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07 大明

 楽の夜から幾日もたたぬうちに、宮の空気はわずかに色を変えた。鼓と笙はなお廊を渡るが、高坐に坐する者の心は、もはやあの夜と同じではない。


 曹丕は、朝の務めを終え、几の前で筆を止めていた。視の裏には、帷の前に進み出た杜夔の姿と、その言が残っている。


 帝は、指名を誤っておられるものと存じます。


 柔らかな言の底に、退かぬ骨が通っていた。主の命より礼を先に立てる眼差しを思えば、胸に小さな石が載る。そこへ内侍が一人、慎んで進み出た。


 「陛下。柴玉の件にございます」


 曹丕が顔を上げる。かつて宮の鐘を鋳た柴玉は、その手の冴えと飾らぬ言葉ゆえに、この主の目に留まっていた。今は先帝・曹操の命により、馬の養育を司る舎にまわされている。


 「どうした」

 「夜ごと馬を見回り、よく養っておりまする。ただ、ときおり楽のことを申します。鐘の音はまだ耳に残っている、と」


 曹丕の胸に刺が走った。鐘の響きに厳しく異を唱え、礼にかなわぬと断じたのも杜夔であった。気に入っていた職人は馬の舎へ遠ざけられ、そのうえ先日は自らの命までも衡にかけられたのである。


 「礼楽を正す者とは、かくまで人の興を削るものか」


 唇の内でつぶやき、彼は太楽にかかわる札の束を見た。宗廟の祭、社稷の礼、いずれも杜夔の耳と手を経て整えられてきた。


 「公良がいなくとも、礼の式はすでに定まっておろう」


 ふと漏らした言葉に、自らうなずく。鐘と磬の列は整えられ、楽章も記されている。あとは律の通りに打ち、弾き、歌わせればよいではないか。杜夔ほど頑なでなくとも、務めは果たせるはずだ。


 だが、ただ追い払えばよいとも思えぬ。父の代から名を知られた楽人を感情のままに罷免したとあれば、礼楽を軽んずるとの評が立つ。


 曹丕は、ゆっくりと筆を取った。


 「別の務めを設けよ」


 傍らの侍が身を正す。


 「太楽令・杜夔を、内廷の文と楽のことを議する舎に召し、しばらく太楽の舎を離れざらしめよ。礼の式は、左夔らに預けるがよい」


 侍は拱手し、その言を札に移した。文はやがて詔の形をとり、印を待つ。硯の水面に映る己の顔を見つめながら、曹丕は胸の内で言い聞かせた。


 「礼楽の舵も、いずれはわが好むところへ向けねばならぬ」


 朱が紙に落ちる音は小さい。その詔が一人の楽人の道を変えることを、彼は十分に知っている。


 数刻ののち、杜夔は新たにあてがわれた舎の几に向かっていた。格子の窓は狭く、陽は淡く差し込む。几の上には楽章と律令の書が積まれ、朱と墨が並ぶ。


 「ここに記された曲と律を改め、今の世に合うところを記してほしい」


 詔を伝えた官はそう言い残し去った。内廷の文と楽を議するという名目であったが、実のところ太楽の舎から杜夔を遠ざける策であると、本人にも察しがついている。


 杜夔は筆を執り、巻をひらいた。金石の名、糸竹の調べ、どの曲をどの礼に用いるかが細かく記されている。これらはすでに己の耳をもって改めたものであり、今さら直すべきところは少ない。


 「礼の式は、定まるところまで定まった」


 太楽の庭で鐘を吊り、弟子たちと拍を合わせていた日々が、遠いものに思えた。


 そのころ、太楽の堂で鐘の列の前に立っていたのは張泰である。鼓に慣れた腕で合図の拍を立ててきたが、この日は鐘の打ち手に呼ばれていた。傍らには桑馥が琴を抱え、邵登は札を手に式次第を追う。


 「次は商か、角か」


 張泰がつぶやく。祭の文と楽章の記しが食い違い、三人の迷いを生んでいた。師がいれば、どこに重さを置くべきか、鐘と磬を鳴らして示したであろう。


 この日はそれがない。廊の向こうから時を告げる声が急かし、社稷の礼を誤るまいとする心と迷いが揺れた。


 「文の通りに角を重んずるほかあるまい」


 邵登が言い、張泰は槌を構えた。だが、打ち始めてみれば列の中でどこか音が浮く。鼓の拍も琴の声も、その浮きをかばおうとするように揺れた。


 礼はどうにか終わった。だが列の端にいた老楽官は、眉をひそめたまま舎に戻り、太常の属する官に訴えた。


 「社稷の楽が律に背きがちでございます。太楽令・杜夔殿が舎を離れてから、乱れがしばしば見られます」


 やがてその報は札を経て、曹丕の几の上にも積もり始める。


 「太楽の舎より、祭祀の乱れありと申すか」


 札に目を走らせながら、曹丕は眉を寄せた。穏やかな文の底には、杜夔なきことを憂える気配が滲む。


 「左夔らに任せれば足りるはずだが」


 そう言いながらも、彼は認めざるをえなかった。燕楽を巧みに奏する左夔といえども、礼のための音の秩を一朝一夕で身につけることは難しい。


 几の端には、柴玉の件を記した札も残っている。鐘の音を惜しむ職人の言と、礼を守るがゆえに主の命に背いた楽人の姿とが重なった。


 「公良をただ遠ざけておくだけでは、かえって礼が乱れるか」


 曹丕は息を吐き、宮城のどこかで響く鐘と鼓の音を思い描く。わずかな歪みが、やがて誰の耳にも届く日が来るかもしれぬと感じていた。


 そののち幾日もたたぬうちに、曹丕は左夔を召した。笙をよくするこの楽人が、几の前に進み出る。


 「太楽の舎の務めは、いまだ安まらぬと聞く」


 曹丕は札を示し、言った。


 「公良は礼楽のことを一人で抱え過ぎておる。頑なにしてわが命を違えるほどであれば、務めを分かち持たせるがよい。そなたと、ほか二三名の楽官を遣わすゆえ、雅楽の次第を学び取り、祭祀の務めを支えよ」


 左夔は拱手した。


 「かしこまりました。公良殿のご教えを受けられれば、太楽の務めも改まりましょう」


 言葉は素直であったが、その底には複雑な思いがある。


左夔は、命じられた楽官たちを伴って杜夔の舎へ向かった。内廷の一隅にあるその部屋は狭く簡素である。戸を叩くと、中から入れと声がした。


 杜夔は几の前に坐し、書を繰っていた。並んだ顔を認めると、軽く頭を下げた。


 「これは左殿。何の用かな」


 左夔は進み出て、辞を低くする。


 「陛下の仰せでございます。太楽の舎の務め、いまだ乱れがちな由。雅楽の次第をあらためて正さんがため、われらに御教えを賜りたく、参上いたしました」


 杜夔はしばし黙し、書の字を見つめた。


 「習うのは雅楽ということだな」


 おごそかな声が室に落ちる。


 「左殿らは、いずれも楽官として仕官しておられる。基礎はすでに備えておろう。律と拍の取り方も、曲の名も、みな知っているはずだ」


 左夔は答えかねて、ただ拱手した。


 「もし基礎なき者を雅楽の坐に就けたのであれば、そもそも礼を誤ったのだ。太楽の席に坐る者は、各々が自らの器を備えていなければならぬ。わしがここで一から教えるべき筋ではない」


 左夔の背に、冷たいものが走る。


 「それでは、公良殿はご教授くださらぬと」


 ようやく問うと、杜夔は首を横に振った。


 「礼の道は書に残した。曲も律も、札を繰ればわかる。そなたらが楽官である以上、そこから先は各々の務めだ。太楽令が職を譲るために、今の身で改めて弟子を取るわけにはいかぬ」


 言い終えると、彼は書に視線を戻した。その顔には怒りも悔いもなく、自らの守るべき線を動かすまいとする固さがある。


 左夔はこれ以上言葉を継げなかった。ともに来た楽官たちも、互いに顔を見合わせるばかりである。やがて一同は礼をつくし、舎を辞した。


 報を聞いた曹丕は、しばらく黙って札を見つめていた。


 「左夔らに対し、基礎はあるゆえ教える必要はない、と申したか」


 問い返し、札を几に置く。


 「礼の名の下に、わが選びをも否とするか。公良の律は、ついに人の情を量ることを知らぬ」


 胸の奥に沈んでいた石が重くなるのを感じながら、彼はそっと目を閉じた。


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