第13話 恭介の決意
恭介は執務室の椅子に座り、昨日訪れた別邸の記憶を思い出した。
あの別邸の静けさは夜の冷気とともに恭介の胸に重く沈んだ。
くれ縁に残った埃の流れ、雨戸の溝の不自然な揃い方、踏み石の周囲だけ逆向きになった埃。
それらはすべて、帳簿の“癖”と同じだった。
「……橋詰さんは、何を見たんだ」
恭介の呟きに、ヴァレリーが静かに答える。
「帳簿の異変だ。“抜かれた日付”と“浅い筆跡”。橋詰はあれを見逃すような男ではない」
橋詰——
恭介はその名を胸の中で反芻した。
几帳面で、無駄口を叩かず、一条寺家の帳簿を二十年以上任されてきた男。
数字のズレには敏感で、紙の質や筆跡の違いにもすぐ気づく。
使用人たちからの信頼も厚く、祖父・実淳からも「橋詰の目は誤魔化せん」と言われていた。
そんな男が、帳簿の異変を見逃すはずがない。
「……報告しようとしたのか」
「そうだ。だが——その途中で足を滑らせた。ただの事故だ」
恭介は息を呑んだ。
事故。
その言葉が、胸の奥で鈍く響く。
「事故……?」
ヴァレリーは調書に近づき、鼻を寄せた。
「橋詰は急いでいた。帳簿の異変に気づき、誰かに伝えようとした。足取りが乱れている」
恭介は調書を繰り、踏み石の写真を見た。
石の端に、靴底が滑ったような浅い擦れ跡が残っている。
「……踏み外したのか」
「そうだ。雨が降った翌日だった。くれ縁の縁は湿っていた。橋詰は手に帳簿の紙片を握っていたはずだ。片手が塞がっていれば、体勢を崩しやすい」
恭介は縁側の下に目を向けた。
写真には、紙の繊維が数本だけ残っている。
「これ……帳簿の紙か」
「橋詰は“証拠”を持っていた。だが、落ちた衝撃で手から離れた。影の末端はそれを見つけ、“整えた”。
乱れた埃を揃え、足跡を消し、紙片を隠した」
恭介は息を呑んだ。
(……橋詰さんは、家を守ろうとして……)
事故の瞬間が、静かに、しかし確実に形を持ち始めていた。
「……朝比奈が整えさせた理由、分かるか?」
ヴァレリーの問いに、恭介は首を振った。
「橋詰の死を“事件”にすれば、一条寺は外から揺らぐ。内部の不正が露見したと見なされ、影の末端も暴走する。朝比奈はそれを避けたかった」
「……家を守るため、か」
「それだけじゃない」
ヴァレリーの声が低くなる。
「朝比奈は、お前を見ていた。“整えられた真相”を前に、お前がどう動くか。当主としての判断ができるか。それを測った」
恭介は唇を噛んだ。
「……橋詰さんの死を、試しに使ったってことかよ」
「違う。橋詰の死は事故だ。朝比奈は“事故を事故として扱う”ために整えた。そのうえで——お前が“整えない”という選択をするかどうかを見た」
恭介の胸の奥で、怒りと理解がせめぎ合う。
(……朝比奈は冷たい。だが、筋は通っている。家を守るために動いている)
その冷徹さが、恭介には初めて“重さ”として伝わった。
恭介は、拳を握ったまま空を見上げた。
静寂に包まれた室内。陽の光が差し込んでいる。
恭介がここに来て以来、変わらぬ日常。
(……事故は事故として扱う。整えずに、ありのままを受け入れる。それが俺の選んだ道だ)
だが胸の奥には、まだ小さなざらつきが残っていた。
(橋詰さんは……俺に何を託そうとしたんだろう)
悔しさ、悲しさ、責任。
それらが混ざり合い、恭介の中で静かに形を変えていく。
ヴァレリーがそっと隣に座った。
「恭介。お前は“整えない”と言った。ならば、その判断を背負え。それが当主だ」
恭介はゆっくりと息を吐き、その言葉を胸の奥に沈めた。
(……逃げない。俺が決める。俺が動く)
目を開いたとき、その瞳には迷いがなかった。
「橋詰さんの死は事故だ。それ以上でも以下でもない。俺は“整えない”。事故は事故として扱う」
ヴァレリーが満足げに尻尾を揺らした。
「それでいい。それが“当主としての判断”だ」
恭介は静かに頷いた。
「比奈にも見せてやるよ。俺のやり方を」
月明かりが、恭介の決意を静かに照らしていた。




