1 黒魔術しか勝たん
黒魔術はいい。
何と言ってもわかりやすいのがいい。
乾燥ヤモリのしっぽにゲジゲジの100本の足に処女のまま干からびて死んだ砂漠蛇の抜け殻、いくつかのハーブと香辛料、先人の研究成果が詰まった魔術書に、魔方陣。
必要なものは金さえかければ手に入るし、手順も呪文も理論的にきっぱりはっきりと整理されていて気持ちがいい。黒魔術の門戸は好奇心を持つ誰にでも開かれている。
その点、白魔術お前はダメダメ。
清らかな心でとか、無心に神を信じてとか、神の御心を疑う者に奇跡は起こらないとか、何もかもが精神論。それでいて結局は神に祝福された聖女の血筋が最強だとか言う。
黒魔術しか勝たん、とフランシーヌは思う。気がつくと誰もいない薄暗い実験室でこういうことをぶつぶつと呟いている。ぐずぐずに蝋の溶けた三又の燭台を足下に置き、フランシーヌは今宵も黒魔術の研究に没頭していた。
フランシーヌの肌は陽の光に弱い。身体は病弱ではないが惰弱だ。ぶっちゃけ朝が弱い。王族全員の列席が義務付けられている金曜早朝の聖堂ミサとかはものすごい苦役である。五時半とかいう狂気の起床時間に叩き起こされ、潔斎の冷水風呂に浸けられ、天井ばかりアホみたいに高いがらんとした聖堂で中身のない神官のカミサマ語りを真面目くさった顔で聞かないといけないし、音痴なのにミサ曲の高音部ソロパートを朝っぱらから歌わされるのが嫌だ。しかも、フランシーヌ以外の兄王子弟王子は合唱終わりで解放されるのに、聖女王妃の娘であるフランシーヌだけはそのあと午前中いっぱい一人残って聖女教育を受けなければならないのだ。
そう、フランシーヌは聖女の娘だった。
おかあさまに次ぐ白魔術の使い手になれるはずのフランシーヌだが、金曜の聖堂ミサの恨みが高じて神そのものに苦手意識を育んでしまった彼女には黒魔術のほうが性に合っていた。
「強火で三十分。よし、そろそろ色が変わってくるころね」
グリモワール『灰木の魔女による第三の書』から顔を上げてフランシーヌは部屋の中央の床に設えられた炉に近づく。
黒い巾着を開いたかたちの鉄鍋がぐつぐつと煮立っている。
沸騰する鉛色した液体の表面で虹色の泡が生まれては弾ける。ぷくぷく。ぐつぐつ。ぷくぷく。ぐつぐつ……。
モモンガ蛾の鱗粉を加えて三十分煮込んだそれはだんだん透明度が増してくる。消し砂で火を消してしばらく待つと、プラチナ色に輝く水鏡ができあがった。
「〈魔女の占水盤〉――これさえあれば、私も城下に紛れて一人でりっぱに稼いでいけるわよ。このまま聖女の娘のフランシーヌ王女でいたらおかあさまみたいに聖女と王妃のW稼業で朝から晩まで忙しく人と会ってなくちゃいけない人生になる。一日も早く逃げるのよ。シャンデリアの下から逃げて日陰の路地の奥の占い小屋へ潜るのよ」
ぶつぶつ。ぶつぶつ。
逃亡計画の前進に一人でにやにやするフランシーヌ。
鉄鍋を挟んだ向こう側から、そんな彼女を困った顔で見つめている者がいる。漆黒の瞳を濃灰色のローブの陰に隠した青年は、一言も声を発することなく、目立たない暗がりにひっそりと佇む姿も慎ましい。
目立たないながらもさっきまで彼は換気窓を開けにいったり、消し炭のバケツを運んできたりと細やかに働いていた。フランシーヌ専属の小間使いのように。
いま彼はひとり悦に入るフランシーヌに苦言を呈する表情で、手にしたカードの束をしゃかしゃかと切って扇状に広げてみせた。終始無言で。
「占いカードね。路地裏の占い師なら占いカードを使ったほうが身軽で手軽だって言いたいんでしょう。そうかもしれないけど、ペラペラのカードをぺらっとめくってぺらぺら喋るだけじゃあ、黒魔術の醍醐味がなさすぎるじゃないの」
フランシーヌは青年の助言に唇を尖らせる。
人目を忍んで家出をするのに重い鉄鍋をどうやって運ぶのかとかいちいち考えたりしてないところが所詮は箱入りの王女様である。
「この鉄鍋、風呂敷でつつめるかしら……」
青年はちょっと首をかしげてから、“どうしてもというなら任せてください”と広げた片手で自分の胸を叩いた。
「いいえ、メルテレース。あなたには頼るつもりないから」
ちょっと傷ついた顔をしたメルテレース青年にはお構いなしに、フランシーヌは〈魔女の占水盤〉の試運転にとりかかる。
ちなみにメルテレース青年というのは、フランシーヌに取り憑いている魔物である。
さらっと軽く説明するようなことではないのだが、深刻に語ってもしょうがないのでさらっと流しておく。
いや、一応かいつまんで言うと、稀有な神力を持った聖女であるフランシーヌの母が、王国を呪う大魔術師と対決したときに、大魔術師はやっつけたものの、断末魔の呪いを身に受けてしまったせいである。その呪いは次代の聖女に魔物の子の贄となるべき印よ刻まれよ! というものだった。
「信用してないわけじゃないけど、メルテレースにおんぶにだっこじゃ格好がつかないのよ」
フランシーヌは贄の印を持って生まれたが、聖女王妃の神力により魔物の子に食われることは免れた。でも取り憑いた魔物の子をフランシーヌから剥がすことは聖女王妃にも不可能だった。魔物の子は現れた最初は少年の姿をしていたが、フランシーヌの成長とともに彼も成長して二十歳前後のすらりとした青年になっている。彼の姿は聖女王妃とフランシーヌにしか視えない。メルテレースという名前をつけたのはフランシーヌだ。
「貴重な税金から材料費の予算をもらってるのはメルテレースを“剥がす”ためなんだから、一応は」
フードの陰のまなざしを哀しげにひそめてメルテレースは立ち尽くしている。
メルテレースはこの世に現れたときから一度も言葉を発したことがない。ずっと一緒にいるフランシーヌですら彼の声を知らず、意思表示は表情とハンドサインだ。
彼の姿は神力を持つフランシーヌと聖女王妃にしか視えないから、王宮中枢の関係者以外は呪いのことを知らない。
知られていないうちにメルテレースを魔界に送りかえす方法を探そうとして、フランシーヌは黒魔術の道に踏みいったのである。そしてどハマりしてしまった。
「それはともかく。さっそく練習よ、練習。女官のぺちゃくちゃ話を立ち聞きしたかぎりでは、巷の辻占いに持ち込まれる相談事でいちばん多いのは『恋愛関係』らしいのよ。てっとり早く生活費を稼ぐなら恋愛占いをマスターしないとね……」
ぶつぶつ言って、〈魔女の占水盤〉の活用法のページをめくった。
最初に目についた初級占術の呪文を唱える。
「アッカッカーパカパン・ノパー・イエイッ」
その占術は依頼者の運命の恋の相手を教えてくれるというもので、依頼者の人生に運命の恋が予定されていない場合、〈魔女の占水盤〉は沈黙を保つと書かれている。当然、フランシーヌがこれから運命の恋などするはずもないので、プラチナ色の水面はうんともすんとも黙りこくったまま、上から覗いたフランシーヌの顔を映すだけだ。
説明が遅れたが、この物語の主人公フランシーヌは陰キャである。
まず、眩しいところが徹底的に嫌いなのである。瞳の色素が人より薄くて、煌めく燭光に囲まれるとすぐ目がしばしばしてくる。王宮というのはどこもかしこも贅沢に蝋燭を灯しているから馬鹿みたいに明るい。朝の王宮となると、高級で質がよく透明度の高い窓硝子から燦々と降りそそぐ太陽光もつらい。
だから、窓をつぶした魔術実験室にこもって薄暗い魔術研究に没頭している時間がフランシーヌをもっとも安らがせてくれる。
そして、フランシーヌは人と話すのが苦手である。
フランシーヌは王国を呪いから救った聖女と、呪いに斃れた先代王から聖剣を継いで聖女を守り抜いた王子(現国王)のあいだに生まれた。パパンとママンは生きた神話であり伝説である。光り輝く国王夫妻から生まれたフランシーヌを皆んなが光り輝く娘として見る。しかしフランシーヌには光り輝き方がわからないのである。わからないなりにフランシーヌが、もごもご、もじもじしていると、まわりの皆んなが勝手に聖女(の卵の王女さま)のありがたい微笑みやらお言葉だと解釈して万歳三唱するものだから、余計に人と話すのが苦手になった。そりゃそうだろう、1+1は2ですと言っても万歳三唱されるのだから他人との会話能力が育つはずがない。
まともに話ができるのは家族くらいだ。
そんなフランシーヌが、他人との会話能力がゼロのフランシーヌが、出会った誰かと意気投合して盛り上がって恋に落ちるなんて、ないない。
「ん? 地震?」
プラチナの水面にさざなみが起きている。フランシーヌは辺りをきょろきょろと見回す。床は揺れていないし、風のひとつも起きてはいない。
波紋の輪っかが、ふたつみっつと広がったあと、いちばん大きく最後に広がった輪の中に、ゆらゆらと朧げな影が浮かび上がる。影はやがて輪郭から徐々に鮮明な色を持ちはじめ――見知らぬ人間の顔が映しだされた。
「へ、誰?」
黄金の髪。黄金の眉。凛々しく聡明な青い瞳。意志の強そうな唇。精悍な顎のライン。フランシーヌがぜんぜん知らない若い男だ。
鉄釜の向こうではメルテレースがたじろいだ様子で足をふらつかせ、青ざめている。フードの下から愕然とした双眸がフランシーヌを見つめた。力なく震えながら持ち上げた右手の人差し指でフランシーヌを指差し、左手の親指を意味深に立てる。
――あなたの男ですね。
「え、何が」
男?
ぎょっとしてフランシーヌは口走る。
「え、男?! 私の?!」
運命の恋の相手を教えてくれる〈魔女の占水盤〉がフランシーヌのために映したのは、光り輝く英雄の風格を漂わせた名も知らぬ青年だった。
「う、う、嘘だわ。こんなのデタラメよ。なるべく城にこもってる私がいつどこでこんな若い男と出会うっていうのよ。出会ったところで私のほうから回れ右して逃げるに決まってるのよ。黒魔術のばか、インチキ、詐欺師、すっとこどっこいのイカサマやろう……っ」
城の実験室からほぼ出たがらず独り言が専門のフランシーヌ姫は、黒魔術の腕とともに人には聞かせられないボキャブラリーを育て上げていたのであった。




