二話
石造りの通路に、トマホークの刃が肉を裂く鈍い音が響き渡る。 代々木ダンジョン第1層、その最奥。俺は返り血を拭うこともせず、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
「……残り、MPは」
胸元の小型SMDを覗き込む。 表示されている数値は【MP:120/300】。 スライム1体、そしてゴブリン3匹。それだけの戦闘で、俺の精神エネルギーは半分以上を失っていた。地上の俺であれば、とっくに意識を失って昏倒している数値だ。
「はは……、地上なら4回死んでる計算か。笑えない冗談だな」
自嘲気味に呟きながら、俺は壁に手をついた。 ダンジョン内適応によって引き上げられた五感は、暗闇の先にある「次」を敏感に察知している。 カツン、カツンと、硬いものが石畳を叩く音が、迷宮の奥から反響して聞こえてきた。
「スケルトンか。1層の難所だな……」
本来、初心者がソロで挑む相手ではない。だが、今の俺にはこの「ギリギリ」の状態こそが、生を実感させてくれる唯一の劇薬だった。 俺は再びトマホークを握り直す。 指先の震えは止まっていない。だが、それは恐怖ではなく、脳が、細胞が、さらなる加速を求めて悲鳴を上げている証拠だった。
通路の角から、カタカタと骨を鳴らして、錆び付いた剣を手にしたスケルトンが現れた。 その後ろに、さらに2体。 計3体のアンデッド。
「ギギッ……!」
感情のない虚ろな眼窩が俺を捉える。 俺は一歩、踏み出した。
(『瞬間演算』を使うか? いや、まだ早い。120しかないMPをここで使い切れば、帰還石を使う余力すらなくなる)
脳内で冷徹な損得勘定が回る。 AGI 28。これがあれば、奴らの大振りの一撃を避けるのは難しくない。 俺は加速した。
「らぁッ!」
トマホークを横一文字に振るい、先頭のスケルトンの肋骨を叩き折る。 手応えが硬い。肉と違って、骨は衝撃を逃がさない。トマホークの柄を通して、STR 24の膂力が俺の腕にも衝撃として跳ね返ってくる。 スケルトンがよろめいた隙に、俺は2体目の剣を紙一重でかわした。
キン、と耳元で風を切る音がする。 地上の俺なら、今の音を聞いた瞬間に首が飛んでいた。 その事実が、脳に快楽を注ぎ込む。
「……ああ、最高だ。この感覚だけは、何にも代えられない」
だが、スタミナは確実に削られていた。 1層をこれだけ連続で戦い続ければ、VIT 21の耐久力でも乳酸が溜まってくる。 3体目のスケルトンが、俺の着地際を狙って突きを放ってきた。 回避が遅れる。
「――演算、開始!」
思考が爆発的に加速する。 世界がモノクロに染まり、スケルトンの剣の軌道が、毒々しいほど鮮やかな赤い線で示される。 0.1秒。 俺は首を右に傾け、剣先を数ミリの差で回避した。 そのままトマホークの石突きでスケルトンの肘関節を打ち抜き、体勢を崩させる。
残りMP:90。
視界が不規則に揺れる。脳が「もう止めてくれ」と叫んでいる。 それでも俺は止まらない。 崩れたスケルトンの頭蓋骨に、全体重を乗せたトマホークを叩きつけた。
パカァンッ!
乾いた音とともに骨が飛散し、スケルトンが魔素へと還る。 続けざまに、残りの2体も強引に力で押し切った。
「はぁ……っ、はぁ……ッ! げほっ、……」
戦闘が終わった瞬間、俺はその場に膝をついた。 肺が焼けるように熱い。視界の端がチカチカと点滅し、こめかみをハンマーで殴られているような激痛が走る。 MP計を確認する。
【MP:45/300】
危険域だ。 地上での最大値を超えるMPを、俺は今、この短時間で消費し尽くそうとしていた。 ふらつく足取りで、俺は床に落ちた魔結晶を拾い上げる。 スケルトンのドロップは、ゴブリンのそれよりもわずかに大きい。
「……おい、嘘だろ」
ふと、視界の端に浮かんでいたウィンドウに、新たな通知が流れた。
【SP蓄積:0.42を獲得しました】
俺は思わず、震える手で画面を操作した。 メイキングのスキル画面を開く。 そこには、俺が今日1日で積み上げた戦果の結果が、残酷なまでに正確な数値として刻まれていた。
「……上がってる。本当に、少しずつだが」
スライム、ゴブリン、そしてスケルトン。 命を削るような戦いを経て、俺はわずかなSPを手に入れた。 成人男性の平均が「10」というこの閉ざされた世界で、その「0.1」の重みは地上とは比較にならない。
(このSPをSTRに振れば……、俺はもっと強くなれる。もっと深くへ行ける)
その誘惑が、疲れ切った心に冷たく染み込んでくる。 ダンジョンが現れて30年。 多くの者がこの「数値の成長」という麻薬に魅了され、帰らぬ人となった。 地上の不自由な自分を捨て、この迷宮の中だけで許される「超人」への道を突き進む。
「……戻らなきゃな。今日は、ここまでだ」
俺はポケットから、鈍い輝きを放つ「帰還石」を取り出した。 メイキングで作られたこの石は、俺のMPと引き換えに、瞬時に第1層の入り口、あの現実と非日常を隔てるゲートの前へと運んでくれる。
(石に魔力を込める……。髪や服、装備を「俺の一部」として強く意識する……)
失敗すれば、全裸でゲート前に放り出されるか、最悪の場合は身体の一部を欠損して転移することになる。 集中力が、極限まで削られた精神をさらに絞り上げていく。
「……帰還」
視界が白濁し、身体が強烈な重力に引かれるような感覚に襲われた。 耳の奥で、ダンツクちゃんのものとは違う、無機質なシステム音が響いた気がした。
次の瞬間。 俺の肺を、鉄錆の匂いではない、排気ガスと湿り気を帯びた「地上の空気」が満たした。
「……う、ぐぁ……ッ!」
膝から崩れ落ちる。 猛烈な重圧。 一歩前までは羽毛のように軽かった腕が、今は泥の詰まった袋のように重い。 視界は霞み、思考の回転は一気に10分の1へと減速させられる。
【STR:2.4】 【MP:4/30】
ステータス計測所のホログラムが、情け容赦なく俺の「現実」を突きつけてくる。 そこには、魔物を蹂躙した英雄の姿など微塵もない。 ただの、疲れ果てた不健康な青年が、石畳に這いつくばっているだけだ。
「……お疲れ様です、芳村さん。かなり顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
ゲートの陰から、心配そうな声がした。 JDAの鳴瀬美晴だ。彼女は俺の様子を見て、駆け寄ろうとして足を止めた。 俺が今、どんな「穴」を心に抱えているか、彼女には見えているのだろうか。
「……ああ、鳴瀬さん。なんとか……生きてるよ」
俺は掠れた声で答え、震える手で地面を押し、強引に立ち上がった。 重い。 空気が、重力が、社会が。 すべてが俺を「凡人」へと押し込めようとしている。
「……また、明日も来ますよ」
俺の言葉に、鳴瀬さんは少しだけ眉をひそめた。 その瞳には、かつてダンジョンに魅入られ、地上を捨てていった多くの探索者たちに向けられたものと同じ、静かな危惧が混じっていた。
「予定時刻は守ってくださいね。超過は……」 「保険の適用外、だろ? わかってるさ」
俺は彼女の言葉を遮るように背を向け、換金所へと歩き出した。 手の中にある小さな魔結晶。 そして、脳裏に焼き付いた「0.42」の成長の記録。
次は、もっと深くへ。 次は、もっと加速して。 俺の本当の命は、あの暗い穴の底でしか脈動しない。
夕暮れ時の代々木。 雑踏の中へ消えていく俺の影は、地上の数値以上に、長く、歪んで伸びていた。




