を言い終えるより前に、カタリーナがそれを止める。
剣の誓いを立てた騎士には、彼らだけが使える術がある。
誓いを果たすために剣を振るうとき、誓いの文言を唱えることで、反射速度や身体能力を飛躍的に上げられる。
それが武器誓句だ。
騎士にとっての誓いとは、単なる約束事ではない。
自らを飛躍的に強くする呪術的手段でもある。
近衛兵などが一般の騎士より格段に強いのは、王家に対して剣の誓いを立てた彼らは武器誓句を使えるからだ。
武器誓句で強くはなれるが、これは言霊の術の一種であり、つまり呪術だ。
使えば星を消費してしまい、運が悪くなったり寿命が縮んだりする。
カタリーナが止めたのは、それが理由だった。
「落ち着いて?
大丈夫だから、剣は納めなさい」
「……対話により、切り抜けるおつもりでしたか。
申し訳ありませんでした」
ジビラは謝罪して剣を納める。
「庭園の兵士を入れ替えたのね?」
「そうだ。
ここで警備して王族を護るはずの衛兵たちだが、今日は私の手足だ。
陛下ならこうなる前に気付いただろうが、やはり小娘だな。
今頃になって、ようやく入れ替えられたことに気付くとはな」
「陛下に邪魔されないように、陛下の療養中に事を起こすことにしたのね?
今日だったのは、夜会の会場警備に兵を割かなくてはならないから、かしら?」
「ほう? 意外に鋭いじゃないか?
そうだ。
今日が一番やりやすい日だったのだ。
警備も薄くて、相手は小娘一人だけ、夜会で王宮に入り込むのも容易だ」
「陛下がお倒れになったのも、ボールシャイト家のせいかしら?
ブルークゼーレ王国から陛下に贈られたゴブレットも、ボールシャイト家の策略なの?」
イーヴォの顔付きが変わる。
「これは驚いた。
まさか王家が、あのゴブレットの絡繰りに気付いたとはな。
だが、あれは当家ではない。
あの国のフロリアン殿下から教えてもらった情報を、当家は利用しただけだ」
(ええっ!?
あのゴブレットの謀略は、ブルークゼーレの発案なの!?)
驚いたカタリーナは考える。
やはり、ブルークゼーレが隣国の混乱を望むとは思えない。
その対応のために、あの国は多大な出費を強いられることになる。
だが、考え始めると切りがなさそうな問題だ。
カタリーナは取り急ぎ、現状の解決を優先することにした。
「ゴブレットのことを知っていて、王家に報告しなかったのはなぜかしら?
ボールシャイト家としては、陛下が崩御されたら困るのではなくて?」
「もちろん、報告はするつもりだったさ。
私だって、陛下には死んでほしくない。
少なくとも、私が霊宝所持者だと連邦議会から承認されるまでは、生きていてもらわなくては困る。
だが、おまえから霊宝を奪うには、陛下が寝込んでいる方が都合が良かったからな。
そのために、少し報告を遅らせただけだ」
「わたくしから霊宝を奪い取れると、本気で思っているのかしら?」
「もちろんだ。
これが何か分かるか?」
そう言ってイーヴォは、首から提げた小袋を引っ張り出して、カタリーナに見せる。
「見たところ、お守りね。
効果は……呪術無効化かしら?」
お守りとは、呪符が中に納められた小袋のことだ。
入れる呪符により、その効果は異なる。
イーヴォが持つものは、呪術無効化の呪符が入ったもののようだ。
「分かるのか?
そういえば、馬鹿のくせに呪術だけは得意だったな。
そうだ。呪術無効化のお守りだ。
それも、一つにつき呪術師を五十人も雇って作らせた強力なものだ。
もう分かるだろう?
おまえの呪術は、私たちには効かない。
呪術がなければ、おまえはただの小娘だ」
そう言ってイーヴォは、下卑た笑みを浮かべてゆっくりと近付いて来る。
「どうした?
泣き叫ばないのか?
これからおまえは、霊宝を探すために裸にされた上に、私たちに犯されるんだぞ?
泣き喚いてみろ。
そうでなくてはつまらんぞ?」
「配下を使わずに自らここに来たのは、霊宝を確実に手に入れるためだと思っていたけれど、それ以外にも目的はあったのね?」
「やはり、頭はなかなか良いようだな。
そうだ。
おまえは残虐な女だが、顔と体は極上だからな。
一番に楽しむために、わざわざここに来たのさ。
もちろん霊宝の確実に私のものにすることも、ここに来た目的の一つだがな。
物が物だけに、臣下にも任せられん」
カタリーナはくすくすと笑い出す。
期待とは違うカタリーナの反応に、イーヴォは怪訝な顔をする。
「そんなことをして、ただで済むと思っているのかしら?」
「ははっ。それで脅しているつもりか?
やはり小娘だな。
もちろん、ただで済むさ。
領地を侵略されない限り、王家は武力行使ができない。
おまえたちを犯したところで、大した問題にはならない。
せいぜい王宮の役職が減るぐらいで、霊宝を得られるなら安いものだ。
それにおまえたちだって、何人もの男に犯されたなんて口が裂けても言えないだろう?
つまり、そもそも事件にさえならない」
「今日のことは全て無かったことになるから、そんな言葉遣いなのかしら?」
「それだけじゃない。
私に逆らったら、おまえが犯された事実が社交界に広まることになる。
一生、汚れた女として社交界から見られることになる。
おまえは今日から、私の奴隷だ」
カタリーナたちを怖がらせるように、イーヴォは下卑た笑みを浮かべながらゆっくりと近付いて来る。
どうやら彼は、泣き叫ぶ女を犯すのが好みなようだ。
「王妃殿下! 抜剣の許可を!」
「うふふ。慌てなくても大丈夫よ」
カタリーナを護るように立つジビラは緊迫した声で言うが、カタリーナには相変わらず余裕の表情だ。
ベンチから立ち上がりもせず、にこにこと笑っている。
「な、なに!!?」
イーヴォは驚愕の声を上げる。
突然、地面から生えてきた半透明の茨の蔓に拘束されたからだ。
必死に藻掻くが、まるで脱出できる様子はない。
イーヴォだけではない。
カタリーナたちを取り囲んでいた男たちが全員、地面から突然現れた茨の蔓に絡め取られている。
「ば、馬鹿な!!?
呪術は効かないはずだ!!」
呪術無効化のお守りを持つ者に呪術を掛けるには、そのお守りの防御強度を上回る呪力で術を掛けるしかない。
呪術師五十人がたっぷりと呪力を込めたお守りだ。
そう簡単に呪術は掛からない。
だが、カタリーナが掛けたのは魔法だった。
呪術とは別系統の力であるため、お守りの呪術無効化領域でもその影響を受けない。
「ね? ただでは済まなかったでしょう?」
カタリーナはころころと笑う。
「く、くそっ!!
おい誰か!! 早くなんとかしろ!!」
小娘と侮っていたカタリーナにしてやられて、イーヴォは悔しそうな顔をしている。
何とか脱出しようと足掻くが脱出できず、臣下たちを怒鳴り付ける。
「実はね。
衛兵を入れ替えられたことに気が付かなくて、うっかりここに来たわけではないの。
庭園付近の衛兵が入れ替わったことに気が付いたから、敢えてここに来たの。
罠に掛かったのは、わたくしではなくて、あなたたちよ?
ごめんなさいね?」
「お、女のくせに、私を罠に掛けただと!?
ま、まさかおまえ、私の血を吸うつもりか!!?
わ、私はボールシャイト家の後継者だ!!!
こ、こ、殺せば、た、ただでは済まんぞ!!?」
そう叫ぶイーヴォの顔は、恐怖で引き攣っている。
反撃したのではない。罠に掛けたのだ。
拘束されただけでは終わらない、ということを理解したのだろう。
先ほどまでは下卑た笑みだったのに、天国から地獄に堕ちたような変わりようだった。
「うふふ。それで脅しているつもりかしら?
もちろん、ただで済むわ。
だって、これからボールシャイト家は没落するんですもの」
「なんだと!?」
「あなたたちは、とっても気持ち悪いけれど、まだ何かされたわけではないから恨みもないわ。
でもね、必要なの。
この国の再建のために、あなたたちの命がね。
だから、ここで死になさい?」
死刑囚から星を吸い取ることによって、カタリーナは地道に魔力を増やしてきた。
そのおかげで、今では手を触れなくても、茨の蔓で絡め取った者からも星を吸い取れる。
縛り上げられた男たちは、見る見るうちに老人のようになっていく。




