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05 巧言

 火の音が低く鳴り、炉口の赤は細くなっていた。裏の庭に積まれた鐘の破片は日ごとに山を増し、その数が溜息を物語っている。


 柴玉は炉の前に立ち、砕けた鐘の山を冷たい目で見ていた。額の汗は拭かれず、握る火箸だけがゆっくりと動いている。


 「またお退けになったか」


 背後で声がした。工人のひとりが炉の音に紛らせて囁く。


 「公良殿のお耳は、あまりに厳しゅうございますな」

 「清と濁の境とやらも、結局はあの御方の言い分ひとつよ」


 柴玉は振り向かず、火箸で炉縁を軽く打った。細かな火の粉が散り、工人たちは顔を見合わせる。


 「律は天の定め。人の耳ごときが、それを勝手に引き回せるものではあるまい」


 低く洩れた言葉に、周囲の者はうなずいた。やがて、杜夔は己が耳を律としているとのささやきが、太楽の舎の内外に漂い始める。


 出入りの吏の口からも、似たような言が漏れるようになった。曹丕の覚えある工人をも容れぬと聞けば、杜夔への不満は濃くなり、許の町でも柴玉の名を惜しむ声が上がる。


 さまざまな不満の矛先は、次第に杜夔ひとりへと集まっていく。柴玉は、その声を耳にするたび、胸の内でうなずいた。誇りとともに、燻る怒りが積もる。


 「このままでは務めになりませぬ」


 ある日、柴玉はついに宮城の門をくぐった。太楽ではなく、直接の訴えを求めるためである。門前で名を告げると、曹丕に近い吏が姿を見せた。


 「太楽の鐘の事か」

 「はい。子桓様のお言葉を受けて務めておりますが、公良殿の独断により、仕事が進みませぬ。律を盾に工を退けられては、礼そのものが形を失いましょう」


 口調は恭しいが、その底には反発が潜んでいた。吏は眉をひそめ、訴えの文を受け取る。


 一方、太楽の舎では、杜夔が几の前に坐していた。鐘の寸や厚みを記した札が並び、その脇には、鋳造の様子が簡潔に記されている。


 「これでは、社稷と宗廟に供すべき器が整わぬ」


 杜夔は筆を置き、砕かれた鐘の響きを耳の底にたぐり寄せた。音の乱れだけでなく、工人たちの心が音から離れつつあることを感じている。


 「礼にかなわぬ器を前にして、太楽の務めを果たしたとは申せぬ」


 彼は筆をとり、事の次第を書き連ねた。律にそぐわぬ点と、鋳直しを重ねても改まらぬこと、工人の心が乱れ始めていることを簡に記す。書き終えると、杜夔は札を整え、印を衣の内に収めた。


 この日、宮城には、同じ鐘のことで二つの訴えが運び込まれた。ひとつは、杜夔の耳に振り回されると訴える柴玉の文。ひとつは、礼にかなわぬ器を前に務めが果たせぬと述べる杜夔の文である。


 宮城の一室には、大きさも厚みもわずかに違う鐘がいくつも並べられていた。曹操の前には、訴えの文が重ねて置かれている。その傍らには曹丕も侍していた。


 「同じ鐘をめぐって、二人ともゆずらぬか」


 口の端にかすかな笑みが浮かんだが、目の色は冷ややかである。やや離れて杜夔と柴玉が控えていた。

 曹操は筆をとらず、吏に命じる。


 「太楽より鐘を取り出し、混ぜてここへ並べよ。印も札も外せ」


 やがて鐘が運び込まれた。杜夔の許したものと、退けられ砕かれるはずであったものとが、区別なく列をなして床に立つ。


 「公良、柴玉。前へ」


 二人が進み出ると、曹操は言葉を継いだ。


 「そなたらの争うところは清濁の境と聞く。ならば耳で決めればよい。どの鐘が律にかなうか、どの鐘が礼を乱すか、ここで聞かせよ」


 杜夔は頭を垂れ、目だけを鐘の列に向けた。柴玉は唇をかすかに結び直した。

 曹操は二人に槌を取らせる。


 「まず公良からにしよう。どれからでもよい」


 杜夔は一歩進み、端の鐘の前に立った。指で縁を撫で、身を引いて槌を振る。低く澄んだ音が室に満ち、その尾が静かに消えた。


 「角。律にかなう」


 次の鐘を打つ。響きは高く、終わり際にかすかな曇りが混じる。


 「徴。終わりに濁りがある。太楽の列には置けぬ」


 三つ目、四つ目と打つごとに、杜夔は音の高さと調べを簡に告げた。曹丕は黙ってそのさまを見ていた。

 やがて全ての鐘を打ち終えると、杜夔は槌を返して退く。


 「よし。次は柴玉」


 柴玉は拱手して進み出、槌を受け取った。ひとつ目の鐘を打つ。音は先ほどと変わらぬはずであったが、胸の内には杜夔の言葉が残っている。


 「澄んでおります。礼にかなうと存じます」


 次も、その次も、柴玉は「濁りなし」「いずれも用うべし」と答えた。迷いを押し隠すように声を強めたが、その言いようは次第に同じ調子を繰り返すばかりとなる。


 曹操は目を閉じてその声に耳を傾けていたが、やがて口をひらいた。


 「吏ども。先に太楽より上がっていた記を照らせ。どの鐘が退けられ、どの鐘が許されていたか、ここで確かめよ」


 吏たちは札を繰り、鐘の位置と照らし合わせる。やがてひとりが拱して進み出た。


 「奏します。公良殿の申されたところは、以前の記とほぼ違いなく、柴玉の申したところとは大いに食い違っております」


 曹操はうなずき、視線を二人に移す。それからしばし二人を見比べていたが、やがて口をひらいた。


 「公良の耳は律にかなう。これまで太楽の務めを乱したことはない。柴玉の申すところは、ただ己が工を飾らんがための言に過ぎぬ」


 低い声が室の隅々まで届く。


 「礼を守る者をそしり、律を乱そうとした罪は軽くない。柴玉、その子孫ともども工戸の籍を除き、馬の養いを見る役に付けよ」


 命は簡に告げられたが、その重さは鐘の音にも劣らなかった。吏が命を承り、筆に記をとる間に、柴玉はその場に膝をつく。言を発しようとしたが、唇は乾き、声にはならなかった。火と銅を相手にしてきた掌が、いまは空しく衣の裾を握っている。


 杜夔は目を伏せたまま、一言も発さなかった。勝ち負けの念よりも、礼の器をめぐって争いが起こったことの重さだけが胸に残っている。自らの耳が是とされたことも、柴玉の行く末も、音の尾が遠く消えるのを見送るように、ただ静かに受け止めるほかはなかった。


 数日ののち、宮城の片隅にある廐舎には、新たな人影が立っていた。柴玉である。かつて炉の火に映えていた顔はやつれ、手には火箸ではなく鞭が握られている。


 馬の嘶きと藁の匂いが満ちる中で、彼は粗い柵に寄りかかり、遠く太楽の方角へと目をやった。冬に向かう風が吹き抜け、衣の裾を揺らす。


 「銅の音も、もう聞くまい」


 誰にともなく洩らした声は、廐舎の闇に吸われた。馬が鼻を鳴らしたが、答える者はいない。かつて名を問われた工人の誇りは、今は藁の上で足音に踏み消されている。


 そのころ、太楽の舎には新たに鋳直された鐘が吊られていた。梁から下がる鎖は長さを改められ、鐘の縁には礼にかなうささやかな文が刻まれている。杜夔は弟子たちとともにその前に立ち、静かに槌を執った。


 ひと打ちの音は澄み、高く昇ってゆき、やがて都の屋根の上を渡って消えた。弟子のひとりが思わず顔を上げたが、杜夔はただ耳を澄ませていた。乱れなく続く調べの中に、砕かれていった鐘の破片と人の争いの余韻を聞いている。


 宮城の楼の一隅で、その音に耳を澄ませている者がいた。曹丕である。窓外から届く鐘の響きを聞きながらも、その顔には笑みがなかった。


 「これが、公良の選んだ音か」


 低くつぶやき、しばし沈黙したのち、曹丕は視線をそらした。側に控える近侍が「いかがなさいました」と問うたが、曹丕は答えず、札を几に置いて立ち上がると、ただ袖を払って楼の奥へと歩を進めた。


 都の空には、なお澄んだ鐘の音が細く残っていた。



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