第八話 辺境を告げる春寒の風
2024.07.01 追記
加筆修正しました。
ハルジオンまでの道のりは、順調に進んでいた。たまに話す他愛のない世間話に花を咲かせつつも着実に辺境の土地に近づきつつある。
馬車の修復から一刻と半分が過ぎた。馬の方にも休息が必要であろうと、原っぱを超えたら見えてきた欝蒼とした森の中腹で、一時の休憩となった。
売り物にもならないと判断されたのか、盗人にすら盗まれなかったカップを使って水分補給をする。
「そういえば、カナタの嬢ちゃんはあれか、新世代の子か?」
大層な名前をしているが、実際は太陽を自分の目で見たことのない代の事を指す。虚王の統治が長期間に及んでいるためできた言葉だが、一部では『名前が虚王に屈している』という理由で嫌われたりしている。
しかし、それは一昔前の話だ。
何せあまりにも統治期間が長すぎた。
もちろん、カナタの外見の年齢ではもうすでに太陽は空には無い。
それをわかっているカナタは口に含んでいた水をのどの奥へと追いやり優しく回答する。
「ええ、そうなんですよ。
自分が空を見るような年齢になってからはもうずっと曇天ですね。空が青いなんて言われても想像できないですよ」
雲まみれの空になったのは数十年も前、どう見ても10代の若造にしか見えないカナタは無駄な諍いを避けるためにも魔術で姿を変えていることは絶対に言わない。
「そうなのか。それは惜しいな。太陽のある青空というのはとても奇麗で目が離せなくなる。失ってから気づいたことだがなーーー」
アルターはぱっと見40歳ぐらいに見えるが、雲無き空を見たことがあるならもう少し上の年代なのだろうなと推察できた。
「ーーーそれに、草木の成長が今よりも格段に速かった。昔は二期作なんて呼ばれて、一年に二回収穫の時期があったんだよ」
勝手に年齢の考察をしていたカナタは、昔話で現実に引き戻された。
「昔は温かかったからねぇ、それが…ハァ。カナタの嬢ちゃんに愚痴るのはもうよそう。
……よし、いい休憩になったろう。ハルジオンまであと一刻あるかないかだ、出発しよう」
「そうですね」
軽く同意し、立ち上がる。
向かい風が増えてきた。
これはハルジオンの近い合図だ。
ローリエ山脈から流れていた河川の数々は、冬に降り積もった雪や氷が溶けだしてできた極低温の水をハルジオンの向こうにある海洋へと流し出す。
本来ではありえないほどの低温状態の水は海水温すらも低下させ、毎年晩冬から春先の短い間ではハルジオンは半永続的に海風が吹く。
詩人だか誰かがこの向かい風を‟春呼びの風”と言った。
今ではそのフレーズは一般的になり、ハルジオンの名物にまでなった。
「…これが‟春呼びの風”ですか?」
「お、よう知っているね。その通り、これがハルジオン名物の‟春呼びの風”だよ。気持ちいだろう?」
海の香りを少しばかり含んだ冷たい風は、体温を奪うことはせずに、今までかいていた汗を乾かしていく。
「はい。とても気持ちいですね」
「それは良かった」と笑いながら改めて歩を進めていく。
このような談笑を続けていると、森の終わりを告げるように、‟春呼びの風”が一気にその勢いを増した。
整備を終え、人が通るために作られた道が途切れると、森は突如、消え去った。
ハルジオンが辺境だ、辺境だと言われているがそれには主に二つの要因がある。
一つ目は、もうすでに乗り越えたローリエ山脈だ。
あっさり踏破したかのように見えるが実は結構苦労している。何日にも及ぶ、気象状況の確認に加え、実際の気候が良好か否か等の運要素がとても多い。
二つ目が、今目の前にある大きな川だ。
ローリエ山脈から流れた雪解け水は、ハルジオン目掛け流れ二つに枝分かれする。その水位は季節によって大きく異なり、特に雪解け水が多い春頃はひどく、船を使わないと渡れない場合すらあるのだ。
こうも自然現象に大きく左右される道筋は、辺境たる所以にふさわしく思う。
しかしいざ河川を目の前にしてみると水位は極端に少なく、くるぶしに水がかかるぐらいの水深だった。
「今冬が比較的暖かくてよかった。冬が寒くて春が暖かいと比にならないぐらいの水位に成っておったよ」
「やっぱりそうですか。明らかにここらの土地の標高が低いですものね」
川のちょうど真ん中のあたりで周りを見ると、今の川のふちよりも少し奥の方に本来の川のふちであるかのような砂の丘ができている。雪解け水が多いときはあそこまで川ができると考えると本当に運がいい。
聞いてみると、ここ数十年以来の水位らしい。
天然の堤防とも呼べる砂の丘を越えるのにも苦労を重ね、どうにかこうにか最大の難所を超えた。
川を越えてからは速かった。
河川を超えるとすぐに木々の小さな隙間からハルジオンを象徴する岩でできた巨大な壁が見えてきた。