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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高梨 梛
第7章 初夏の影
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第13話 恭介の決意

恭介は執務室の椅子に座り、昨日訪れた別邸の記憶を思い出した。

あの別邸の静けさは夜の冷気とともに恭介の胸に重く沈んだ。

くれ縁に残った埃の流れ、雨戸の溝の不自然な揃い方、踏み石の周囲だけ逆向きになった埃。

それらはすべて、帳簿の“癖”と同じだった。


「……橋詰さんは、何を見たんだ」


恭介の呟きに、ヴァレリーが静かに答える。


「帳簿の異変だ。“抜かれた日付”と“浅い筆跡”。橋詰はあれを見逃すような男ではない」


橋詰——

恭介はその名を胸の中で反芻した。

几帳面で、無駄口を叩かず、一条寺家の帳簿を二十年以上任されてきた男。

数字のズレには敏感で、紙の質や筆跡の違いにもすぐ気づく。

使用人たちからの信頼も厚く、祖父・実淳からも「橋詰の目は誤魔化せん」と言われていた。

そんな男が、帳簿の異変を見逃すはずがない。


「……報告しようとしたのか」


「そうだ。だが——その途中で足を滑らせた。ただの事故だ」


恭介は息を呑んだ。

事故。

その言葉が、胸の奥で鈍く響く。


「事故……?」


ヴァレリーは調書に近づき、鼻を寄せた。


「橋詰は急いでいた。帳簿の異変に気づき、誰かに伝えようとした。足取りが乱れている」


恭介は調書を繰り、踏み石の写真を見た。

石の端に、靴底が滑ったような浅い擦れ跡が残っている。


「……踏み外したのか」


「そうだ。雨が降った翌日だった。くれ縁の縁は湿っていた。橋詰は手に帳簿の紙片を握っていたはずだ。片手が塞がっていれば、体勢を崩しやすい」


恭介は縁側の下に目を向けた。

写真には、紙の繊維が数本だけ残っている。


「これ……帳簿の紙か」


「橋詰は“証拠”を持っていた。だが、落ちた衝撃で手から離れた。影の末端はそれを見つけ、“整えた”。

 乱れた埃を揃え、足跡を消し、紙片を隠した」


恭介は息を呑んだ。


(……橋詰さんは、家を守ろうとして……)


事故の瞬間が、静かに、しかし確実に形を持ち始めていた。


「……朝比奈が整えさせた理由、分かるか?」


ヴァレリーの問いに、恭介は首を振った。


「橋詰の死を“事件”にすれば、一条寺は外から揺らぐ。内部の不正が露見したと見なされ、影の末端も暴走する。朝比奈はそれを避けたかった」


「……家を守るため、か」


「それだけじゃない」


ヴァレリーの声が低くなる。


「朝比奈は、お前を見ていた。“整えられた真相”を前に、お前がどう動くか。当主としての判断ができるか。それを測った」


恭介は唇を噛んだ。


「……橋詰さんの死を、試しに使ったってことかよ」


「違う。橋詰の死は事故だ。朝比奈は“事故を事故として扱う”ために整えた。そのうえで——お前が“整えない”という選択をするかどうかを見た」


恭介の胸の奥で、怒りと理解がせめぎ合う。


(……朝比奈は冷たい。だが、筋は通っている。家を守るために動いている)


その冷徹さが、恭介には初めて“重さ”として伝わった。

恭介は、拳を握ったまま空を見上げた。

静寂に包まれた室内。陽の光が差し込んでいる。

恭介がここに来て以来、変わらぬ日常。


(……事故は事故として扱う。整えずに、ありのままを受け入れる。それが俺の選んだ道だ)


だが胸の奥には、まだ小さなざらつきが残っていた。


(橋詰さんは……俺に何を託そうとしたんだろう)


悔しさ、悲しさ、責任。

それらが混ざり合い、恭介の中で静かに形を変えていく。


ヴァレリーがそっと隣に座った。


「恭介。お前は“整えない”と言った。ならば、その判断を背負え。それが当主だ」


恭介はゆっくりと息を吐き、その言葉を胸の奥に沈めた。


(……逃げない。俺が決める。俺が動く)


目を開いたとき、その瞳には迷いがなかった。


「橋詰さんの死は事故だ。それ以上でも以下でもない。俺は“整えない”。事故は事故として扱う」


ヴァレリーが満足げに尻尾を揺らした。


「それでいい。それが“当主としての判断”だ」


恭介は静かに頷いた。


「比奈にも見せてやるよ。俺のやり方を」


月明かりが、恭介の決意を静かに照らしていた。

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