第9話 夏休み直前、平穏の日々
初夏、葵の日々は平和なものだった。
激動の五月を切り抜け、それ以上に胃を痛めるだろうと思った六月は呆気なく過ぎていった。多少の小競り合いはあったものの、首に手の跡が残ることも、夜中まで拉致される事もなし。
この場所に来て、葵は初めて平和という言葉の素晴らしさを噛み締めていた。
友人たちとの雑談、のんびりと屋上で取る昼食、放課後のバスケ。
一介の男子高校生がそんな事に涙を流すのもおかしな事だが、とにかくこの一カ月は普通の高校生らしく過ごせたのだ。
そして七月。
夏の暑さが厳しくなるこの季節。
梅雨のせいで湿度が際立つこの日、雨が降ると目に見えて不機嫌になる楓はこの日もリビングでだらけていた。
ソファで横になる彼女の頭は、ハーフパンツを捲くられた葵の太ももの上にある。
真っ白なその脚に顔を埋め、身じろぎ一つしない。時折大きく溜息を吐くのだから、機嫌が悪いという事だけは理解できた。
その体全体で「話しかけるな」と表している楓を睨むのは、反対に雨音を楽しめる彩乃だ。
次は私に膝枕してほしいと迫っていたが、この様子ではまだまだ先のようだ。楓の後頭部を恨めしそうに睨み付けている。
夏の日、外は白むほどの雨が降りしきる。
姉妹とその想い人は、かれこれ半日近くそうして過ごしていた。
折角の休みに出掛けるには雨が強く、かと言って家で過ごすには持て余す。
最初の頃よりは居心地もマシになってきた葵は、惰性で見続けていた旅番組から目を逸らした。
「葵くん、そろそろおやつにしよっか?」
テレビから目を離した彼に、彩乃は見計らったかのように提案する。
葵の膝が一向に空かないことに不満なのだろうか、楓を無視して葵の腕を取った。
ぽすん、と楓の頭がソファに落ちる。そのまま上半身が床にずり落ちた。
「今日は紅茶とクッキーにしようかなって。葵くん、チョコチップ好きでしょう?」
ソファから落とされかけた楓をいない者のように扱う彩乃。にこにことクッキーの箱を取り出して、ダイニングテーブルへと並べた。
むくりと起き上がった妹の目は、案の定不機嫌な時のそれだった。舌打ちと共に抗議する。
「ちょっと、アタシには何もないわけ?」
「楓ちゃんはまだ寝てたら?私は葵くんとお茶するから、邪魔しないでくれるかなぁ」
「アンタが先に邪魔してきたんじゃない!やっと寝れそうだったのに⋯⋯」
「四時間近く膝枕して貰ってて、葵くんだって疲れちゃうでしょ。そんなに眠いなら部屋で寝なさい?」
嘘だ。きっと彩乃は、この後葵に膝枕をねだるだろう。
単純に葵を独占されたことが気に入らないだけなのだ。
「彩乃さん、お湯沸いたよ」
「アンタもちょっとはアタシの心配しなさいよ!」
この一月で、葵は随分神経が太くなった。
日常的にギスギスした空気に晒され、その原因が自分なのだ。しかも何か悪いことをしている訳でもない。いい加減、この空気にも慣れる。
彩乃への口調もより砕け、それに嫉妬した楓に対しても敬語を使うことはなくなった。
未だに楓には苦手意識が強かったが、彩乃がいれば話は別だ。
楓は二人きりになれば、当たり前のように葵に手を出す。彩乃と三人でいれば、それを阻止してくれるのが彼女だった。身の安全は、長女が守ってくれる。
加えて、テスト期間中は楓も忙しさを増す時期だった。
葵への接触は減り、詩乃の厳戒令(テスト期間中は止めておきなさい、と楓を叱っていた)もあってか楓は大人しく耐えていた。
テスト明けが怖くもあるが、その時は彩乃を頼ろう。なりふり構ってられるものか。
「楓さんもおやつにしようよ。これ、結構高いクッキーだよ?」
「⋯⋯食べる」
「はいお水」
テーブルに着く楓に出されたのは、コップ一杯の水道水だった。やはり彩乃は、膝枕の件を根に持っていた。
小馬鹿にした様な顔に、楓の苛立ちが頂点へと押し上げられる。基本的に沸点が低い上、ただでさえ雨でイラついている。
苦笑いをする葵は、クッキーと紅茶を持ってそっと離れた。
瞬間、姉妹はテーブル越しに拳を見舞い合う。
普通女性ならせいぜい平手打ちだろうに。姉妹喧嘩の時は、まるで格闘家のようだった。
こんな光景にももう慣れてしまった。前は戸惑い、止めに入ろうかとも思っていた。
今では勝手にやらせておくのが一番だと知っている。喧嘩というには日常的で、当たり前の風景のようなもの。派手に見えるが、怪我という怪我は少なかった。
「なによ水って!なんでアタシだけこんな扱い酷いのよ!」
「うるさい!私知ってるんだからね!膝枕の時ずっと匂い嗅いでたでしょう!そんな変態は水で十分だって言ってるの!!」
「なによ、羨ましいだけじゃない!」
「当たり前でしょー!!」
姉妹の戦争は激化する。
彩乃の綺麗なハイキックが楓にヒットし、よろけたところに膝を入れる。
負けじと放ったアッパーは彩乃の顎を打ち抜いた。膝から崩れた彼女に馬乗りになり、振り落とした拳は床にヒビを入れた。
「⋯⋯今日も平和だなぁ」
しみじみと、チョコチップの甘さが口の中に広がっていく。香り立つ紅茶はまだ熱くて飲めそうにない。
そう、これでも平和なのだ。
あの六月が平穏だと言えるのは、きっと葵だけだろう。それ程までに、葵の周りにいる人間たちはネジが緩んでいた。
日に数度の強姦まがいの接触も、毎日捨てても取り付けられている盗聴器も、夜中に枕元で数時間視姦される事も。
こんな喧嘩も、一歩間違えれば刺されかねないプレッシャーですら。
葵にとっては、すでに当たり前のことだった。
◇
「なー葵、お前夏休みどうすんの?」
「どうすんのって、どうゆうこと?」
唐突な修一の質問に、葵は苦笑するしかなかった。彼は時折突飛な話題を振ってくる癖がある。内容は無く、話を盛り上げるのはお前だと言わんばかりに適当だ。
数学教師の体調不良で、この時間は自習となっている。自習とは名ばかりの、雑談タイムだ。
「いや、どうすんのかなって。俺としては皆でどっか行きたいんだけどさ、お前は都会に帰るのかなって思って」
「あぁ⋯⋯帰るつもりはないけどね」
正確に言えば、帰るところなんてない。自宅は売却済みだし、かつての級友の所にでも遊びに行く気ではあったが。
「まあ、俺らも受験前だしよ。泊まりで海とか行こうぜって話だ」
「あー、私も行きたい!来年はそれどころじゃなさそうだしねー⋯⋯」
予習に取り組んでいた杏子と桃花が話に参加する。
真面目な二人はしっかりと勉学に励んではいたが、やはり楽しそうな会話には混ざりたいようだ。
「泳げないけど、私も海は行きたいなぁ。折角水着も買ったし、ね」
言葉を区切って、思わせぶりな目線を送る。葵の為に買ったのだと言いたげな桃花は、実はプライベートで水着を買ったのは初めてである。
「だろ?こんな山の中じゃなくてさ、もっとこう⋯⋯青春できそうな場所で遊びたいよなぁ」
「なによ青春できそうな場所って」
「夏の青春って言ったら海だろ。去年行ったじゃんか」
その言葉に、杏子の顔が赤らむ。
その当時には既に二人は交際しており、杏子を見るに何か思い出があるのだろう。
話さなくなった杏子をよそに、桃花が続けて話を続ける。
「だったら、うちの別荘に来る?海の目の前だし、お金かからないし。あ、どうせなら一ヶ月くらいのんびりしたいねぇ⋯⋯」
「別荘って、西條さんちの?」
別荘という言葉に、葵は非日常さを感じた。桃花の家がかなりお金持ちだとは聞いていたが、平然と別荘という言葉が出てくるとは。
それもいいな、と頷く修一。隣の恋人も驚いていない。もしかしたら、何度も行っているのかも。
「一ヶ月くらいって、そんなにいて迷惑にならない?」
「ならないよ。私たちくらいしか使わないし、お父様も自由に使えって言ってるから」
「ねぇ桃花、そこって去年行ったところ?」
「ううん。あこそじゃなくて、最近建てた所。無人島みたいなとこだからリゾート地みたいな雰囲気なの」
新しいペットを飼いました、というような気軽さだ。改めて、桃花が違う世界の住人のように思えた。
旅行計画を立てる桃花は、心底楽しそうに見える。いつものようににこやかな笑顔を浮かべ、手帳に日程を書いていく。
リゾート地のようと聞いた二人も盛り上がる。普通の高校生がそんな所に一ヶ月も夏休みを過ごせるというのだ。嬉しくないわけがなかった。
比べて自分はどうだ。もちろん楽しみではある。海でのんびりと過ごすのは賛成だし、お金かからないというのであれば尚更だ。
リゾート地なんて行ったことがないし、少しでもセレブ気分の一ヶ月が過ごせるのはあまりにも魅力的な話だった。
しかし、懸念が彼を縛り付けているのも事実だった。自分が一ヶ月も友達と旅行に行くとなれば、姉妹が黙っているはずがない。特に楓は。
さらに問題は桃花のことだ。楓は桃花が自分たちと同類だと言っていた。盗聴器云々とも。
証拠はないが、今の彼にはその言葉がどうしても引っかかってしまう。
もし楓の言う通りであれば、桃花の別荘に一ヶ月は危険だ。カモネギどころの話ではなかった。
乾いた笑みを浮かべる彼を、桃花は見逃さなかった。
肩にそっと手を当て、真正面からの葵の目を覗き込んだ。
「ね、葵くんも来るよね?」
静かだが、力のこもった声。
肩に添えられた手は、汗が滲むくらい熱かった。
「私、楽しみにしてるから。思い出いっぱい作ろうね?」
有無を言わさぬ迫力に、葵はただ頷くことしか出来なかった。
◇
旅行の件を聞いた姉妹は、それはもう夜叉という言葉が相応しいほどの狂乱っぷりだった。喚き、叫び、楓は葵の胸ぐらを掴んでソファに押し倒す。彩乃は掴んだコップが弾け飛び、笑顔と青筋を浮かべていた。
学生では夏休みでも、社会人である彼女たちには仕事がある。着いて行く気満々だったことも驚きだ。
なんとか宥め、落ち着かせてから説明する。日程やメンバー、行くことになったキッカケなど、浮気を言い訳する男のようにまくし立てた。
姉妹は聞いているのかいないのか、じっと目を瞑って葵の話が終わるのを待った。
メンバーを聞いた楓は無言で立ち上がり、そのまま庭で電話を掛け始める。
窓越しから怒鳴り声が聞こえ、庭に置かれたリクライニングチェアーを蹴り飛ばす。その威力に浮き上がり、綺麗にひっくり返った。
彩乃はというと、とても複雑そうな顔をしていた。
葵の前では笑顔を取り繕っているが、こめかみがヒクついていた。後ろに組んだ拳はギリギリと握り締められ、手の平に食い込んだ爪が血を滲ませた。白のワンピースを赤く汚してしまう。
彼の自分への印象を書き換えている最中なのだ。ここで楓のようにしてしまったら、彼を自分に依存させられなくなってしまう。
精一杯理解のあるお姉さんを演じ切った彼女は、飲み物を買ってくると言い残して家を出た。気付けば、楓の姿もない。
思ったよりも荒れなかったな、と思った葵は、そのやり取りを笑って見ていた詩乃を見た。
詩乃曰くヤキモチだそうだが、そんなに可愛い言葉が似合うような反応ではなかったような気がする。
詩乃からの許しも出ているので、旅行には行ける。先に許可を取っておけば、姉妹も暴れることはないと踏んだのだ。
とりあえずは結果オーライ。
あとは夏休みまで、何もない事を祈ろう。きっと旅行する一ヶ月は、彩乃による過剰な世話焼きや嫉妬も、楓のセクハラもないはずだ。
夏休みまであと少し。姉妹へのフォローを考えつつも、なんだかんだ言って友人達との旅行を心待ちにしていた。
翌日、修一は腕にギプスを巻いて登校してきた。左の腕と指五本を骨折したようだ。転んだらしいが、随分と派手に転んだものだ。
余談として、昨晩湖の方で幽霊が出たらしい。
曰く、白いワンピースを着た悪鬼のような女が、湖に石を叩きつけながら叫び声を上げていたとの事だ。