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昇降口で言えた三文字の言葉

昇降口で偶然、律を見つけたゆらは、心臓を跳ねさせながらも声をかける。「帰る?」。たった三文字の言葉なのに、彼女にとっては告白に近いほど大きな勇気だった。律は自然に笑い、「帰ろっか」と答える。ふたりは並んで校門を出て、放課後の冷たい風の中を歩き始める。授業の話、購買の話、どうでもいい冗談。けれどゆらには、そのすべてが宝物のように感じられた。やがて駅への分かれ道で、彼女は少しでも一緒にいたくて、遠回りを提案する。。。が?

昇降口には、放課後だけの匂いがある。


外から入り込む冷たい風と、靴箱に染みついた土の匂い。誰かの制汗剤の甘さ。濡れてもいないのに少し湿ったコンクリートの匂い。部活へ走っていく生徒たちの声が、天井の高い空間で跳ね返り、世界はまだ騒がしいふりをしていた。


でも、星野ゆらの耳には、その全部が少し遠かった。


下駄箱の前に、朝倉律がいた。


紺色のスクールバッグを片方の肩にかけ、スマホの画面を見ている。夕焼けがガラス戸から斜めに差し込み、律の横顔の輪郭だけを淡く光らせていた。前髪の影。伏せた睫毛。親指が画面を滑る小さな動き。その何もかもが、ゆらの心臓を勝手に震えさせる。


会えた。


その一言だけで、胸の中に小さな花火が上がった。けれど同時に、足元には見えない穴が開く。声をかけるか、かけないか。ただそれだけの選択なのに、世界の分岐点みたいに見えた。


ゆらは自分の下駄箱を開け、ローファーを取り出すふりをしながら、律のほうをちらりと見た。


今なら言える。


いや、無理。


でも、今逃したら?


いやいや、別に今日じゃなくても。


でも、明日も同じとは限らないって、カナが言ってた。


脳内で自分同士が会議を始める。議長は不在。全員が感情論。終わっている。


律がふと顔を上げた。


「あ、星野」


名前を呼ばれただけで、ゆらの体は固まった。


「い、今帰り?」


声が少し裏返った。終わった。今のは確実に不審者寄りだった。だが律は気にした様子もなく、いつもの穏やかな声で答えた。


「うん。星野も?」


「うん」


そこで会話が止まった。


昇降口の向こうでは、サッカー部らしき男子たちが「早くしろよ」と叫びながら走っていく。誰かの靴袋が床に落ちる音。ガラス戸が開いて、風が入ってくる音。世界はちゃんと動いているのに、ゆらと律の間だけ立ち止まった。


言うなら、今だ。


ゆらは息を吸った。


「……帰る?」


たった三文字。


告白でもない。約束でもない。世界を変えるような言葉でもない。


けれど、ゆらにとってその三文字は、胸の奥に置きっぱなしだった小さな爆弾のピンを抜くようなものだった。声にした瞬間、心臓が耳の裏まで跳ね上がった。


律は少しだけ目を丸くした。


その一瞬で、ゆらはありとあらゆる最悪を想像した。ごめん、今日は用事ある。友達と帰る。ひとりで帰りたい。ていうか何で? そういうふうに言われる未来が、頭の中で雑に上映される。


でも律は、ふっと笑った。


「うん。帰ろっか」


その笑顔で、今日のゆらは、救われた気がした。


昇降口を出ると、空気が少し冷たかった。十月の終わり。冬というにはまだ早いのに、風の端にはもう、薄い氷の気配が混ざっている。校庭からは運動部の掛け声が聞こえ、吹奏楽部の音階練習が、少し外れながら夕方の空に浮いていた。


ふたりは並んで校門へ向かった。


肩が近い。けれど触れない。歩幅は自然に合っている。律は急がない。ゆらが少し遅れると、何も言わずに速度を落としてくれる。その優しさがあまりにも静かで、ゆらは逆にどうしていいかわからなくなる。


「今日の現代文、寝かけてたよね」


律が言った。


「え、バレてた?」


「教科書持つ手が三回落ちてた」


「それは寝てたんじゃなくて、作者の気持ちに深く潜ってた」


「潜水型読解」


「そう。新しい学習法」


「先生に言ったら怒られそう」


「言わないで。内申が死ぬ」


律が笑った。


その笑い声は大きくない。けれど、ゆらの中にはやけに響いた。校庭のホイッスルより、吹奏楽部のトランペットより、ずっと近くで鳴る音だった。


会話はどうでもいいものばかりだった。


数学の先生がチョークを折りすぎる話。購買の焼きそばパンが今日も瞬殺だった話。カナが文化祭で宇宙人の失恋ソングを歌うらしい話。天文写真部の一年生が望遠鏡を逆から覗いて「星が遠いです」とボケた話。


どうでもいい。


本当に、どうでもいい。


それなのに、ゆらはその全部を忘れたくなかった。


会話がふっと途切れる。普通なら少し気まずくなる間。でも律との沈黙は違った。無理に埋めなくてもいい。スマホに逃げなくてもいい。沈黙そのものが、ふたりの間に座っている透明な猫みたいだった。何も言わないのに、ちゃんと温かい。


ゆらは、その沈黙が好きだった。


たぶん、律のことを好きになった理由の半分くらいは、この沈黙にある。


校門を出ると、駅へ向かう道が二つに分かれていた。右へ行けば最短ルート。商店街を抜けて、十分も歩けば駅に着く。左へ行けば川沿いの道。少し遠回りになる。街灯も少なく、人通りも少ない。でも水面に夕方の光が残って、きれいな道だった。


いつもなら右。


今日は、左へ行きたかった。


もっと一緒にいたい。遠回りしたい。


その言葉は、喉まで出てきて、そこで止まった。直接言うには重すぎる。重すぎるし、恥ずかしすぎる。ゆらは代わりに、なるべく普通の声を作った。


「今日、ちょっと遠回りして帰らない?」


言った瞬間、自分の耳が熱くなるのがわかった。


遠回りしない?


いや、それもう「あなたと長くいたいです」ってテロップ出てるじゃん。字幕オンじゃん。バレる。絶対バレる。ゆらの脳内で、カナが「はい出ました〜青春の遠回り〜」と実況している。


律は少し驚いたように瞬きをした。


「いいよ」


ゆらの心臓が、また一段高く跳ねた。


「俺も、そっちの道のほうが好き」


好き。


道の話だ。わかっている。完全に道の話。道路への感想。左ルートに対する評価。


それなのに、ゆらの心は勝手に誤訳した。


私も好き。


いや違う。違うけど違わない。恋は、都合のいい翻訳機だ。好きな人の発した「好き」を、どれだけ文脈が違っても自分宛ての手紙みたいに受け取ってしまう。


「じゃあ、そっちで」


ゆらは平静を装って歩き出した。足元の落ち葉が乾いた音を立てる。隣で律も同じ速度で歩く。その足音が重なるたびに、胸の奥で何かが小さく光った。


川沿いの道に入ると、空が少し広くなった。


校舎や商店の屋根に切り取られていた夕焼けが、水面の上に大きく広がっている。川はきれいとは言えない。ところどころ濁っていて、風が吹くと生ぬるい水の匂いがする。それでも、街灯の光が揺れると、そこだけ細長い星が流れているように見えた。


律がバッグから古いフィルムカメラを取り出した。


黒くて、少し角ばっていて、使い込まれた金属の縁が鈍く光っている。今どきスマホで何でも撮れるのに、律はよくそのカメラを持ち歩いていた。


「また撮るの?」


「うん。今日の空、残り方がいいから」


「空の残り方?」


「夕方がまだ帰りたくなさそうな感じ」


ゆらは思わず笑った。


「朝倉もけっこう詩人じゃん」


「星野の文芸部がうつったかも」


「責任重大だ」


律はカメラを構え、水面に残る光を撮った。シャッター音が、小さく乾いて鳴る。デジタルの電子音とは違う、少し昔の音。その音を聞くたびに、ゆらはなぜか胸が静かになる。


「なんでフィルムなの?」


ゆらが聞くと、律はカメラを下ろした。


「すぐ見えないから」


「不便じゃん」


「不便だよ」


律は笑った。


「でも、すぐ答えが出ないのがいい。撮れたかどうか、しばらくわからない。失敗してるかもしれないし、思ったよりきれいかもしれない。だから、撮るときにちょっと祈る感じになる」


「祈る?」


「うん。ちゃんと残ってますようにって」


その言葉が、ゆらの胸のどこかに沈んでくっついた。


ちゃんと残ってますように。


ゆらも同じことを願っていた。今日のこの時間が、ちゃんと残ってほしい。律の声も、足音も、横顔も、川の匂いも、肌寒い風も、全部どこかに焼きついてほしい。今すぐ見返せなくてもいい。失敗しているかもしれなくてもいい。ただ、消えないでほしい。


でも、そんなことを言えるわけがなかった。


「なんか、いいね」


やっと出たのは、それだけだった。


律は少し照れたようにカメラを見下ろした。


「まあ、現像したら真っ黒かもしれないけど」


「それはそれで、夜の写真ってことで」


「ポジティブ」


「文芸部だから。失敗にもタイトルをつける」


「じゃあ、真っ黒だったら?」


ゆらは少し考えてから言った。


『まだ見えない星』


律が、こちらを見た。


一瞬だけ、風の音が消えた気がした。


「それ、いいね」


たったそれだけの言葉なのに、ゆらの胸はまた勝手に明るくなる。褒められたのはタイトルだ。自分ではない。わかっている。でも、ゆらにとって言葉を褒められることは、自分のいちばん柔らかい場所に触れられるのと同じだった。


律は再びカメラを構えた。今度は空ではなく、川沿いの街灯を撮っている。光がレンズに入る角度を探して、少し首を傾ける。その横顔を、ゆらは見ていた。


律は、見逃される光を拾うのがうまい人だと思った。


夕暮れの電線。水面の揺れ。誰かが置き忘れたビニール傘。閉店前のパン屋の灯り。たぶん彼は、世界の端っこで小さく光っているものを、ちゃんと見つけられる人だ。


だから、ゆらは期待してしまう。


私のことも、見つけてくれているのかな。


言えない言葉を抱えて、隣で笑っている私のことも。


カメラのシャッター音がもう一度鳴った。


その音が、今日という日のどこかに印をつけたみたいだった。


ゆらは隣を歩く律の横顔を、目で撮った。記憶で撮った。心のいちばん奥の、誰にも見せないフォルダに保存した。


すぐに答えが出なくてもいい。


ちゃんと残ってますように。


夕焼けの最後の赤が、川の向こうに沈んでいく。


ふたりの影は、並んだまま少しずつ夜に溶けていった。

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