三話
代々木ダンジョンのゲートを潜り、再びあの「超人」の感覚に身を委ねる。 二日目の探索。俺は昨日の戦いで得た僅かなSPを、すべてSTR(筋力)へと注ぎ込んでいた。
【ステータス(ダンジョン内適応)】 STR:24.4(+0.42) VIT:21 INT:35 AGI:28 DEX:31 LUC:12 HP:250/250 MP:300/300
「……0.4の差か。数字だけ見れば微々たるもんだがな」
トマホークを軽く振るってみる。 不思議なことに、昨日よりも空気の抵抗が僅かに弱まったように感じられた。腕から背中へと繋がる筋肉の連動が、より密に、より強固になっているのがわかる。 たった「0.4」の差。だが、この積み重ねこそが地上の「出来損ない」だった俺を、本物の探索者へと変えていく唯一の手段なのだ。
俺は第1層を足早に突破し、通路の様相が変わる地点――第2層への入り口へと辿り着いた。 そこには、これまで見てきた青白い苔の通路とは異なる、禍々しい威圧感を放つ巨大な石扉が鎮座していた。
「……第1層の守護者、か」
代々木ダンジョンの記録によれば、第1層の最奥には新人の登竜門とされる「強敵」が配置されている。 ソロで挑むなど、JDAの講習では「自殺志願者」と一蹴される行為だ。だが、今の俺にはこの扉の向こうから漏れ出してくる、オゾンと獣の腐敗臭が混じったような死の気配が、何よりも甘美な香りに感じられた。
ギィィィ……。
重厚な石扉が、俺の侵入を拒むように、あるいは歓迎するように重い音を立てて開く。 広大な円形の広間。その中央で、それは待っていた。
体長は2メートルを優に超え、筋骨隆々の肉体はどす黒い産毛に覆われている。 手には、俺の胴体ほどもある巨大な鉄塊――粗末だが、それ故に暴力的な破壊力を予感させる大槌を握っていた。 「――オーク・バーサーカー」
第1層における「災厄」。 通常のオークよりも攻撃性に特化し、VITを犠牲にしてSTRとAGIに極振りされた変異個体だ。 奴がこちらを認め、血走った眼を向けた瞬間、空気が一気に爆発した。
「グルゥゥゥアアアッ!!」
轟音のような咆哮。それと同時に、巨体が信じられない速度で地面を蹴った。 速い。ゴブリンとは比較にならない。 俺は咄嗟にトマホークを構えたが、直後に突きつけられたのは「圧倒的な質量の暴力」だった。 振り下ろされた大槌が、俺の頭上の空気を圧縮し、逃げ場を奪う。
「――『瞬間演算』!!」
世界が、引き伸ばされた静止画へと変わる。 視界を埋め尽くす鉄塊。 脳内に投影される数万のシミュレーション結果。 (回避不能。防げば腕が砕ける。なら……!)
演算終了。 俺はトマホークの刃を、大槌の側面へと叩きつけた。 真っ向から受けるのではない。奴の超筋力によって加速した鉄塊の「ベクトル」を、横から干渉して僅かに逸らす。
ガガァァンッ!!
石畳が爆砕し、俺のすぐ横を鉄塊が通り抜けていく。凄まじい衝撃波が全身を叩き、肺の中の空気が強制的に押し出された。 「はっ……、ぁ……!!」
逸らすだけで精一杯。STR24.4。今の俺の最大出力をもってしても、奴の純粋なパワーには届かない。 だが、回避には成功した。
「次は、こっちの番だ!」
オークが槌を振り抜いた直後の、コンマ数秒の硬直。俺はAGI28の反射神経を全開にし、奴の懐へと潜り込んだ。 狙うのは首。トマホークの刃が、オークの強靭な皮膚へと迫る。
だが。
「ギギィッ!」
オークが下卑た笑みを浮かべた。 奴は振り抜いた大槌を強引に手放し、空いた左手で俺の顔面を鷲掴みにしようと腕を振り回した。 (スキル持ちか……ッ!?)
想定外の挙動。ただの獣ではない。 「演算、再開!!」
再び訪れる加速した思考。 MP計が急速に減少していく。 【MP:210/300】 迫り来る巨大な指の隙間を縫うように、首を傾け、体を捩る。 同時に、オークの足元に転がっている大槌の柄を利用し、跳躍するルートを導き出す。 俺は宙を舞った。 オークの頭上を越え、背後へと着地する。 その刹那、俺はすべてのMPをトマホークを握る右腕へと集中させた。
「これが……俺の、全力だあああッ!!」
STRの端数を、メイキングの理屈で無理やり一撃に乗せる。 トマホークの刃が、青白い魔力の残光を纏って一閃した。
ズバァァァッ!!
硬い。まるで鋼鉄の束を斬っているような手応え。 だが、トマホークはオークの分厚い首筋を半分まで断ち切り、鮮血が噴水のように吹き出した。 「ガ、ハッ……!?」
オークの咆哮が、苦悶の呻きに変わる。 膝をつき、前のめりに倒れ込む巨体。 奴は霧散する直前、信じられないという表情で俺を振り返り――そのまま魔素となって、第1層の虚空へと消えていった。 後に残されたのは、これまでの魔結晶とは大きさが桁違いの、拳大の輝く結晶。 そして。
「……はぁ、……はぁ、……ごほっ!!」
俺は激しく咽せ込み、その場に崩れ落ちた。 全身の血管が焼き切れるような熱。 脳を千枚通しで刺し貫かれるようなMP枯渇の予兆。 【MP:12/300】 【警告:精神エネルギーが極端に低下しています】
「……ふっ、ふふ……。あははははッ!!」
痛みを堪え、俺は狂ったように笑った。 死ぬかと思った。 心臓が止まるかと思った。 だが、生きた。 地上ではSTR2.4の弱者。誰からも見向きもされない、社会の歯車の一つ。 だがここでは、俺は「主」を屠った英雄だ。 この震える腕も、焼けるような肺も、すべてが俺が「生きている」ことを証明している。 俺は這うようにして、オークが落とした魔結晶を掴み取った。 これ一つで、地上の月収の数倍の価値がある。 だが、そんな金はどうでもいい。 「……もっとだ。もっと、強く……」
不意に視界の端でウィンドウが更新される。
【SP蓄積:3.20を獲得しました】 【ユニークスキル『瞬間演算』の習得度が上昇しました】
三ポイントを超えるSP。 これを振り分ければ、俺はさらに「本物」に近づける。 俺はポケットから帰還石を取り出した。 魔力を込める指が、悦びで止まらない。 「帰還」
白濁する視界の向こう側。 ゲートの外では、また「偽物の俺」を演じなければならない日常が待っている。 だが、俺の魂はもう、この暗い、日の当たらない迷宮の底に根を張っていた。
地上の太陽が、酷く眩しく、そして薄汚れて見えた。




