さよならだけを残して
死骸の重量が容赦なく右肘にのしかかってきた。さらに鼻筋に喰いこむ。目に圧力がかかる。クソ。ブラディな最期に……。
『再顕、翔歩! 附則、微小にて圧力対抗、突破、指数一! ファイアッ!』
守護天使が今までになく早口でなにごとかを詠唱した。すると、俺の顔面にかかってきた圧迫感が消失し、続いて下半身が引っぱられる感覚を覚えた。
これは……飛んでいる? なんで?
疑問が解消される時間もなく、背中が地面に触れた感触があった。あぁ、まるで寝床に横たわる時のような優しさだった。
恐る恐る右肘を顔から外してみる。視界いっぱいに空がひろがっていた。
俺は深い安堵感から、本当にゆっくりと息を吐いた。とりあえず、自分が殺した敵の死骸のせいで圧死するという事態は回避できたのだ。
『ヤックン、お望みどおり、地面を舐めるような軌道で飛ばしてみたよ』
「いや、そいつぁありがてぇんだが……」
いまだ事態を把握できず、寝転がったまま考える。そもそも立てないが。
『なんだ、術式論の基本を忘れたのか? 術式分類のひとつ、継続時間類型』
術式論とはまた古い呼称だ。今日びは想起情報学と呼ぶのがもっぱらだ。ステラの教師ぶりに内心では皮肉で応答した。声ではまじめに応じる。
「単独型、持続型。単独型は外的導術作用に分類される術式と重なると考えてよくって……。あ。翔歩も継続型とみなされていたんだっけ」
ここまできて先の現象についての疑問が解決した。
「とくに指定しねぇんなら、一回こっきりで導術作用が消滅するわけじゃねぇ。なんつたって”投射体”が軌道終端で破壊されるわけじゃねぇんだし。そんで、理論的には擲射で永続的飛翔が可能かどうかの議論があったな。あと、擲射で最適解軌道が実現されてんなら、生身の人間でできるかもしれんし、なら、人間を飛ばしてみて、その認知を観測してモデル軌道解析演算の追加次元……」
『いや、理論の問題はなんだ、そのぉ……。つまり、空中で速度調整するなりしたいというのに、いちいち想起詞をはじめから構成していては面倒きわまりない。が、これでその作業からいくぶん解放される。とにかく実用面で都合よくできているんだ』
ステラはまくしたてるように説明した。俺はそれに満足する。ちょっとやりこめたくて、わざとよけいなことまで口走ったのだ。
『で、さきほどの附則の意味については質問はあるか?』
俺は首を横に振る。附則という特殊なコマンドセットを省令導術操法が用意しており、その内容もある程度は把握していた。圧力対抗は前面からの圧力に対抗するようなベクトルがかかる設定で、突破は圧力から脱したのちの対処を規定する。なお、このふたつは必ず併用しなければならない。でなければ、圧力をしのいだその勢いで吹っ飛んでいく。
まぁ、一般人にとっては趣味的知識の範疇だ。俺がこれを知っているのは教科書のコラムが印象に残っていたからだ。そこでは衝突事故で身を守る方法として紹介されていた。要約すれば、前へ跳んで受け流せとのことだ。その際、俺は爆発反応装甲《ERA》の挙動を連想したものだ。なお、驚くべきことに自動車事故で実例があるらしい。
『こいつは覚えておくべきだ。高速の肉弾となって攻撃する時に有用だ』
……それはどうなんだろう? 砲弾になるってこと? この俺が?
そして俺は高らかに笑った。けして、背中やら左脚やらが笑わせてくるせいではない。どうにか敵を殺戮したのち、ひどい会話をしているという平穏な情景を笑うしかなかったのだ。そのはずだ。
『ヤックン、もうすこし上品に笑ったほうが好まれるぞ』
すこしばかりの充足感を覚えたあとで、腹ばいへと姿勢転換し匍匐前進を行う。死骸を近くからたしかめたかったのだ。
ほど近くから観察してみると、そのおおきさに感嘆したくなる。おそらくシロクマぐらいはありそうだ。異様に発達した右腕は丸太のようで、左腕も充分に太い。たしかに殴れば大威力だろう。もっとも、頭部が消失していたためどうしても毛むくじゃらの塊という印象が強くなってしまったが。
「よくもまぁ、生きのびれたもんだわな」俺は呑気にそうひとりごちた。
体格面では絶対の不利であった。導術の面でも本来は互角でもないだろう。
すべてはステラのおかげだ。この〈禍霊〉の敗因は、俺にステラがついていたこと。いや、俺がステラの木偶であったこと。ただ、それだけだと思う。
そんな根暗なことを考えているうちに、死骸は崩壊していく。肉体が泥へと変わり、その泥も地面に溶けていく。すえた臭気もすでになくなっていた。
死んだ〈禍霊〉は泥となり消える。なら、俺は泥の山を量産する作業に従事しているわけだ。それはなぜだだろう。
『まったく、死んだあとがキレイすぎる。生態系になんら寄与しないな』
深く考えることなく浮かんできた答えは、ステラのため、というものだ。
ステラの目的が達成するとなれば、そのパートナーである俺は喜ばしい。利己的かもしれないが、共通の利益を達成しているのはたしかだ。
しかしここで深刻な問題にぶつかる。この俺はステラの目的を知らないのだ。
星の数のバケモノを殺さねばならない、そんな遥かな道程であっても、俺は勇んでステラの企てに参画するだろう。終着点と得られるものが明示されている前提ならば。なんとなれば、終りが見えず、その先を想像できない事業はいたずらに疲労だけが蓄積されていくだけだ。
ならステラに訊ねてみればいいだけだ。畏き守護天使に、人臣恐み恐みも白す、などとでも。そんな簡単なことを俺はやったことがなかった。なぜだ?
俺は呻くように息を吐いた。何度か同じ問いかけをしたが、どうしてもこの結論に至ってしまうのだ。単純に俺はステラの声を確認していたいだけなのだ。そうだ、けしてその姿を……彼女の喜怒哀楽をこの目でたしかめることがなくても、声を交わしているだけで充分すぎるのだ。
殺戮もコミュニケーションのネタにすぎねぇか。畜生だ……。
ステラと会話するだけで嬉しいのは確信していることだが、かといってそのためだけに殺戮を続けるのは、なんというか、さすがに虚しすぎる。もうちょっと、こう、ふたりを駆りたてる動機が欲しいのだ。いや、それさえも話題の幅を拡張させたいからかもしれない。……たぶん、そうだ。
以上の検討の末に、俺はステラの目指すものを共有する行為を放棄していた。
ヘタなことを訊いて、彼女の機嫌を損ねたくないのだ。なので、従順に殺戮事業に従事しておけば関係は維持されるとの思惑があるのだ。
なんとネガティヴ。ステラの木偶であることに、俺は全身全霊で満足しているのだ。じつに不健全な態度。だが現状維持には積極的な意義を見いだせる。ひとつの予測が、いや、確実な未来がその根拠だ。それが態度を強く拘束する。
ステラと言葉を交わすことは外の世界においてはもはやない。
『ヤックン、非生産的なことに時間を使いすぎだ』
なじられることも叶わないのだ。もちろん始終やられたらたまらんが。
『まだ終わりではないんだ。まだ始末すべきものが残っている』
ステラからの仕事の催促。底なし沼にハマりかけている現状には幸いだ。
「へぇ、守護天使様、お安い御用で。しかし、そりゃなんだ? もう片づけるもんはなぁんも残ってねぇはずじゃ……」
立つこともままならぬ身とあっては戦闘などゴメンだった。いくらステラがついているとはいえ、この状態から交戦するのは心理的にキツいものがある。
そこだ、とステラがいった。すると俺の首が勝手に動く。視線の向こうに巨大な毛玉が蠢いていた。
あ、こいつは俺が上下に両断してやった〈バッタ〉だ。まだ生きてやがったか。それどころか、こちらに這い寄ってきやがる。なんだ。まさに這い寄る混沌……ほどではねぇか。
上半身だけの〈バッタ〉が地面に描いた血の筋を見つめ、俺は暗鬱になる。
冷静に考えればこの〈バッタ〉は頭が無事なのだから生きていて当然ではある。それより注意すべきは破断面の状態だが、まだ下半身が生えてきていない。ゲル状のものを引きずっている。
厄介なことに〈禍霊〉は生きているかぎり肉体が再生する。とはいえ、さすがに制限がある。脳幹からの距離と欠損した容積に比例して時間がかかるのだ。たとえば、脳ミソをなかば喪失したのと、足の爪先を喪ったとでは、前者が再生までの時間は短い。だから腰から下ともなれば、ちょっとやそっとの時間では再生できない。
それは事実として認識できているが、やはり見ていて快いものではない。そしてよけいな感情が浮かんできた。下半身を喪失したのに、なおも獲物を求める、その衝動にいいようのない不安を覚えたのだ。
俺が〈禍霊〉を殺戮するのはステラとの関係を維持するための手段だからだ。一方で〈禍霊〉が俺を殺そうとする目的はなんだというのだ。あんな状態でも俺への殺意を失わない、ようは生命すべてを注ぐためには非合理な目的であるべきとも思える。
『さっ、早く』ステラは急かしてきた。
天に向けて、右掌を突きあげる。ついで雷鎗を想起する。指数は適当に十で。いつもなら、言葉を編
み、それに伴って湧いてくる心象に昂ぶるものだが、今回はそういうものはまったくなかった。情動がひどく乏しい。
上半身を捻って、照準を標的に設定。指の間に灯る橙のドット。掌の向こうから声が響いてきた。その様を表現するにはこれしかない。苦しげな唸り声。
「そうか、あん時、聞こえてきたのはおめぇのか。ま、死にかけてんのに、んなことができんのは立派なこった……」
敵の勇気を称えるという高貴なふるまい。しかし偽善を装っても気分は暗い。
『ためらうな』ステラに促されて、俺はつぶやく。「テッ」
俺が放ったレーザーは鼻先からそのまま胴体を貫いたはずで……刹那のうちに最後の〈バッタ〉のすべてを粉砕したはずだ。苦痛などあるだろうはずがない。しかし。慈悲の一撃を与えたのだ、という上等な感情は湧いてこなかった。目障りなハエを追いはらったあとの安堵感と同質の感情しかなかった。
とにかく。やるべきことは終わった。すぐに瞼をおろす。夢はこれで終局を迎えることになる。
『おつかれさま、ヤックン。おかげで救われたよ』
なんともまぁ、当り障りのない労いの言葉。しかし、素直には許容できない。
『そいつはどうも。ま、俺としちゃそちらのほうにずいぶん救われたように思ってんだけどね。おめぇがいなけりゃ、何回も死んでた』
『ま、たしかにそうだけどね』率直な言葉だが、それがステラらしく感じた。
『しかし、経験を教訓とするならば、確実に強くなれる。現実における最強の導術者相手でも互角にやりあえるようになれるよ』
『ほめてくれんのはいいが、あんま魅力的だとは思えんな。ここは俺の夢なもんでな。だから……飽きずに俺を指導してくれんのを願うだけだわ』
あ、これは俺からの積極的な働きかけだ。ステラへと好意的関係をこれからも維持してほしいと請願したのだ。
『それはもちろん。しかし教師のやりがいは良い生徒を育てあげ、また修了する姿を見送ることだと思うのだよ。この私も実感したいものだ』
『そうかもしんねぇ。ま、俺は生涯を通じての師弟関係つうのに憧れがあんだ』
やや間をおいてステラの笑い声が心に響いた。
『同意するよ、本当に』
なら、と俺はさらに踏みこんだ言葉を見つけようとした。
『……それにしても、まことにすまない』
先にステラが発言した。しかも謝罪というかたちで。
『こんな不条理な戦場に投げこんでおいて、戦士としての成長を要請するなんて、ブラディなことだ。……まことにすまない』
ステラは震える声でそう主張した。が、俺としてはステラとの交わりが続くなら、それぐらいなんぞ拒否するわけがない。ステラが夢の世界からも消えることは、それほどまでに回避すべき事態なのだ。
『親愛なるお兄様。本当に苦しいことばかりで……すまない』
花梨の甘い香り刺激が無性にこそばゆい。本心からの謝罪ということなのか。
そして、思う。彼女は泣いているのだろうか。だとしたら、この俺が果たすべきことは声をかけること以上の行為のはずだ。しかし、できない。なにせ、ステラとは声だけでしか繋がっていないのだから。正直、悔しくてたまらない。
『親愛なるお嬢様。ステラ、だから気にすんな。なっちまったもんはしゃあねぇや。そこでうまく立ち回れんかどうかってのが、肝心だ』
すまない、とステラはまた謝った。声音からして、やはり泣いている。
この状況での最善を考えるうちに、胸が苦しくなる。喘ぎながら、言葉を探す。敵を屠るための言語列、それが表す心象は刹那のうちに紡ぐことができるのに、ひどく簡単なはずの言葉が思いあたらない。
『では、グッバイ』
ステラからのさよなら。
「また、近いうちにでも」
俺は素直に応じてしまった。本当に、反射的に。
そのすぐあとに、泣いている彼女にかける言葉が見つかった。
「わかった。泣きてぇんなら、俺はかまわんから」
しかし、ステラからの応答はなかった。花梨の香気もプツリと消えていた。
いよいよ夢が終わる。ステラとの繋がりも消える。
ふと思う。さよならの前に、ステラの情動をそのままに受けいれる言葉を発していたら、違った展開になっていたのか、と。
だが、マヌケな想像だ。ここは夢だ。己の願望をより素敵に仕立てあげるよう努めたところで、現実にいかほどの影響があるわけがない。夢にすがって生きているような俺だが、そこまで夢想家ではない。
誰かに語るあてのない不条理な夢での物語は、いつも不快なまま終劇する。しかし、俺は次もまた語ることだろう。抑えきれない衝動だからだ。
この経験をなにかのかたちにしないと、愛する存在のことを忘却の河に追いやってしまいそうだから。かたちにして縁を留めておきたいのだ。たとえ、己が構築した理想の存在と己自身とがひたすらに対話するという、醜悪なものであっても。
ようするに、俺はどこにいようとも救いがたい愚鈍なのだろう。