ラブソング 5
少年の名前は、志誓といった。特に家庭環境に問題はなく、友人にも恵まれ、何の不自由もなく育ったが、なぜか生まれつき酷く臆病で、そしてそれに比例するように、身長だけどんどん高くなっていった。
最初は、でかい、大きい、と男子や女子たちから声をかけられるだけだった。しかしあまりに伸びる身長の為、バスケ部やバレー部に誘われることがあった。しかし彼は運動が大の苦手だった。私服に着替えて外に出れば自分よりずっと年上の女性に声をかけられ、酷く恐怖を感じた。
-木偶の坊。
-弱虫。
胸を突き刺すような言葉だった。どうして自分は少し背が高すぎるばかりに、こんな目に合うんだろう。弱く情けない精神だけを置いてけぼりにして、身長だけはどんどん伸びていった。
両親だけは優しく、たくさんご飯を作ってくれるのが救いだった。そのせいでこんなにも大きくなったんじゃないか、なんて、冗談でも笑えないけど。
「この子、また、ナンパされたんですってよ。見てよこの名刺、夜のお店よ。いくつに見えたのかしら。ふふ、まだ中学生なのに」
「ははは、背中にランドセルでも背負ったらどうだ」
「う、うるさいなぁ」
いってきます、と逃げるように家を出た。家は好きだし、家族は愛しいが、世間とは違い、優しすぎる自分の家は、なんだか逆に居心地が悪かった。けれでも自分には家しかないため、一般的な反抗期のようにふるまえない。思春期特有のなんだかよく分からない感情に翻弄され、志誓はよく、出かけていた。なるべく人が多い場所。女の人があまり通らない場所。
今でも思う。あの夜、あの時間、あの道を通らなかったら。僕たちは。僕たちは、もしかしたら。
駅の向かいの大通り、人だかりができていた。なんだろうと覗いてみると、男がギターを弾いていた。テレビで見るようなギター技術に誓が思わず見惚れていると、彼が大きく息を吸い込んだ。歌ってくれるようだ。らしくもなく少し楽しみになり背伸びをすると、彼が歌い始めた。
「 」
少し、どころではない。とんでもない音痴だった。正直、酷い。これは演技で出来るレベルではない。志誓が思わず呆けていると、ある者は大笑いし、ある者は耳を塞ぎ、ある者は大笑いしながら携帯カメラで録画していた。なんだかミュージシャンとは別の方向で、盛り上げている。
ふと酔っ払いが彼に向かって罵声を浴びせたが、彼は気にせず、下手な歌を歌い続けた。いつしかそこは拍手と笑いが止まらなくなっていた。すごいな、とこんなに素直に思ったのは、久しぶりだった。
夢中で聞いていると、いつの間にか、客は志誓だけになってしまった。男と目が合い、思わず目を反らしてしまった。初対面の人間には、必ずこうしてしまう。
「よう坊主、ありがとうな最後まで聞いてくれて」
「…っ、い、いぇ…すご、かった、です」
「ははは、でかい図体して声小せぇなぁ。まあ、しゃあねえか。まだ中坊だろう。それとももう高校か?」
え、と思わず喉の奥で小さく叫んだ。年を言い当てられたのは、初めてに近かった。
「どうして…」
「うん?いつも間違えられてるのに、ってか?分かるよそりゃ、肌が若ぇもん」
その男は。自分がひっくりかえっても敵わないほど強い目つきで。タバコ臭いのに全然嫌な感じがしなくて。僕の考えてることを言い当てる唇と、僕を見ている目が、なんだか、妙に、体に近く感じて、心臓から火傷していくようで、くらくらした。
こんな感情は初めてで、慌てて帰ろうとすると、送ろうか、と声を張り上げてきた。慌てて首を横に振った。
「そっか。またな」
また、な。苦しい。熱い。けどまた会いたい。矛盾した思いをまた見透かされたようで、慌てるように帰った。
それから、彼のところに毎日通った。毎日、耳鳴りがするほどの下手な歌を聞きに行って、終わったら、少しずつ、彼と話した。彼の名前は公彦、ギターはすごく上手いのに、歌は全く上達しなかった。
「ふーん、志す誓いで、しちか君ねぇ。かっちょいい。平成って感じ」
「か、からかわないでよ」
「はは、悪ぃ悪ぃ。なぁ、いつも聞いてるだけじゃつまんないだろう。ちょっと、歌ってみ」
「―っ、い、いい。僕なんて、どうせ下手くそだ」
「ぶっ、俺の前でそう言うか普通。いいから歌ってみろって。ほれ。俺しか聞いてないから」
「…う、う~…」
本当のこと言うと、恥ずかしかったけど、それよりもずっと、公彦の期待している目に耐えられない気持ちの方が大きかったんだ。半ば自棄になって、いつも彼が歌っている歌を歌った。毎日聞いてるから、空でも歌える。サビの前まで歌ってみると、彼がいきなり肩を掴んできた。
「もう一度」
「ええ?」
声が小さかったのかな、なんとか声を張り上げて、もう一度歌うと、今度はサビの前までいきつかないうちに、公彦に再び肩を掴まれた。
「お前、今日、みんなの前で歌え」
「むっ、無理だよそんなの!」
「いいから!な!歌ってみろ!絶対うけるから!」
「…っ、えええ…」
その時は、僕が公ちゃんより音痴だったんだ、と、軽くショックを受けた。僕が歌った方が笑ってくれるのだろうと思っていたくらいだった。
駅で歌い始めた。最初恥ずかしくて全く声が出なかったが、公ちゃんが背中を蹴るから、また自棄になって歌い始めた。すると人が一人、また一人、増えていった。
笑われるのが辛くて、目を閉じて歌い続けた。公ちゃんのギターの音だけに集中して歌い続けた。しばらくそうしていると、目がいい加減に重くなって、そろそろと目を開けてみた。そこには、信じられない光景があった。
いつもの人の二倍、いや三倍はいるだろう。皆が真剣に聞き入ってくれていて、前の方に座ってる女の子なんて泣いていた。僕はただただ信じられなくて、ただ、夢中で、歌った。
その日から、なんだか、僕の世界が一変してしまった。夜になれば歌い、たくさんのお客さんから拍手をもらい、そして休みの日の前には、公ちゃんの部屋に泊まり、そして、女の人のような扱いを受けた。
ちっとも嫌じゃなかった。むしろ嬉しかった。ギターケースの横に書いてあるバンド名、『公誓』が誇らしげだった。もしかしたら遊びかもしれない、それでもいいと、僕は思っていた。それくらい僕は彼にのめりこんでいて。
「お前、誓と怪しいなぁ。出来てんのぉ?」
「ああ、出来てるよ」
「うっそ、マジで!?わあ、ファン泣くぞ!」
とんでもなく、幸せだった。
幸せだった。彼のギターで歌っていれば、それで十分だったのに。
「失礼します、レコード会社の者ですが…プロデビューに興味はありませんか?」
「…っ、『公誓』がですか?」
「いえ、あなただけです。彼程度のギターなら、いくらでもいますから」
それだけで、よかったのに。
もちろん、プロの話は断った。公誓といつかプロになれたらどんなにいいだろうと思っていないことはなかったが、自分一人など、冗談ではなかった。
「…お、いたのか」
「うん、明日創立記念日で休みだから…ご飯食べた?食べてないなら、今から」
-ばんっ!
「女房気取りかよ」
「…っ、どう、した、の」
公ちゃんは、酔っていた。もともとそれほど酒に強くないのに、無理に飲んだのだろう、まだ酒が飲めない自分でもそうだと分かるくらいに、泥酔していた。
「なんなんだよ…お前、なんなんだよ…っ」
駄目だ今日は関わらない方がいい、水だけでも汲んでこようと思ったら、その腕を掴まれた。
「お前、本当に何しても怒らないよな。俺が勝手に音楽に連れ込んでも、女みたいにしても」
「それはっ」
公ちゃんが好きだから、とは、さすがに恥ずかしくて大声では言えなかったが、聞こえてしまったらしい。
「だからって、自分の将来ぶん投げてでも俺に同情すんのかよ!!」
「…っ、知ってた、の」
否定はしなかった。彼に嘘をつく気などなかったから。けど秘密を作ってしまったこと、それで余計に彼を傷つけたことは、とんでもなく後悔した。
「ああ…俺のとこにも来たよ。すげえ金だしてさ。はは、お前を解放してやれだと。俺が縛ってるせいで、お前がプロデビュー出来ないと思ってやがる」
「違う!」
「ああ、お前はそういう奴だ。けど、友達だったらどうしたよ。体の関係さえなきゃ、お前、俺を置いてでもプロに行きたいと思ったんじゃないのか」
「それは」
「…お前の夢捨てさせるくらいなら、ヤんなきゃよかった」
酷く。酷くされた夜もあった。けど、優しくされた夜の方が多かった。何より、とんでもなく、彼を愛していたのだ。
「…っ、文句言ってくる」
「…は?」
「その会社の奴に文句言ってくる。絶対許さない」
「おい、待てって!」
「離して!」
初めて拒絶された腕を公ちゃんは驚いたように見ていたが、それでも、再び腕を掴んでいた。
「お前、何考えてんだよ!敵、作んじゃねぇよ!お前、絶対デビューできるって!馬鹿みたいに売れるのに!」
「僕は、公ちゃんとじゃなきゃ、どこにも行かない!」
「~ああもう、分かんねぇ奴だなぁ!いいか、俺はっ」
「危ない!!」
誰かの声がした。僕らにつっこんできたトラックのライトは、泣きたくなるほどに、綺麗だった。
目が覚めると、お母さんがいた。彼女は泣きながら、僕の頭を軽く撫でた。
「よかった…目が覚めて…」
「…ぉ、かぁさん」
「私が分かるのね、よかった、本当によかった」
個室の病室で、包帯だらけの自分を見て、ああ車に撥ねられたんだ、と人ごとのように理解した。一番に自分の喉が無事かどうか確認してしまって、少し笑えてしまった。
-起きたか!?ったく、心配させやがって…
あれ。
お母さん、公ちゃんは。
聞きたい。聞きたいのに。聞けない。聞けない。なんでだろう。
「…おい、もう泣くなよ…」
「…ってよ…あいつ、なんであんなにいい奴が…トラックに踏まれて即死なんて」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
視線だけを動かすと、そこは霊安室で、その前で、原型がなくなったギターを抱いている男性が何人かいた。彼らはライブハウスで何度か合ったことがある、公彦の昔なじみだ。
「…っ」
「…っ、ど、どうしたの!?どこか痛いの!?」
「う…うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
どうして。どうして、どうしてどうしてどうして。僕だけが、生きてるの。