覚醒 3
「歩くのは?慣れてるのよね」
「それは、まぁ」
「じゃあ、まあ、不幸中の幸いか。よかったね、動けて」
かつり、と滝の動きが止まった。どうしたの、卯月が振り返った。彼は酷く、顔色が悪かった。
「…滝さん?」
「…っぱり無理だ…私には…こんな…」
「え?何?よく聞こえな」
滝に近づきかけた卯月が思わず、ひっと小さく叫んだ。いつの間にか、二人の周りはたくさんの『粒』に囲まれていた。一つ一つは小さいが、こうして大量に集まっていると妙に怖い。それでもなんとか剣を構えると、信じられないことが起こった。『粒』たちは集まっていき、やがてそれは巨大な異形へと変化してしまった。
「嘘…なんかさっきよりでかくなってない?」
「キ●グスライムみたいですね」
「あんた本当に天使!?」
さてどうしようか-斬ったところで分裂するだろうし、卯月が迷いながらも必死で剣を握っていると、ふと、別の気配が現れた。現れた男の背中からは翼が生えていて、彼は一瞬で天使だと分かった。滝の味方かと思ったが、彼は明かにこちらに敵意を持っていた。
「何をしているのです。その人間を殺すように支持を出していたはずですが」
「…申し訳ありません」
何の話-卯月は聞きたくてたまらなかったが、ぐっと我慢した。目の前の天使はこの前の中年風の男性よりも、滝よりも、ずっとずっと、言い表しようのない迫力があった。
「お嬢さん、恨むなら自分の不運を恨んで下さいね」
考える間もなく男の手から光が産まれ、即座に理解した。自分はこのままではあの光に殺される。恐怖のあまり卯月は避けることも忘れ、両目を思わず閉じる。しかしなかなか痛みが来ない。
そろそろと両目を明けると、思わず叫びそうになった。光る手を険しい顔で、滝が押さえつけてくれていた。
「滝さん!」
熱いのか痛いのか想像も出来ないが、苦しそうなのは十分伝わってきた。
「何をしているんですか、あなたも焼き殺しますよ」
「ぐっ…!」
しばらく耐えていたが滝は呆気なく倒れて、気を失ってしまった。卯月は小さく悲鳴をあげて滝をかばうように抱き起こしたが、彼に反応はない。死んでしまったかもしれない-そう想像してしまった瞬間、涙が溢れた。
「滝さん!滝さん!」
「これはいい…天界の裏切り者と、人間界の馬鹿が心中か。さぁ、焼けしんで下さい」
「…!」
卯月は滝をかばうように抱き、また恐怖で両目を閉じた。
何だろうこの感じ。
「…会長?どうしたんです」
呼ばれて、ああ、と雪香が笑って振り返った。
「なんでもない。それよりすっかり遅くなっちゃったね、もう帰っていいよ」
「そうですか?じゃあすいません、帰ります。親、うるさいんで」
「ごめんね遅くまで。また明日」
また明日、と後輩が走っていくのを笑顔で見送り、雪香は一人、生徒会室の窓から校舎を見下ろした。もうすっかり日が暮れてしまった、少し不気味な校舎。しかしそれは生徒会長である雪香には見慣れたもので、特に恐怖もなく、違和感もなかった。ただ何だろう。さっきから呼ばれてるような、どこかに今すぐ駆け出したいような、妙な衝動に揺さぶられているのだ。
具合でも悪いんだろうか-雪香は自分の体内のよく分からない異変に耐えられなくなり、まだ終わってない書類をまとめ、全部明日に回そうと決めた。
早く帰っておばあちゃんのお汁粉が食べたい-そう思うと少しほっと出来て、ふと、自分の顔が鏡に映った。思わず、そのまま見入ってしまった。
自分の人生が、もっと言えば自分が何なのか分からない。まだ思い出せない。気がついたら病院で、まるで途切れ途切れの映画のように、今までの人生を、少しずつ覚えているだけだった。
お父さんもお母さんも死んでいて、私は一人で暮らしていた。しかしその部屋は学生一人で暮らすにはなんというか-豪勢すぎて、なんだか気味が悪くてすぐに引き払った。そして、今までろくに連絡を取ってなかった(らしい)おばあちゃんの家に転がり込んだ。とにかく、記憶も曖昧の中、孤独に耐えられなかったのだ。
祖母は最初私になんだか怯えているように見えたが、それは3日も経てば彼女は心から笑っていてくれていた。それくらいは自惚れられるくらい、彼女は懸命に、いきなりやってきた孫を愛し始めてくれたのだ。
毎日見る自分の顔も、元から友達だったと名乗って面倒を見てくれる級友たちも、なんだか全て不自然で、全てが自分だけを残して通り越していくようだ。
毎日顔を見ていて気づいたことがある。私は整形している。それも、かなり大がかりに。ただの女子高生のはずなのに、この顔は、あの部屋は、そして異常なまでの貯金額は一体何なんだろう。
知りたい。知りたいが、怖い。けどそれを悟られたくないから、努めて笑って生徒会長をやることにした。
不安だらけの中、卯月と出会った。通り過ぎていく現実の中で、彼女だけが光って見えた。運命的なまでにあっという間に仲良くなることが出来た。彼女といると不思議なくらいにほっとした。その安心感に、逆に不安になるほどに。
この心地よい感情はなんだろう。卯月は自分とは初対面だと言っていたが、本当にそうなんだろうか。記憶を失う前の自分と、どういう繋がりがあったんだろう。まるで恋のような、この激しい激情は-
そう、まるで今のように。
ふ、と雪香が顔を上げた。目の前には、不思議なゼリー状の液体が、まるで水道から落ちる水のように垂れてきていた。そしてそれは巨大な体を成し、雪香を見下ろしていた。
恐怖はなかった。叫ぶことも怯えることもなく、ただじっとその異形を見ていた。なんだろう、ずっとこの異形に会いたかった気がする。足の底から沸き上がってくるような愛しさに、泣いてしまいそうだった。
愛してる、そう、愛してる。私はこの異形を愛してる。
震えるように異形に向かって手を伸ばすと、その手はどこからか現れた風に向かってはじき飛ばされた。
「大丈夫ですか雪香先輩!」
「…っ、みな君!」
水無瀬の顔を見て現実に引き戻された雪香は、ほっと笑った。よかった、訳の分からない自分に引き込まれるところだった。
「何もされてない…っていうか、あれは何?そして、みな君のその超能力っぽいのは何なの?」
「説明は後で…つうか、説明できるかどうか分からないっすけど…あれ?」
異形が消えてる、水無瀬が顔を上げると、実は背中にへばりついていた彼方が、彼の背中をばんばん叩いた。
「向こう!向こうの校舎!」
「いててて、なんだ、なんだよ!」
「卯月お姉ちゃんが危ない!」
「ああ!?」
水無瀬が必死で目をこらすが、ぼやけた校舎の中に、人影があるような気がする、そんな程度にしか見えない。こいつ視力いくつあるんだ、水無瀬がつっこむより前に、彼方は彼の肩までよじ登り、叫んだ。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
「おい、そんなに危ないのかよ!くそ、今から走ったんじゃ…」
「駄目よ」
卯月ちゃんは駄目。卯月ちゃんは駄目。卯月ちゃんは。
あれは わたしの もの
気がつくと、消えていたはずの異形が現れ、雪香を抱きしめていた。それは図体の大きさと異様さからは想像できないほど優しく抱きしめていた。そして異形が、こう囁いてきたのだ。
-お帰り、雪香。狂気へ、お帰り。
帰ってきてはいけない気がしていた。けど雪香は狂気へ帰ることを選んだ。卯月を守るために。雪香が決意したように異形から離れると、水無瀬が慌てるように彼女の隣に立った。
「大丈夫っすか?」
「うん、大丈夫。卯月ちゃんを助けられそうな気がする」
「気がするって…」
なんとなく彼方の顔を見るが、彼は必死で卯月を心配しているだけで、特に雪香に何かしたようには見えなかった。けど彼女がそう言うのならそうなんだろう、水無瀬が手をかざすと、雪香も真似た。
「じゃ、一緒にいきますか。おいチビ、こっちの方向でいいんだよな」
「うん、そのまままっすぐ」
「っしゃ…いっせーの」
「「せ!!」」
ごう!!
「え」
吹っ飛ばされるのは自分だったはずなのに、吹っ飛ばされたのは天使の男の方だった。後ろの異形は恐怖を感じたのか逃げてしまい、彼は驚いたように目をまばたきさせ、そして、宙へ舞った。
「何をした!」
「何って…」
何もしてないんだけど、卯月は滝をかばいながら、男に気づかれないように、風が現れた気配を辿った。遠くてよく分からないが、知ってる気配がいるような気がする。彼方が助けてくれたかもしれない、そう思うと急に強気になれた。卯月は剣を構えて、立ち上がった。
「次はもっとでかいの行くよ」
完全にはったりだったが、天使は騙されてくれたようだ。男は悔しそうに顔をゆがめ、そして窓から外へ飛んでいった。
「いいですか。次はこんなものでは済みませんよ」
そう言って天使は逃げていってしまい、卯月は舌を出して手を大きく振った。そしてちょっと笑うと、膝をついた。足が震えてる。さすがに少し怖かった。
そうだ滝は-卯月が慌てて振り返ると、彼はもう立ち上がり、手首を鳴らしていた。
「貸しを作ったつもりですか?」
「悪い?」
卯月が笑うと、滝も少し笑った。すると携帯が鳴り響き、卯月が出ると、電話の向こうの若人は酷く怒っていた。今何時だと思っているんだ、と怒ってる。怒って、くれている。
「天使は貸しを作りません。これで貸し借りゼロです、願いを叶いましょう」
「…若人の側に、いたいです」
泣きながら、涙をぬぐいながら卯月がそう願うと、滝がため息一つ、頷いた。
「叶えましょう、その願い」
滝は教えてくれた。自分は既に人間ではないこと。天使たちが自分を『回収』しようとしていること。そして自分は、異形にとってすごいご馳走なのだと。
なるほど、まるで四面楚歌だ。でも。
「いってらっしゃい、気をつけろよ」
「うん!いってきます」
「ようおはよう」
「おはよう、卯月ちゃん」
でも、どうしてかな。全然怖くない。全然不利な気がしない。負ける気なんてないって、いくらでも強がれる。
笑顔で登校してくる卯月を屋上から見守り、滝はほっと笑う。彼女の監視、そして最終的には殺す任務からはもう外れたが、それでもこうして毎日見守っている。彼女は特に変わってないようだ。否、むしろ、自分が変わりすぎたのか。
彼の背中からは、無くしたはずの天使の羽が生えていた。
「さて…今日の遅刻の理由は何にしましょうか」
自分の身に何が起こったのか分からないが、結果として、滝の背中から、ランダムに羽が復活するようになってしまった。復活する時間も、再び引っ込んでしまう時間も、自分で全く操作できない。こんな形でも羽が復活したことが嬉しくないといえば否定はするが、それでも、やはり。
困る。羽も、彼女の笑顔も。やがて来るだろうその時を思うと、ただ、辛い。