夜空に預けた好きは私の元へ帰ってきた
受付のガラスの向こうに、朝倉律が立っていた。
黒いコート。首から下げた古いフィルムカメラ。少し大人になった輪郭。高校生のころより背筋が伸びていて、髪も短くなっている。けれど、待っているときに視線を少し下へ落とす癖は変わっていなかった。
ゆらの手の中で、応募用紙が震えている。
《十年前、歩道橋で言えなかった。今なら言えます。星野ゆらさん、あの夜のハンカチを返してもらう口実で、もう一度だけ遠回りしませんか。朝倉律》
文字は、十年前の写真の裏にあったものと同じだった。少し右に傾いていて、丁寧で、どこか迷いを残している字。
ミチルが横から覗き込み、小さく言った。
「行かないんですか」
「行きます」
「顔がすごいですよ」
「どんな顔ですか」
「恋愛と爆発物処理班と確定申告が同時に来た顔です」
「最後いらないです」
「現実感を足しました」
ゆらは笑いそうになった。こんな瞬間にも、ちゃんとツッコミは出るらしい。人間の機能、意外としぶとい。
けれど足はすぐには動かなかった。
嬉しい。
会いたかった。
でも、腹が立つ。
遅すぎる。
どうして今なの。
どうして十年前じゃなかったの。
感情が胸の中で一斉に立ち上がり、満員電車のように押し合っていた。どれかひとつに名前をつけることができない。ただ、律がそこにいる。その事実だけが、冬の空気よりも鋭く、ゆらの胸に触れていた。
ミチルが背中を軽く押した。
「星野さん」
「はい」
「売ろうとしないで」
ゆらは振り返る。
ミチルは赤い眼鏡の奥で、少しだけ笑った。
「届けてください。自分に」
ゆらは頷いた。
そして、ロビーを抜け、ネオン星図館の外へ出た。
冬の空気が頬を刺した。イルミネーションの光が街路樹に絡まり、遠くで電車の音がした。駅前の人波は忙しそうに流れているのに、律の周りだけ時間が一拍遅れているように見えた。
律が顔を上げる。
目が合う。
十年が、たった一秒で縮まった。
「久しぶり、星野」
声。
生の声だった。
カセットのノイズ越しではない。記憶の中でもない。目の前の空気を震わせて届く、今の律の声。
ゆらは言った。
「何故? どうしてここにいるの?」
まだ、確信が持てなかった。まるで狐につままれたような、夢を見ているような気分だった。
「うん、僕もびっくりした。」
「このプラネタリウムは、結構、知る人ぞしる…というか、天文が好きな人以外でにも、言葉を置きに来る人が来るって聞いてさ」
「うん」
「いつか来てみたいと思ってた。そしたら、パンフレットにこんな文字があったからさ。」
律は、紙を差し出して見せた。
《言えなかった恋を、十年後の星空で読む夜。
あなたにも、踏み出せなかった一歩はありますか。》
ミチルの書いたコピーだ。
「なんか、気になって、そのまま入った……」
「そしたら、星野がいて原稿を読みだすんだもん。心臓が止まりそうになった。」
こんな、偶然があるのだろうか。恋のニートの神様が仕事した? しかも私の思いを星に届けようとしたその日に。
いや、律は、このプラネタリウムに興味があったようだし、今は、原稿の読み手はほとんど私だ。
いつか出会う運命だったのかもしれない。
ゆらは、反射的に口に出した。
「遅すぎ」
律は困ったように笑った。
「うん」
「十年は、遅刻って言葉じゃ足りない」
「うん」
「反省で済むと思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ何で最初の返事が全部『うん』なの」
「何を言っても、言い訳から始まりそうで」
その答えに、ゆらは少し黙った。
律は目を逸らさなかった。昔の彼なら、たぶんここで少し下を見る。けれど今の律は、ちゃんとゆらの目を見ていた。十年ぶん大人になったのかもしれない。あるいは、十年かかってようやく見る覚悟を持ったのかもしれない。
「会いたかった」
律が言った。
その一言は、十年前のゆらが喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。けれど今、目の前に置かれると、ただ甘いだけではなかった。嬉しいのに痛い。痛いのに嬉しい。まるで、ずっと抜けなかった棘が、ようやく抜けたあとに残る傷みたいだった。
「私も」と。
ゆらは言いかけて、止まった。
簡単に返してしまうのが、少し悔しかった。
「……会いたかった。けど、怒ってる」
「うん」
「また『うん』」
「怒ってていい」
「許可されると、余計腹立つんだけど」
「ごめん」
「それも腹立つ」
律は小さく笑った。ゆらも、少しだけ笑ってしまった。
笑った瞬間、張り詰めていたものがほんの少し緩む。
「歩く?」
律が聞いた。
「応募用紙に書いてたもんね。遠回り」
「うん。十年越しの遠回り」
「燃費悪すぎ」
「反省してる」
「それ、本日二回目」
ふたりは駅とは反対方向へ歩き出した。
ネオン星図館から少し離れると、川沿いの道に出る。星ノ瀬町の川ではない。けれど、水面に街灯の光が揺れているところは似ていた。夜風は冷たく、アスファルトからは冬の乾いた匂いがした。律のコートの袖が、歩くたびにかすかに擦れる。
しばらく、ふたりは黙って歩いた。
昔と同じような沈黙。
けれど、同じではない。
高校時代の沈黙は、透明な猫みたいに温かかった。今の沈黙は、長い時間を挟んだ扉みたいだった。開ければ何かが出てくる。けれど開けないままでは、ここから先へ行けない。
先に口を開いたのは律だった。
「カセット、聞いた?」
「聞いた」
「ごめん」
「何に対して?」
律は一度、息を吸った。
「全部に」
「便利な言葉だね、全部」
「そうだね」
ゆらは立ち止まった。
律も立ち止まる。
川沿いの街灯が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
「ちゃんと言って」
ゆらは言った。
「何に謝ってるのか、ちゃんと言って」
律は頷いた。
「急にいなくなったこと。転校のことを言わなかったこと。星野のメッセージに既読だけつけて、返事をしなかったこと。アカウントを消したこと。シルの写真を見たいって思ってたのに、見たいって言わなかったこと。好きだったのに、好きだって言わなかったこと」
ひとつずつ並べられるたびに、ゆらの胸の奥で、十年前の傷が順番に光った。
痛い。
でも、やっと名前を呼ばれた痛みだった。
「なんで返さなかったの」
ゆらは聞いた。
律は川を見た。
「返したら、戻りたくなると思った」
「戻りたくなればよかったじゃん」
「うん」
「戻れなくても、言えばよかったじゃん」
「うん」
「私だって、言えばよかった」
「うん」
ゆらは笑ってしまった。
「また、うん」
「それしか言えない」
「ずるい」
「ごめん」
「それもずるい」
律は少しだけ肩を落とした。
十年ぶん格好よくなっていても、十年ぶん不器用さが消えたわけではないらしい。そのことに、ゆらはなぜか救われた。完璧な大人になって現れた律だったら、きっと許せなかった。目の前にいるのは、間違えて、逃げて、後悔して、それでも今ここへ来た人だった。
「シル、元気?」
律が聞いた。
その質問で、ゆらの胸の奥にある硬いものが少し溶けた。
「元気。太った」
「太ったんだ」
「言い方を変えると、貫禄が出た」
「見たい」
「見る? 今」
ゆらはスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。シルの写真は山ほどある。寝ているシル。怒っているシル。ごはん皿の前で圧をかけるシル。原稿の上に乗るシル。ミチルに「この猫、構成を妨害しています」と言われた日のシル。
律は画面を見て、目を細めた。
「大きくなったね」
「あなたが名前だけつけ逃げした猫です」
「本当にごめん」
「でも、いい名前だよ」
律がこちらを見る。
ゆらは画面の中のシルを見ながら言った。
「シルがいたから、私は全部を過去にできなかった。毎日ごはん食べるし、鳴くし、毛だらけにするし、原稿踏むし。律のこと忘れたい日も、名前を呼ばなきゃいけなかった」
「つらかった?」
「つらかった。でも、助かった」
ゆらはスマホをしまった。
「シルは、痛みのしるしだったけど、生きてるしるしでもあった」
律は静かに頷いた。
ふたりはまた歩き出した。
少し先に、コンビニの明かりが見えた。白と緑の看板。自動ドア。ガラス越しの冷蔵ケース。
律が立ち止まる。
「寄る?」
ゆらは笑った。
「十年遅れのコンビニ?」
「うん」
「いいよ」
自動ドアが開く。
ピンポーン。
電子音が鳴った瞬間、ゆらの中で十年前の白い光がよみがえった。冷蔵ケースのモーター音。レモンティー。炭酸水。触れそうで触れなかった指。
店内の匂いは少し違った。揚げ物の油と、コーヒーマシンの苦みと、洗剤の匂い。時代は変わっている。レジもセルフレジになっている。高校生のころにはなかった派手なスイーツが並んでいる。
けれど冷蔵ケースの白い光だけは、ほとんど同じだった。
律が炭酸水を取る。
ゆらは少し迷って、レモンティーを取った。
「テスト前じゃないのに?」
律が言った。
ゆらは息を呑んで、それから笑った。
「人生のテスト前かもしれない」
「重いな、レモンティー」
「軽い顔して深いんだよ、あいつ」
十年前と同じ会話。
でも、今度は違った。
飲み物を取るとき、律の指がゆらの指に近づいた。
ゆらは引かなかった。
律も引かなかった。
指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、触れた。
冷蔵ケースの冷気より、律の指の温度のほうがずっとはっきりわかった。
律が小さく言った。
「今度は、引かなかった」
ゆらはレモンティーを握ったまま答えた。
「十年かかったけどね」
「遅すぎるね」
「うん」
ふたりは笑った。
レジで、律が支払おうとしたので、ゆらが先にスマホをかざした。
「今日は私が払う」
「いいの?」
「三ミリの恩、十年分の利子」
「利子、高そう」
「恋は複利だから」
「名言だ」
「ネオン星図館公認です」
コンビニを出ると、夜風が肌に冷たかった。
プシュッ、と律が炭酸水を開ける。
ゆらはレモンティーのキャップを回した。
「世界、リセットされた?」
ゆらが聞く。
律は少し考えた。
「全部じゃなくていい」
「うん」
「消したくないものもあるから」
ゆらは頷いた。
十年前は、消えなかったことが苦しかった。今は少し違う。消えなかったから、ここまで来た。レシートも、ハンカチも、シルも、未送信の言葉も。全部、消えなかったから、今夜の遠回りがある。
駅前の歩道橋に着いた。
鉄の階段を上る音が、かつん、かつんと響く。手すりはやっぱり冷たい。十年前と同じように、線路は夜の中へ伸びていた。
ゆらは、歩道橋の上で立ち止まった。
「律」
初めて、名前で呼んだ。
律が驚いたようにこちらを見る。
その顔を見て、ゆらは少し笑った。
「十年前に呼べばよかった」
「今、呼んでくれて嬉しい」
「私、今でも好きだと思う」
言えた。
あまりにも静かに、言えた。
胸の中で、十七歳の自分が息を止めるのがわかった。あの歩道橋で言えなかった言葉が、十年かけてようやく口から出た。
律は目を伏せなかった。
「俺も、好きです」
敬語になった。
ゆらは思わず笑った。
「なんで敬語?」
「大事なところでバグった」
「十年経っても?」
「十年経っても」
ふたりで笑った。
笑いが消えたあと、ゆらは続けた。
「でも、十年前の続きをそのまま始めるのは違うと思う」
律は静かに頷いた。
「うん」
「私は、あの夜の私を救いたかった。律の声を聞いて、救われた部分もある。でも、今の私まで十年前に戻る必要はない」
「うん」
「だから、ちゃんと今から始めたい。連絡先を交換して、返事をして、消えないで、今の律を知るところから」
律はスマホを取り出した。
「消えない」
「既読スルーも禁止」
「禁止で」
「努力じゃなくて?」
「禁止で」
ゆらは頷いた。
ふたりは連絡先を交換した。
画面に表示された「朝倉律」という名前を見た瞬間、ゆらの胸の奥で、長い間閉じていた窓が開くような感覚があった。
十年前、消えた名前。
今、戻ってきた名前。
けれど、戻ってきたのは過去ではない。今の律だ。今のゆらだ。
「ハンカチ」
ゆらはバッグから、星の刺繍のハンカチを取り出した。何度も洗って、少し柔らかくなっている。角の糸は少しほつれていた。
律はそれを見て、息を呑んだ。
「まだ持ってたんだ」
「捨てられなかった。負けた気がして」
「何に?」
「十七歳の私に」
律は手を伸ばしかけて、止めた。
「返してもらっていい?」
「うん」
ゆらはハンカチを渡した。
律の指が布を受け取る。そのとき、今度は自然に指が触れた。
律はハンカチを見つめたあと、言った。
「ありがとう。ずっと持っててくれて」
「返したら、何か終わる気がしてた」
「今は?」
ゆらは夜空を見上げた。
星は少なかった。
ビルと街灯に隠れて、数えるほどしか見えない。
「終わるっていうより、渡せたって感じ」
律は頷いた。
「そっか」
数か月後、ゆらと律は星ノ瀬町へ戻った。
カナに呼び出されたのだ。
母校の星ノ瀬高校では、カナが音楽教師として軽音部の新入生歓迎ライブを仕切っていた。体育館に入った瞬間、マイクを握ったカナが叫ぶ。
「おい、十年越し遠回りペア来たぞ! 拍手!」
「やめて!」
ゆらが叫んだが、遅かった。生徒たちは何もわからないまま拍手した。律は顔を赤くしていた。
「先生、説明雑すぎません?」
「人生はだいたい雑な説明で進むんだよ」
カナは笑った。
三人で昇降口へ行った。
夕方の光が、窓ガラスを飴色に染めていた。十年前と同じように、靴箱の前には放課後の匂いがある。土の匂い。制服の布の匂い。部活へ向かう声。
「ここで、ゆらが『帰る?』って言ったんだよね」
律が言った。
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ。今日一日の最大のイベントみたいな顔してた」
「そんな顔してた?」
カナが即答する。
「してた。顔面に恋がログインしてた」
「ログアウトできなかった」
「今もしてないみたいだけどね」
「こら、先生は、余計なこと言わない」
三人で笑った。
そのあと、あのコンビニへ寄った。店は少し改装されていたが、冷蔵ケースの白い光は昔のままだった。ゆらはミルクティーを取り、律は炭酸水を取り、カナはいちごミルクを取った。
「今日は私が払う」
カナが言った。
「なんで?」
「恋の神への仲介手数料」
「神、ニートじゃなかった?」
「たまに、起きてきて仕事する。」
「親友の恋の仲介手数料だから、私に払わせて。」
カナは、軽くウインクして堂々と三本分を支払った。
コンビニを出て、三人は歩道橋へ向かった。
夕暮れは夜に変わりかけていた。線路の向こうに、星がひとつだけ見える。都会の空は相変わらず星が少ない。でも、ゆらはもう、その少なさを嫌いではなかった。
見えない星があることを知っているから。
歩道橋の上で、ゆらは立ち止まった。
ここで言えなかった。
ここで、全部が変わったと思っていた。
けれど今は少し違う。
あの日、踏み出せなかった一歩は、失敗ではなかったのかもしれない。あのときのゆらは怖かった。傷つきたくなかった。壊したくなかった。大切すぎて、足が動かなかった。
それは弱さだった。
でも、雑な弱さではなかった。
真剣だったからこそ、怖かったのだ。
ゆらは律の手を握った。
十年前にはできなかったこと。
今は、できる。
カナが後ろで言った。
「おふたりさん、エモすぎて先生の引率業務に支障出るんですけど」
「ごめん」
「でも許す。教材になるので」
「何の?」
「タイムリープ恋愛学ってタイムリープしてないか。」
「そんな科目ない」
「作る」
律が笑った。
ゆらも笑った。
あまり感じたことのない穏やかな、甘く切ない匂いのする時間をかみしめていた。
その夜、家に帰ると、シルが玄関で待っていた。
「ただいま」
シルは「みゃ」と鳴き、ゆらの足に体をこすりつける。もう年齢的には立派な大人?おじいちゃん猫なのに、鳴き声は相変わらず少し子猫みたいだった。
ゆらはシルを抱き上げた。
「今日ね、君の名付け親に会ってきたよ」
シルは目を細める。
「今度、会わせるね」
机に向かい、ゆらは日記を開いた。
少し考えてから、こう書いた。
《あの一歩は、失敗ではなかった。あれは、未来の私に託された未完成の台詞だった。十年後、私はようやく続きを言えた。》
そして、最後にもう一行足した。
《夜空に預けた好きは、ちゃんと私の元に帰ってきた。》
窓の外に星は見えなかった。
でも、部屋の中にはシルがいて、スマホには律からのメッセージが届いていて、机の上には新しい台本の白紙があった。
ゆらは返信を開いた。
《今日はありがとう。今度、シルに会いに行ってもいい?》
ゆらは笑って、すぐに打った。
《もちろん。既読スルー禁止だからね》
送信。
今度は、ためらわなかった。
すぐに既読がついた。
そして、返事が来た。
《禁止、守ります》
ゆらはスマホを伏せ、シルの背中を撫でた。
時に放課後のチャイムは、世界の終わりみたいな顔をして鳴る。
けれど終わりの顔をした音が、始まりを連れてくることもある。
踏み出せなかった一歩は、暗闇でずっと靴紐を結んでいる時間だったのかもしれない。
未来のゆらが、もう一度歩き出すその日のために。




