06 文王
楽の音は、いつの間にか変わり始めていた。かつて礼を量る秤であった響きは、今では坐の興を添える飾りと見なされることが多い。楽を司る舎の内でも外でも、世の気は移ろっていく。
かの曹操が世を去ってから幾年かが過ぎ、今は帝となった曹丕が天下の務めを執っていた。詔は相次ぎ、軍と租税と宮中のことが改められていく。その一つとして、太楽の務めもまた整えられねばならぬとされた。
ある日、杜夔のもとに詔が下った。宮城に召し出されると、几の上には新たな札が置かれている。
『太楽令をもって礼楽を掌らしめ、あわせて協律都尉とし、金石の律を正さしむべし。』
文は簡であった。
杜夔は深く拱手し、その文を受けた。これまで太楽の務めにはあたってきたが、名と職があらためて与えられたのである。礼の場に響く一音一拍が、己ひとりの耳と筆を通して定められる重さを思えば、背のうちに冷たいものが走った。
同じ頃、宮城の別の舎では別の音が勢いを増していた。胡の地より伝わった調べと、里の歌を合わせた燕楽が、賓客の席や遊宴の場でしきりに求められていたのである。笙と箜篌、琵琶に鼓が加わり、歌い手の声が酒とともに夜を賑わせる。
世の人々は、今や宮商角よりも、耳に甘い鄭声を求める。
杜夔は、太楽の庭を横ぎるたび、胸の底でそうつぶやいた。天子の礼を支えるために磨かれてきた雅の音は、まだ鐘と磬の列に息づいている。だが、廊の向こうからかすかに漏れてくる調べには、別種の甘さと速さが混じり始めていた。
太楽の舎には、弟子たちが日ごとに出入りしていた。邵登は札と筆を抱え、古い制度と新たな詔を照らし合わせる。張泰は鼓の革を張り直し、拍を立てる練習を怠らぬ。桑馥は琴と瑟の弦をあやつりつつ、ときおり耳を澄まして遠くの曲を聞いては、表情を曇らせたり、かすかな笑みを浮かべたりした。
世の音がどちらへ傾こうとも、礼の場に立つ太楽の務めは変わらぬはずである。だが、その境は、以前よりも細く頼りないものになりつつあった。杜夔は弟子たちの背を見送りながら、鎖に吊られた鐘の列を仰ぐ。
澄むべき音と、甘く流れようとする音。そのあわいに立っているのが、今の自分であると知りつつも、彼はただ耳を澄ませた。いつかこの耳に、礼とは異なる調べが向けられる日が来るかもしれぬ予感が、かすかな風のように胸をかすめていく。
その日の暮れ、宮城の堂には、灯の明かりが幾筋も揺れていた。几の前には酒と肴が並び、坐の左右には、諸侯の使いや文武の臣が列をなしている。鼓の音が一度鳴り、楽人たちは帷の陰に控えた。
曹丕は、高坐にゆるやかに身を預けていた。その側には左夔が侍し、笙を膝に横たえている。かねてより燕楽に巧みな者として、この主の気に入られている楽人であった。
「今宵は賓客も多い。音をもって坐を和ませたい」
曹丕は杯を置き、視線を帷の方へ送った。
「公良。そなたも出よ。左夔とともに笙を吹き、琴を合わせよ。弟子たちにも拍を支えさせ、燕楽の調べを聞かせるがよい」
呼ばれて、杜夔は進み出た。裾をととのえ、拱手して頭を垂れる。その顔は沈着であったが、目の底には、ひと筋のかすかな影が差していた。
「お言葉、たしかに承りました」
そこで言葉を切り、杜夔はゆっくりと頭を上げた。
「しかしながら、私は礼楽を司る者にて、燕楽の専門ではございません。宮の秩を量る音と、遊宴の調べとは、おのずから道が異なります。今宵の御前で燕楽を奏すべき者は、他にふさわしい者がありましょう。帝は、指名を誤っておられるものと存じます」
堂の空気が、たちまち凍りついた。杯を傾けかけていた者も手を止め、視線が一斉に高坐と杜夔のあいだを往き来する。
曹丕の眉がわずかに動いた。唇の端から笑みが消え、その眼差しには冷たい色が差した。
「公良。そなたは、わが命に従えぬと言うか」
その声は、坐の者には鼓よりも強く響く。だが、杜夔は一歩も引かなかった。
「礼の音を乱さぬ限りにおいて、命には従います。されど、礼と遊楽とを混ぜては、社稷と宗廟への筋目が曖昧になります。太楽令として、その限りは違えることができませぬ」
帷の陰で、弟子たちが息を呑んだ。邵登は思わず札を握りしめ、張泰は拳を固くして足もとを見つめる。桑馥は笙の管に触れた手を止め、師の背から目を離せなかった。
沈黙を裂いたのは、左夔の声である。
「主上。公良殿のお言葉は、礼を重んずるあまりのことでございましょう。燕楽の務め、まずは臣と公良殿の弟子らにお任せ下され」
左夔はあくまで曹丕の方を向いたまま、わずかに身をかがめた。その横顔には、杜夔の方を見やることをこらえた気配がある。
曹丕はしばし二人を見比べていたが、やがて杯を取り上げた。
「よし。今宵は左夔に任せよう」
声は短く、冷たかった。
楽人たちは拱手して命を承り、帷の陰へと退く。笙と琴を携え、張泰は鼓の前に立った。やがて合図の鼓が鳴り、堂はまだ始まらぬ調べを待つ。
鼓の皮に置かれた指が宙を切った。張泰がひと打ちすると、堂の空気がわずかに震える。その拍を合図として、左夔の笙が息を含み、桑馥の指が琴の弦に触れた。
胡の地の調べを帯びた旋律が、灯の明かりの下を流れていく。雅の曲よりいくぶん早く、音の高低は華やかに揺れた。賓客の何人かは目を細め、杯を持つ手をゆるめる。鼓の拍に合わせて肩を揺らす者もあり、笑い声が小さく洩れた。
左夔は、曹丕の顔の色を見ていた。先ほどの硬さはまだ消えぬが、燕楽の響きに合わせて指先が几を軽く打つのを認めると、胸の内で息をつく。
張泰は、鼓を打ちながら坐の呼吸を測っていた。遅れれば列が崩れ、早めれば歌の言が流れる。礼の舞とは違い、ここでは賓客の息遣いが拍の重さを変える。それでも声は上げず、腕だけで拍を支えた。
桑馥の耳には、笙と琴のあいだを渡る細い糸のようなものが聞こえていた。師の教える雅の音とは違うが、人の心をほぐす力は、たしかにここにも宿っていると感じる。だがその思いを表には出さず、ただ指先を弦の上にとどめた。
帷の陰には、なお杜夔が控えていた。灯の明かりは届きにくく、その顔は半ば影に沈んでいる。
曲が終わると、賓客の中からどっと拍手が起こった。曹丕は杯を持ち上げ、短くうなずく。
「左夔、よく奏した」
左夔は拱手して礼をとり、杜夔の弟子たちとともに退く。曹丕の目は、帷の陰には向かない。
宴がくだけ、賓客が席を移し始めるころ、太楽の舎へ戻る道に、四つの影が並んでいた。張泰が鼓を肩に負い、桑馥が琴を抱え、その後ろを邵登が歩く。杜夔は少し離れて、その背を追っていた。
舎に戻ると、弟子たちはそれぞれの器を所定の場所に置く。しばし沈黙が続いたのち、張泰が堪えかねたように口を開いた。
「先生。今夜のこと、主上はどうお受け止めになりましょうか」
声には、不安が滲んでいた。太楽の務めを守ろうとする師の言と、主の機嫌とが、両の皿の上で揺れているのを感じていたのである。
邵登は巻を抱えたまま言った。
「先生の仰せは、礼の道にかなっております。太楽令が礼と遊楽の境を曖昧にしたとあれば、その方こそ筋違いにございましょう」
その言葉には、自らを支えようとする色も混じっている。律と制度を支える者として、師の判断が正しいと信じることが、自らの立つ場所を守る道であった。
桑馥はしばらく黙っていたが、やがて笙の管に指を添えたまま言葉を洩らす。
「先生の教えに背くつもりはございません。ただ、今夜の調べにも、疲れた人の心をほぐす力があったように思えます。どちらをも生かす道は、ないものでしょうか」
その問いは杜夔に向けられていながら、半ばは時代そのものに投げられたものでもあった。
杜夔は、弟子たちの顔を順に見た。張泰のまっすぐな不安、邵登の固い信念、桑馥の揺れる感受。どれも太楽の務めを思う心から出たものである。
「礼は、まず社稷と宗廟に向けられるものだ。そこを曖昧にしたとき、楽はたちまち人の欲を飾る器となる。今日、わしが違えられなかったのは、その一点に過ぎぬ」
声は怒りも嘆きも帯びてはいなかった。
「だが、人の心を慰める音が不要だと言った覚えはない。どの音をどこに置くか、その秩を立てるのが太楽の務めだ。そなたらはいずれ、その務めをそれぞれの場で果たすことになろう」
三人は師の言葉に深く頭を垂れる。
外では、夜の風が屋根を撫でていた。宮城のどこかでは、なお賓客の笑いと燕楽の余韻が続いているかもしれぬ。太楽の舎には、鎖に吊られた鐘と磬が並び、その下に師と弟子たちの影が沈んでいた。




