03 緜緜
太楽の舎には、日ごとに人と器が満ちていった。鐘と磬に通じる者、糸と竹を得意とする者、鼓と舞の拍に巧みな者。散郎の中には、それぞれ一芸に秀でた楽人が少なくない。
その中央に、杜夔が静かに坐していた。金石の列をひとわたり眺め、次に糸と竹、匏と土、革と木の器へと目を移す。
「今日は詩を本とする」
杜夔は几の前に巻をひらき、若い楽人たちを見渡した。
「詩はもとより口ずさむために作られた。詩経の篇も、漢の楽府も、みな歌の節を伴っていた。言と声とが離れたとき、礼の形もまた崩れ始める」
邵登は筆を執り、その言を記す。張泰は鼓の傍で膝を折り、拍の刻みを指で追った。桑馥は琴の弦に手を置き、鳴らさぬ音の綾を耳の奥で探っている。
許の都には、胡楽や燕楽の調べも入り込みつつあった。市の一角では胡人の笛が高く鳴り、人々の耳を引きつけている。
だが宮中の太楽に求められるのは別の務めである。祖宗に報じ、社稷を鎮め、群臣の列を正すための音。杜夔はそのことを、器と詩とをもって示そうとしていた。
「登」
名を呼ばれた邵登が進み出る。杜夔は書の一章を指で示した。
「この句が、本来いかなる場でうたわれたか、書に照らして述べてみよ。場が定まれば拍も定まる。拍が定まれば、用いる器も定まる」
邵登は礼記や周官に引かれた注を思い起こし、祭祀と燕、軍と楽、それぞれの場の違いを簡に述べた。杜夔はうなずき、鐘の口をひとつ打たせる。
澄んだ宮の音が立つと、張泰が鼓に手を掛けた。
「いま登の述べた場にふさわしい拍を立てよ。文の礼ならば、武の陣のように急くことはない。だが弛めてもならぬ」
張泰は息を整え、三つ目の指で鼓を打った。続けて二打、三打。拍はゆるやかでありながら、列の足をひとつところに引きとめる力を帯びている。
「よし。拍が立てば、人の心もそのうちに収まる」
最後に桑馥が琴の前に進んだ。杜夔は先ほどの句をあらためて示す。
「言の高低と、宮商角徴羽のどこが最もよく応じるか、耳で量れ。詩は書の上にあるのではない。声となってはじめて、その意味が人の胸に落ちる」
桑馥は静かに弦を押さえた。宮から起こし、商と角を寄せ、徴と羽を細く絡める。琴の声はまだ細いが、詩の息づかいが、その中にかすかに宿り始めていた。
舎の梁には、鐘と鼓と琴の余韻が重なった。古い礼の形は完全には戻らぬ。だが、ここからひとつずつ積み直してゆくよりほか道はないと、杜夔は感じていた。
日が改まり、月が改まっても、太楽の舎から灯が絶えることは少なかった。朝まだきには廊の砂が冷たく、夜ふけには油の匂いが濃くなる。そのあいだに、杜夔は几の前と器の列とを往き来した。
譜の束は帛から解かれ、書き手の前に置かれる。墨をすり、欠けた行を補い、乱れた節をただす。邵登は師の指示に従い、どの場でどの曲をいかなる拍で奏するかを条に立てた。祭祀と朝会、饗と冊立、それぞれの礼に応じた規が板と札に記されてゆく。
「ここは旧き注によれば四拍にございますが」
「礼の形に合わせて三に改める。人の歩みと器の声とが、むやみに競うてはならぬ」
几の脇には、場ごとに分けられた札が積まれていった。庭の一角では、張泰が鼓と鼗を前に楽人たちを並べている。合図の手は迷いがなく、声はよく通った。
「ここで一打遅れれば列は崩れるぞ。目だけで拍を追うな。胸の内で数えろ」
鼓が鳴り、足がそろう。文の舞といえども、拍が乱れれば列も乱れる。張泰は兵を率いる将のような眼で、その乱れを探し出しては正させた。
別の舎では、桑馥が琴と瑟、笙と簫を前に坐していた。糸を押さえ、竹を吹き、匏の管を合わせる。詩経の古い句をたしかめながら、音と音とのあいだに言葉が自然に落ちるところを探っている。
窓の外からは、市の方角の胡楽の笛がかすかに聞こえた。桑馥はふと手を止めたが、すぐに視を琴へ戻す。
「雅の楽は、人を浮き立たせるより、その根を支えるためにある」
師の言を思い返し、彼は宮から起こし直した。
そのころ杜夔は、中央で鐘と磬の列を改めていた。新たに鋳させた鐘の口を一つずつ打ち、古いものとあわせる。少しでも濁った響きがあれば、紐の長さを測り、吊りの位置を変えた。
「この二つは、宮と商の境が心持ち曖昧にございます」
邵登が耳を澄ませて言うと、杜夔は鐘を指で示した。
「そうだ。宮は宮と聞こえねばならぬ。ここを許せば、角も徴も、やがては羽も曖昧になる」
そうして日が傾くころには、稽古場から鼓と笛の音が重なって聞こえた。張泰の掛け声に合わせて舞人たちが衣の裾をそろえ、桑馥の琴は詩の節をなぞりながら深みを増してゆく。邵登の前には条文と譜面の束が整えられた。
杜夔は弟子たちを見渡す。
「古き楽は、すべてを取り返すことはできぬ。だが骨だけは立て直せる。骨が立てば、肉と血は時にまた巡る」
三人はそれぞれの持ち場で拱した。鐘は揺れ、鼓の革は一日の熱を収め、琴の弦にはかすかな震えが残っている。復古の務めは、その余韻のうちに、少しずつ形をととのえつつあった。
宮城の廊を渡る風は、冬を前にして冷えを増していく。朝の謁見を終えたのち、曹操は几の傍に立つ侍臣を振り向いた。
「このところ、堂の楽が改まったと聞く。誰の手か」
侍臣が名を奏すると、曹操は小さくうなずく。
「召せ」
ほどなくして、杜夔が殿に進み出た。衣は質素であったが、立ち姿には乱れがない。
「杜公良と申したな」
曹操は階上からその顔を見下ろす。
「このところ、社稷の祭でも朝の謁見でも、楽が昔と違っておる。鐘と磬は濁らず、鼓の拍も乱れぬ。群臣の列も自然と引き締まるようだ」
杜夔は静かに拱した。
「世に定められた礼の楽を、経と故事に照らして立て直しているだけにございます。古き律のすべては取り戻せませぬが、骨だけでも折り直さねばと存じました」
曹操は口の端にわずかな笑みを浮かべる。
「よい言葉だ。乱世にあって楽を立て直すは易しくない。汝の勤め、聞き及んでおる」
彼は几の上の札を指で押さえた。
「褒美を与えよう。何を望む」
殿の空気が静まる。列の端に控える者の多くは、金帛や田宅の名を思い浮かべた。だが杜夔は、しばらく言を選ぶように沈黙し、それから顔を上げる。
「私のための褒美は願いませぬ」
曹操の眉がわずかに動いた。
「では、太楽のために何か要るか」
「はい」
杜夔は堂の高みに吊られた鐘を見上げる。殿の梁から下がるその列は、朝ごとに鳴らされていた。
「いま宮中に備わる鐘のうちには、音の律がわずかに乱れているものがございます。鋳の古さ、紐の伸び、幾度もの移し替えのために、宮と商の境が曖昧になりかけているものも見受けられます」
曹操は黙して聞く。
「鐘の音律が乱れれば、宮・商・角・徴・羽すべてが崩れます。詩をいかに整えても、拍をいかに正しても、根たる音が曇れば、礼の形はゆがみましょう。もし赦されるならば、褒美に金帛を賜るよりも、鐘を改めて鋳直すことをお許し願いたく存じます」
言い終えると、殿上には一瞬、言葉の間が落ちた。
やがて曹操は深くうなずく。
「お前の望み、聞きとどけた。宮城の庫から良き金を選ばせ、新たに鋳させよ。律に適わぬものは、すべて汝の耳で退けるがよい」
「承知しました」
杜夔は拱手した。褒美の名はどこにも出なかったが、その顔には満ち足りた色がひそかに浮かんでいる。
殿を辞して廊に出ると、冷たい風が衣の裾を払った。遠く、太楽の舎の方角から、鐘を試みに打つ澄んだ音がかすかに届く。
宮と商の境をただすその務めの先には、やがて角と徴と羽の操までも定まってゆくのだと、杜夔は胸の内で静かに感じていた。




