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04 閟宮

 膳の香はまだ温かく、几の上には肉と菜が静かに並んでいた。坐に向かい合っているのは、冠を脱いで帯をゆるめた曹操と、その側に侍する嫡子・曹丕そうひである。


 朝の務めを終えたのちの席とあって、殿の空気はいくらか和らいでいた。曹操は箸を置き、酒をひと口含むと、ふと思い出したように笑みを浮かべる。


 「子桓、杜公良のことを知っておるか」


 曹丕は父の顔を仰いだ。


 「太楽の杜殿のことでしょうか」

 「褒美を取らせようとしたのに、金帛も官位もいらぬと言ってな。代わりに、宮城の鐘を鋳直させてくれと願いおった」


 曹操はおかしそうに肩を揺らす。


 「人の欲もさまざまだ。だが、社稷の祭祀や朝の楽があやつの手で整いゆくのを見ると、あれもあれで褒美の取り方というものかもしれぬ」


 曹丕は静かにうなずいた。幼いころより楽の音を聞いてきたが、近ごろは鐘と磬の澄み方が違うと感じていた。


 「杜殿は、器の数よりも音の筋を重んじておられるようです」

 「うむ。ああいう者には、良い器を持たせねばならぬ」


 曹操は杯を卓に戻し、言葉を継ぐ。


 「鐘を鋳直すと言っても、古きものをたやすく壊すわけにはゆかぬ。形も音も、礼の定めにかなったものを新たに備えねばならぬからな」


 曹丕は父の言を聞きながら、胸の内でひとりの名を思い浮かべた。


 「鐘をお求めでしたら、腕の立つ工人がございます」


 曹操の目が、それは誰かと問う。


 「柴玉さいぎょくという者にございます。意匠に巧みで、今も貴人の間で名の挙がる職人です。私も屋内の器を作らせておりますが、その手並みはたしかなものと見ております」

 「子桓の目にかなった者ならば、一度使ってみるもよかろう」

 「太楽の鐘を鋳る役目を仰せつかるならば、喜んでお受けするはずです」

 「よし。その柴玉とやらに言って聞かせよ。公良が求める鐘を鋳させてみたいとな」


 曹操はそう言って杯をとり、酒をあおった。膳の湯気は静かにたなびき、席の空気はふたたび和らいだが、曹丕の胸の内には、太楽の鐘とひとりの工人の姿が形を取り始めている。


 太楽の舎には、朝の光が斜めに差し込んでいた。鐘や磬の列は布で覆われ、床にはまだ新しい灰の跡が残る。鋳直しの準備が静かに進められていた。


 その入り口に、がっしりとした肩の男が姿をあらわした。衣は職人にふさわしく簡素であったが、袖口や帯のあたりには、細かな文様がさりげなく縫い込まれている。


 男は一歩、二歩と進み出て、堂の内を見回した。


 「これが、太楽の舎でございますか」


 耳に届く声には、自らの腕への確信が滲んでいる。杜夔は几の前に坐していたが、足音に気づくと、ゆるやかに顔を上げた。


 「そなたが柴殿であるか」


 男は拱しながら、笑みを見せた。


 「はい。柴玉にございます。先日は子桓様よりお言葉を賜り、何度も御門を仰ぎ見ておりました。ようやく、太楽のお務めにお役立てる折が参りました」


 曹丕の名を口にする言い回しには、さりげない自負が混じっている。若き日より貴人の器を鋳て、その目に留まり続けてきたことを、あえて多くは語らずとも示していた。


 「漢の御代より鐘をてきた家に生まれ、今日まで銅と火を相手にして参りました。形と文様には、いささか工夫の積もったものをお目にかけられるかと存じます」


 杜夔は、その言葉を遮ることなく聞く。だが目の光は、男の誇りよりも、その手が触れてきた器の重さを量るようであった。


 「腕前のほどは、いずれ音が物語ろう」


 そう言うと、杜夔は几の脇に置かれた巻を開く。


 「太楽の鐘に求めるものは、まず礼にかなうこと。大きさ、厚み、吊るす鎖の長さ、すべては律に従う。意匠もまた、節度を越えてはならぬ」


 柴玉はうなずきながら、しかし笑みを崩さなかった。


 「もちろんにございます。ただ、人の目を喜ばせる文様もまた、礼を損なわぬかぎりは、器の誉れかと存じます。子桓様の邸に納めた鐘も、諸客の評判をいただいております」


 杜夔はわずかに視線を上げ、梁に吊られた古い鐘の列を見る。


 「ここで鳴る音は、主として社稷と宗廟の前に捧げるもの。人の目を喜ばせるよりも、まず天地と祖宗に恥じぬことが肝要だ」


 声は静かであったが、その底には揺らがぬものがあった。


 「宮・商・角・徴・羽、ひとつの差も乱れてはならぬ。そなたには、そのための器を鋳てほしい」


 柴玉は一瞬だけ言葉を飲み込み、それから力強くうなずく。


 「承りました。太楽の鐘にふさわしい器を、必ずやこの手で鋳上げてご覧に入れましょう」


 その日より、太楽の裏手には炉が築かれ、銅を溶かす火が上がった。工人たちが土型を運び、柴玉は自ら炉口に立って金属の流れを見つめる。火花が散り、溶けた銅が型の中へと注ぎ込まれていく。


 杜夔は少し離れたところから、その様子を黙って見守っていた。形よりも、火の勢いと、冷めゆく音を聞こうとしている。


 幾日かののち、最初の鐘が土型からあらわれた。水にくぐらせ、土を払い、午前の光の下に立てると、銅の肌は若い木の葉のように冴えていた。


 柴玉は満足げにその側を撫でる。


 「いかがでございましょう。厚みも寸も、申し付けどおりに仕立ててございます。文様もまた、礼を損なわぬよう抑えてみました」


 杜夔は答えず、鐘を吊るすよう命じた。太楽の梁から新しい鎖が下ろされ、鐘が静かに持ち上げられる。揺れが止まるのを待ち、杜夔は槌を取った。


 ひと打ち。


 澄んだ音が舎に満ちた。だが杜夔の耳は、その底にまじるわずかな濁りを捉えていた。宮と商との境が、どこか曖昧にほどけている。


 彼は目を細め、もう一度、別の位置を打った。響きは長く尾を引いたが、その尾が、律から半歩外れていた。


 「この鐘は、まだ礼の場に立てぬ」


 そう告げた杜夔の声は、静かであったが、退くことを知らない。


 鐘を打つ音は、その日を境に幾度も太楽の舎に響いた。最初の鐘が退けられたのちも、柴玉は炉の火を絶やさず、銅を溶かし、土型を作り直す。工人たちは汗を拭う暇もなく立ち働き、裏庭には砕かれた鐘の破片が山となっていった。


 二つ目の鐘が梁に吊られた折、柴玉は胸を張った。寸も厚みも前とはわずかに変え、文様もさらに控えめにしてある。子桓の邸に納めた器と比べても、出来は劣らぬと自ら信じていた。


 杜夔は、前と同じように槌を取って打った。音は高く澄み、舎の隅々にまで届いたが、その終わり際に、やはり微かな揺らぎがあった。宮と商の境が、律の線から外へと滑りかける。


 「やはり、礼の場に立てる音ではない」


 その一語が、柴玉の心に重く落ちた。工人たちが目を見合わせる中で、二つ目の鐘もまた砕かれ、裏庭の山に加えられる。


 三つ目の鐘が鋳上がるころには、柴玉の顔から笑みが薄れていた。炉の前に立つ姿勢は変わらぬものの、その目には焦りの色が宿っている。銅の配合を替え、型の厚みをさらに調え、鎖の長さにも気を配った。


 この日もまた、鐘は太楽の梁に吊られた。杜夔は静かに近づき、指で縁をなでてから槌を構えた。音はたしかに整い、先の二つよりも乱れが少ない。それでも、杜夔の耳は、角と徴のあいだに生じるわずかなずれを聞き取っていた。


 「惜しいが、まだ足りぬ」


 その言に、柴玉はついに顔を上げる。


 「太楽の鐘とは、そこまで細かく選り分けねばならぬものでございましょうか。礼といえども、人の耳に聞こえる音にて足りるかと存じますが」


 杜夔は、工人たちの視線がこちらに集まるのを感じた。それでも声の調子を変えずに答える。


 「人の耳に聞こえる音が、みな礼にかなうわけではない。社稷と宗廟の前に立つとき、ひとつの音の曇りが、やがて多くの心を曇らせる。私は、その曇りの芽を摘みたいだけだ」


 柴玉は唇を固く結んだ。自らの鋳た鐘が貴人の間で誉れを得てきたことは、確かな誇りである。


 「公良殿のお耳にかなう音とあらば、世のどの器も及ばぬことでございましょうな」


 言葉は丁重であったが、その底には冷たいものが忍んでいた。太楽の裏庭に積まれた破片を見やりながら、柴玉の胸には、別の思いが静かに形を取り始めている。


 「清と濁の境とうそぶきながら、己の耳を律としておるのではないか」


 そうしたささやきが、いつしか炉の周りに漂うようになった。柴玉は否とも是とも言わず、ただ火を見つめる。その沈黙が、やがて言葉以上の色を帯びていった。


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