ラブソング 2
数秒と経たないうちに世界が止まってしまい、大きな羽音が聞こえてきた。公誓より一歩前に出た卯月が睨み付けていると、笑いながら、昨晩の天使が舞い降りてきた。
「ごきげんよう、時間通りに来ていただけるとは思いませんでした」
「そっちこそ」
男は鼻で笑うと、手を空へ向かって上げた。するとそれだけで、光る糸が降りてきた。まるで昔話の蜘蛛の糸だ。男がそれを掴むと、こちらへ向かって手を伸ばした。卯月よりも早く、近づいたのは公誓だった。
「さぁ、参りましょう」
男が公誓へ向かって手を伸ばすと、彼は慌てるように手をはね除けた。
「僕に触らない方がいい」
「何を…早く来なさい、上が待ちわびて」
男が焦れたように公誓の腕を引っ張ると、彼はまるで熱いものに触ってしまったようにはね除けた。怒りで顔を赤くした男が公誓の手を無理矢理力強く掴むと、公誓の顔は一気に青くなった。
「駄目だ!公ちゃんが出てく」
公誓が何かを言い終わるより早く、強い風が吹き荒れ、衝撃で彼のニット帽は飛ばされてしまい、そして、彼の背中から昨日見た巨大な黒い羽が生えてきた。風によって現れた長い前髪の下から覗いた顔は、公誓から想像できないくらいの強い目線だった。
「何気安く…こいつに触ってんだよ!」
違う、と卯月は瞬間的に思った。これは公誓ではない。では彼は誰なんだろう。顔も、声も公誓なのに、何かが違う。二重人格と取れないこともなかったが、それは公誓の姿をした別の誰かだった。
天使の男も驚いたようで、目の前の『公誓』を見て、慌てるように大きな鎌を手から産んだ。それは死神が持っているような鎌で、しかしそれを持つ彼は震えてしまっていた。
「だ、誰だお前は!聞いてない、あの男がこんな人格など…」
焦った男を助けるように、天から伸びた糸が卯月目がけて飛んでくるなり絡みついた。驚いて思わず叫ぶと、糸の痛みはなかった。それどころか糸は切れてしまっていて、そして自分を抱きあげてくれているのは公誓だった。
「よう、大丈夫かよ。別に俺はお前みたいなのどうでもいいんだけど、あいつがうるせぇからな」
「…っ、あなた、誰?公誓君は、どこ?」
「…ああ?お前、女かよ」
「いたっ」
胸を掴まれた―気付くより早く卯月は真っ赤になり思わず殴ろうとすると、公誓は大きく笑って、その手を軽々と避けた。そうこうしていると、怒り狂ったように天使が鎌を振り下げてきた。卯月を抱いたまま公誓が避けると、その先を糸が待っていた。
「おっと!」
口笛交じりに公誓が避けるが、糸はどんどん本数を増やし、彼を追っていく。公誓はどこか楽しそうに、黒い羽を羽ばたかせながら、空へ空へ逃げていった。しかし足先には、いつの間にか無数の糸が巻き付いてしまっている。
「おい…止めた方がいい!中途半端に逃げると、天界でも地上でもないところに行ってしまいますよ!」
「上等じゃねぇか!」
「私は上等じゃない!」
恐怖とこっちの『公誓』が生理的に嫌で、暴れてみるが、空中のため、大人しく掴まっているしかないのが悔しくてたまらない。公誓は楽しそうに、上下にまるでジェットコースターのように、糸に絡まれながら飛んでいった。胃と脳が揺さぶられ続け、どちらかといえば気持ち悪さで、卯月の意識はいつの間にか飛んでいた。
「卯月さん…卯月さん!」
「…っ、うーん」
目を覚ますと、ニット帽がない公誓がいた為、思わず半泣きになりそうになるが、優しい目と優しい声に、今度は安心で泣きそうになった。
「公誓君!?公誓君だよね!ああ、よかった…」
「ご、ごめん。ごめんね。その…とんでもないこと…」
別人格が現れている間の記憶はあるらしい。公誓がどんどん赤くなっていく前で、卯月は怒りのあまり、もう赤くなることもなかった。
「もう一回出して…殴らせて」
「わぁ、お、落ち着いて。いい人なんだ…根は。根は、いい人なんだ」
「それは…」
公誓にかかればどんな人でも根はいい人にならないか、とはさすがに言えなかったが。彼に免じて、これ以上責めるのは止めた。というか今はそんなことよりも―
「…どこ、だろうね。ここ」
「…僕も、そう思ってた」
二人は漫画のように、雲の上に座っていた。周りには空もあり、他にも雲があり、遥か下には地上が見えていた。しかしここはただの空の上ではないことくらいは分かった。何たって、雲の上に座ってるんだから。
ずっと恋がしたかった自分が言うのも何だが、恋はこんなに面倒なものだと思わなかった。彼女が学校に来ていないと気づいた瞬間帰りたくなるし、おまけに教室に来てみれば、卯月と滝の噂で持ちきりだった。噂話だけでこんなに怒れる。
「あいつと滝が付き合ってるって本当?」
「本当じゃない、一緒に帰ってたらしいよ!」
「キスまでしてたらしいよ!」
「きんもっ!」
平常心平常心、水無瀬はなんとか自身に言い聞かせるが、今すぐ騒がしい女子全員を教室からたたき出したくてどうにかなりそうだった。
噂はほとんどでたらめだろうが、大本は本当のようだ。卯月が他の男と帰るなど絶対に許されない。大体あの男何者なんだ。卯月が入った剣道部隣の柔道部部長だからなんだ、なんで卯月とあんなに親しげなんだ、つうかあの慈愛の目は何だよ、そんなに卯月が可愛いかこの野郎。
怒りは収まらず、水無瀬は高速で卯月へメールを打っていたが、すぐに閉じた。具合が悪くて眠っているかもしれない、となけなしの自制心が疑ってくれたからだ。
雪香なら何か知っているかもしれない、と思って雪香へメールを打っていたその時だった。
「え」
水無瀬は思わず、小さく呟いた。それはもう本当に虫のような声で、叫び声とはほど遠い、大衆の中ではかき消されてしまう声。事実、誰も不振がってこちらを振り返らなかった。
しかし、何か変だ。今、絶対に何か起こった。何か上手く言えないけど-
ふ、と水無瀬は自分の携帯へ視線を落とした。雪香宛てへのメール、何を送ろうとしたか忘れてしまった。何だ、何を送ろうとした。
水無瀬に言い表しようのない不安が走った。
何か、とても大事な何かが消えてしまっている。そうはさせるか、このまま時間だけが経つともう完全にそれは消えてなくなってしまいそうで、水無瀬は必死に携帯を握りしめ、そして、走り出した。
―同刻、生徒会室。
前日宿題をここで片付けたのはよかったが、置いてきてしまったのだ。授業が始まる前に取りに来れてよかった、雪香がほっと笑って、ノートを抱いて、教室へ急ごうとしたその時だった。
「あれ?」
何だろう、今、何かおかしかった。自分の中の何かが消えてしまった。何だ、何だ、何だろう。何だろう、どうしてこんなに泣きそうなんだろう。
「返して」
雪香がぽつりとそう呟くと、目の前に巨大な異形が現れた。それは雪香をゆっくりと抱きしめると、直接心の中へ語りかけてきた。
―いらないよ、そんなもの。今も昔も、君には誰もいなかった。君しかいない。そうだろう。君だけなら、いつまでも君が一番だ。
「そうね、あなたの言ってることはとても正しいわ。でもね」
ランチボックスともう一つある箱、その中にある二つのマフィンが教えてくれる。これは誰にあげようとしていた。誰にあげようとしていた?
「私は二つも食べられないのよ」
駄目だ早くしなければ全て忘れてしまう、雪香はたまらず走り出した。そして目を閉じると、階段の上から飛び降りた。気がつけば、そうしていたのだ。
―同刻、若人の部屋。
店は昼からのため、若人は比較的遅くまで寝ていた。ぼんやり目を覚まし、顔を洗って、台所へ立つ。自然に落としてしまった二つの卵に、手が止まった。
誰が食べるんだ、二つも。
呆然としている間に卵は焦げてしまい、若人は部屋中を見渡した。何だ、何が足りない。コートもある、財布もある、鍵もある、大事なものは揃ってる。何が足りないんだ。
汗までかいてきた、正体不明の、よく分からない大きな不安、若人はたまらず部屋中の窓を開け、部屋中の扉を開けた。部屋の中全ての家具を見てもまだ落ち着かない。何を探しているんだ、焦りながら、若人はふと鏡の前で足を止めた。
首もとにくっきり残った噛み跡、当然自分で付けられるわけがない。付けるべき相手も思いつかない。酔った勢いで育美にでもやられたかと思ったが、育美は最近ずっと店が忙しいはずだ。自分も忙しかったが、なぜか慌てて帰った記憶がある。何だ、どうして慌てて帰った。
こんな誰も待ってない部屋に。
違う、と若人は小さく呟いた。何が違うのか上手く説明出来ない。何だ、何かが絶対におかしい。頭の中で、誰かがずっと泣いている。誰かがずっと呼んでる。
-ごめんね。ごめんね若人。ごめんなさい。
誰だ、誰だ君は。
-ありがとう。
待て。どこに行くんだ。君は、君の名前は-…
消えてしまいそうな恐怖に耐えきれず、若人はハサミを握りしめ、自分の手に突き立てた。溢れ出す血と痛みに、少しずつ消えてなくなろうとしていたものが一気に溢れ戻ってきた。
「卯月」
どこに、いるんだ。
「え…っ、先輩!?」
「…わ、きゃああ!!」
勢いのまま階段から落ちた雪香と、頭を抱えて走り回っていた水無瀬体ごとぶつかった。あまりの激痛に、二人の中に、ゆっくりと大切なものが戻ってきた。
「…っ、みな君」
「…先輩」
目の前の雪香があんまり泣くから、自分も泣きそうになった。が、必死に耐えた。男としてのプライドはもちろん、今は泣いてる場合ではないからだ。
「俺、今、卯月を忘れてました」
「私…私もだよ。何、何?どうしたの?何事なの」
「それは私が説明しましょう」
そう言って現れた人物に、水無瀬は(そういえばさっきまであった)怒りを忘れて呆けてしまい、雪香は思わず驚きのあまり口元を覆った。
「その前に、あんたがどうした」
「…っ、気にしないで下さい」
「いや、その大きさは無理だよ」
現れた滝の背中には、これでもかと大きい純白の羽が生えていた。
急用で休むと職場には電話をして、若人は急ぎ出かける支度をしていた。卯月がなぜ消えたか、なぜ記憶まで消されそうになったが、考えるほど気が長い人間ではなかった。行く場所は当然決まっている。彼方のところだ。卯月が消えてしまったことで、彼の存在自体が消えてしまうこともあり得るが、今は頼るしかなかった。
万が一卯月が帰ってくるかもしれない、鍵をかけるかかけまいか若人が迷っていると、後ろから誰かがやって来た。若人がゆっくり振り返ると、そこには両目を真っ赤に腫らし、それでもまだ泣き続ける彼方がいた。