美少女との遭遇2
まるで蛙のような目。深い窪みの底にあるそれで、幸矢は美少女を捉えていた。ただし口許ではいたって控えめに笑っていた。そのうえ腕組みまでしている。なんというべきか、ただただ興味深い対象を観察しているだけという表情をつくっている。
この不可解な態度に、美少女は拳を叩きつけようにもタイミングが見つからないといった様子だ。さらに視線も揺らぎはじめた。怒りを抑制的に維持しているのも疲れるのだ。
ここらへんか。幸矢は用意していた言葉を発した。
「すまねぇ。タッパがありすぎて、たいてい、人ん頭を下に見ちまうんだわ」
対峙する美少女は震える拳を胸の高さまであげた。しかし勢いはない。
「これじゃいけねぇこたぁわかってんだが、姿勢ぐれぇはピシッとしとくのも礼儀だし、困ったもんだ。それとも土下座しながらのほうがいいか? やっぱ、地面にドタマを突っこまんきゃなんねぇかな?」
すると美少女の緊張した頬がゆるまった。拳も解かれた。
「いや、会話するつもりなら、そのまんまでええわ。せやけど、腕組みはなんのつもりやねん?」
幸い、美少女は幸矢の意図を理解してくれたのだ。また、もっともな指摘に対しては薄い胸を締めつけるように抱いてみせる。
「こうやってりゃ、手がでねぇじゃん。なら、安心して示談交渉ができらぁな」
美少女はくだけた笑みを見せた。そしておおげさに肩をすくめる。幸矢はその様子におおいに安心するとともに、やはり魅せられるな、と認識を深くした。
「で、まずは自己紹介しなきゃなんねぇな。そのほうがやりやすいから」
そこで幸矢は軽く会釈した。つられるように美少女もチョコンと頭をさげる。
「弓庭幸矢。ボウ・ガーデンで弓庭、ハッピィ・アローで幸矢。ダ教のハム助、一年。ついでに地理学専攻。つまり、休学中の身てこったわな。そんでも、学生部で照会できっから」
「そら、どうも。えぇと、つまり総合教養学部の、……どの学類ですのん?」
幸矢はその言葉に唇を弛めた。そして、牝猫は欠伸をしながら腰をおろす。
「人文。すまねぇ、まだHUMと表現したほうがよかったかな」
*
奉神舍大學の原型は明治初期に創設された私立導監伝習実験場とされている。以来、一世紀半の歴史を経て、医学部をはじめとする医療系学部、くわえて大学将校教導団に認定された軍事科学部をも擁する大規模私立総合大学に成長していた。
その学部教育の中核が総合教養学部であった。大学入試本部では予科二年、学部三年を通じての一貫教養教育が魅力であると主張している。在籍学生は約八千人。全学部学生のおよそ四割にも達する。単独の学部としてはあまりにも大規模なので、奉神舍大學附置文理科大学なる尊大にすぎる俗称を奉られていた。
さて総合教養学部は以下のとおりに構成される。まず六つの学類に分割されており、下位区分として専攻が設置されている。学生は入学時に学類ごとに配属され、一年次秋学期に主に専攻を選択する。この学類・専攻の関係は学部・学科のそれに相応する。が、学類をまたがる選択必修単位が設定されていることもあり、学生の交流はわりあい盛んだ。
かような大所帯のために、学部の性格を単純明快に説明するのは難儀であった。
教育学部の派生種だとする説がある。乱暴だが説得力はあった。第二次大戦後の急進的民主化――”昭和の改新”にともなって大学高等師範部は学芸学部へと改組されたのだが、その際に学際教育が強く指向されていた。そして総合教養学部の制度設計を主導したのは学芸学部の教授会なのだ。
他には教職開発専攻における教員養成課程の存在もあげられよう。法令についても教育学部の基準に依拠し人事等を行っている。
この主張の急先鋒は教育学専攻で、しばしば教職開発専攻を従属的に扱っていた。一方で同じ学類内の統合人間科学専攻は主導権奪取のためになにかにつけて糾弾している。
まぁ内務省は冷ややかな態度でこの内紛を見ているようだ。今もなお主管官庁だと公言してはばからない彼らは、方便として教育学部を擬しているという見解であった(文部科学省のメンツを立ててやっている)。よりおおくの学生を収容できるならば、その形態はかまわないのが本音なのだ。
内務省といえば次のような意見もよく目にする。導術者に対し広汎にして精緻なる諸芸を教授することを目的とする学部だというものだ。なるほど、大学の設立理念に則った意見ではある。
この立場の中心は導術科学類だ。彼らは私立導監伝習実験場の直系子孫であり、教職員と論文発表の数などでは東京皇国大学をもうわまわっていた。つまり導術科学においては東半球首位の学部教育組織なのだ。実際、総合教学部の金看板として重点的に広報されている。
ただし、いくら奉神舍大學が導術者のためにあるとはいえ、学部学生の構成比は半分には及ばない程度(それでも総人口比からすれば驚異的だ)なので全般的な支持を得るまでには至っていない。やはり独善的主張だからだろう。
独善的といえば社会学類で支持される意見はより先鋭的だ。政治経済学部を母体とするこの学類は他者を傍流とみなしていた。勅令による大学昇格(大学令とはまた別だ)の以前から政治経済学部は存在しており、最高学府にふさわしい学問の自由の場であった。折に触れてかようなことが喧伝されているのだ。
ついでこのように語られることがおおい。反動勢力を一掃すべく学部統合が行われ、つまり総合教養学部が発足したのであり、政治経済学部は政策的に応じただけだ。ゆえに大学独自の教育が存在するのはわれらが社会学類であり、他は烏合の衆にすぎないのだ。
もっともこれは伝統の冗談という性質が強い。学部の良心という意識が存在するのはたしかなのだが。なお、社会学類の社会学専攻では、言説の起源についての卒業論文を認可した事実がある。
一方で総合国際学類こそが総合教養学部の知性の精髄なのだという言論も存在していた。外国語教育及び地域研究ならびに国際関係論だなんだで、広汎な学問分野に触れることが可能ではある。しかも講義は原則的に英語で実施されるし、専攻によっては第三外国語も教育される。事実、学生に要求される水準は学部内で最高に位置している、とされている。
ただ、そうであるがゆえに所属学生はおおくはないし、そのうえ自己完結性が高いため他学類との交友の機会がすくない。英語で浅いところを教えているだけとの皮肉もある。それなのに、なぜ学部の代表面をするのか余所者からすればよくわからない。まぁ、どんなあつかいをされているかは外からの通称で理解できるはずだ。単純に”グロ”と呼ばれているのだ。
この総合国際学類と比べれば自然学類はおとなしいものだった。学芸学部の自然科学系学科と農業専門部を寄集めて自然学類は成立した。そして”多様性の中の統一”こそが総合教学部の本質だとしていた。ゆえに各専攻は欠かせざる要素であり、いたずらに整合性を求めるべきでないという。
これは政治的立場を反映しているだろう。大学内に理系学部が三つに、トドメに医歯薬の医療系学部が存在するため、おのずとそういう立場に落ちつくのかもしれない。脆弱なものは多様性の懐でなければ生存しえない。
さて、人文学類である。この学類は神道神学専攻を筆頭にその対象領域はどこまでもひろがっている。関係する人間でさえ、ひとことで説明することがためらわれるほどであった。だから、神道神学が全専攻の首座にあることを認めさえすればなんでもアリだという空気を共有していた。
説明することを放棄する姿勢に思われるが、実のところ主流の意識だ。大半が、といってもいい。
なにせ、いいかげんだがもっともらしい名分があるため深く考えなくてもよいのだ。そして教員と学生にとってもなんとも都合がよかった。最低限のモラルさえ遵守していれば自由なのだ。
なんとなれば、まことに日本人らしい現実であった。江戸初期、慶長の大乱から現代に至るまで、なんとなく世界の時勢にしたがってきて形成された精神の現れだ。
第一次大戦では蒙独膺懲、第二次大戦では反全体主義という建前で欧州に出兵し、続く第三次大戦では圧制者とみなされ領土に侵攻されても、けして変わることはなかった。いや、時勢を利用できればそれでいいという定見が強化されただけかもしれない。
かような国の複雑な時局を奉神舍大學は遊泳してきたのだ。
*
幸矢は慇懃な態度で自身の学生証を示した。むろん、氏名と所属学部学類は彼が発言したとおりのものだ。証明写真については、まぁ、同一人物と判定できる。また入学年度から本来は学部第二学年であることがわかる。
それらの情報を一瞥し、美少女はどこか浮ついた態度でまた会釈した。
「で、君の名は? 学生証はべつにいらんけども」
こちらからは身元を照会するつもりはないと表明したのだ。そして美少女は仰々しく一礼し、まじめくさった顔で自己紹介をはじめる。
「予科文科丙種一回生。乾咲楽。ドライだけど、咲いたら楽しい、で咲楽です」
すると幸矢は頭上を仰ぐ。山桜の梢がひろがりその間隙から光が溢れていた。
「……晴れやかなる喜び、つうことか。いい名だ」
直感的な感想であった。まったくもってその美しい造形にふさわしい名だと幸矢は評価したのだ。
「ちゃいますよ。せいぜいがフローレンスほどですわ。ま、そこまでええように解釈してもろうたら、そら、悪い気はせぇへんですが」
高身長の眼鏡美少女――乾咲楽は詩的すぎる表現に苦笑した。そして幸矢はにんまりしている。表情を制御する努力は捨てていた。
『たく。こんなすんげぇキレェで、たぶん頭が切れる娘とは、もうちょっとこうまともな機会に接触したかったな。いや、ワースト・コンタクトだからこそ、こうやって会話できてんかもしんねぇが』
幸矢はごくちいさく溜息をつくと、本来の話題について再開する。
「で、乾さん。俺らの間にある問題なんだが、事実について確認せんきゃな?」
さいですね、と咲楽は左胸をトンと叩いた。乾いた音がした。
となれば、と幸矢は思いつつ一歩ぶん後退した。そして右手を胸に置く。
「弓庭幸矢は誠意をもって表明する。私は乾咲楽の……身体に接触し、猥褻行為を働きました。責任はすべて私にあることを認めます」
突然の宣言に咲楽はキョトンとするが、承知した、と応じた。
「では、その点は相互に了解した、ということだな。なお、そちらが要求すれば、先の表明を第三者の立会のもとにそのままに行ってもいい、と補足する」
そして、咲楽は眼鏡のブリッジに右の人差指を添えてみせた。いや、幸矢の発言について検討している様子だ。もっともすぐにうなづいた。補足された宣言の意味――咲楽が有利となる改変はしないこと、について理解していたかは、むろん計りかねたが。
幸矢はおおきく深呼吸をする。ついで身体を直角に折った。神明に対するかのような礼であった。
「あなたに対して物心両面に対する多大な苦痛を与えたことについて、私、弓庭幸矢は謝罪します。まことにもってもうしわけありませんでした」
すぐには頭をあげない。幸矢は咲楽の言葉を待っていた。
「…まあ、まあ。そこまでせぇへんでもええですねん」
咲楽の鷹揚な声。それを受けて幸矢は瞬時に姿勢を戻した。謝罪の言葉を了承した咲楽は腕組みをしていた。まったくもって堂々とした態度に見えるのだが、同時に平滑な胸が強調されてもいた。
「ありがとう。じゃ、和解条件について……」
咲楽は横に首を振り、それ以上の発言を拒否した。長い黒髪が派手に揺れた。
「ほんまのとこはどうなんですのん? つまり、故意か過失、どっちですのん?」
たしかに交渉の順序としては咲楽のほうが正しいだろう。
「過失、かな。悪い夢を見てて、敵が迫ってきたもんだから、拒もうとして、なぜか右腕が実際に動いてた、つうわけで」
これでもかなり柔らかい表現ではあるが、危ういことには変わりがない。
「なんや。欲情とゆうか殺意なわけですねんな。そいつはほんまなんですのん?」
幸矢はすぐにうなづいたが、内心では荒れていた。咲楽の言葉は鋭かった。
「ま、弓庭さんの内心なんぞ、ウチは関心あらへんですが。ハナから謝罪の意志を確認でけたら上出来でしたわ。……ほんで、これ以上はめんどいですさかい、ヤメにしたらよろし、でどないですのん?」
「つまり、これで示談は成立した、つうことでいいんかな? 文書に残したりはしなくていいんか?」
「そいつは好きにしたらええですわ。弓庭さんも安心でけるゆうなら」
くどいわ、といいたげな顔だった。とりあえず妥結に至り、幸矢はすさまじい解放感を覚えた。身体のほうはヘナヘナと地面に尻をつけた。すぐさま、彼の膝の間に牝猫が駆けてきた。
「ま、そうしとこうか。それにしても、そんなんでいいんか?」
幸矢は牝猫の背をさすりながら訊ねた。急な展開をまだ信じきれないのだ。
「ええですねん。ウチ、こないな風体ですけど、まだ入学したって一週間もたておらんですねん。せやのに、いきなりこないなめんどいこと抱えたらたまらんですわ。ウチはさすがにこないな劇的展開は望んでおらんのです」
幸矢をこれみよがしに見おろして、そう言った。
「なんにしろ、ありがてぇ。いちおう、クリティカル・ヒットを喰らったわけだし、なんつうか、俺も素直に了承できるわな」
幸矢の本音だった。謝罪の言葉だけですんでいたら、居心地が悪かっただろうと思ったからだ。そして牝猫は彼の膝頭に映って、主人の左頬を舐めた。
「そいつですわ。ついうっかりでビンタかましたのも判断材料ですねん。ほんま、失敗ですわぁ。……賠償金の減額要素を与えてもうたのが悔しうて。どうせやるんやったら、満額でぶんどりたいとこやし。せやけど、実際に払うのが親御さんやと思うと、夢見が悪そやしなぁ」
幸矢にじゃれつく牝猫を見つめながら咲楽は言った。その美しい顔には笑みがあったが冗談なのかどうかまでの判断はつかない。
「ほんまはそこを考慮して強気でネゴシエートしてたとちゃいますのん?」
幸矢はうつむき気味に首を横に振った。否定しきれないな、とは考えている。
破滅願望を抱いているようで、どうにか損害を制限するように模索しており、あくまでも生存を希求する。そのような性根なのか、と己を嘲る。
「いやぁ、そこまで厚顔無恥じゃねぇ。股ぐら思いっきし踏まれてたら、さすがに交渉材料にしてたかもしんねぇが……」
下品な冗談だった。その手があったか、と咲楽は笑みで受け流した。幸矢は声を漏らして笑った。やはり卑しいな、と己に対して笑ったのだ。そんな男の懐で牝猫は香箱をつくる。
「ところで、乾さんはなんでまたこんなとこに?」
自身のことは無視した問いかけだった。たしかに、この山桜の巨樹が鎮座する空間は森の深奥といってもよく、意識的に探さねば辿りつきそうにないのだ。
「あ、咲楽でええですわ。なんや、苗字やとムズムズするんですわ。神戸で乾やゆうたら、海運王の一族やと勘違いされてまうさかい」
たしかに関西らしい苗字ではある、とは幸矢は思う。むろん、名で呼ぶことを許されたことは素直に喜んでいる。
「じゃ、弓庭さん、てのはなしだ。幸矢と気安く呼べばいいや」
「ほんま、お偉いさんと同じやとやりにくいと思いますねん」
幸矢はおおいに苦笑した。咲楽の言葉に同意するしかなかった。