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02 公劉

 荊州牧・劉表が病に倒れ、その子・劉琮りゅうそうが大軍の前に膝を折ると、城門はひとたびに開き、印綬と官府は新たな主の手に移った。建安十三年、荊州は曹操の旗下に帰し、その余波は宮城の廊にも届く。


 変わるものと、変わらぬものとがあった。兵は新たな号令に従い、吏は新たな札を書く。だが、祖宗に報じ、神祇を祀り、群臣を会して礼を行う場には、昔と同じく楽が要った。新たな主はそのことを軽んじず、太楽たいがくの務めを正す者として、杜夔の名を呼び起こした。


 命には、軍謀祭酒ぐんぼうさいしゅの名が記されていた。兵の謀をもって軍の行きをただすように、楽の律をもって礼のかたちをただせという意であろうと、杜夔は読み取った。太楽を総べ、雅の楽を整える務めが、この一書のうちに託されているのも見てとれる。


 宮城の一隅にあてがわれた舎には、この数日のうちに、金石と糸竹の器が次々と運び込まれていた。襄陽で用いられていたもの、京から下されたもの、諸郡の庫から選び出されたもの。鐘の口は音の高低に従って並べられ、磬の石は刻みの古さごとに列を分けられた。帛に包まれた譜の束も、几の上に積み重なってゆく。


 杜夔は、その前に静かに坐した。書を一巻ずつ繰り、墨の薄さと筆の勢いを見て、どの時代の、どの家に伝わった節かを推し量る。詩経の章句にあてられた古い曲、いつの折かに改められた新しい節。兵火と人の移り変わりの中で、名だけが残って音の消えかけているものも少なくない。


 音は書の上には残らぬ。残るのは、誰それが何の曲をいつ奏したという記録ばかりである。その行間から、失われた調べの影を拾い上げねばならぬと、杜夔は目を閉じ、きゅうしょうかくの五音を心の内にめぐらせた。


 舎の外では、若い足音がひとつ、廊を走り過ぎていった。やがて履の音は戻り、戸口の前で止まる。控えめな咳払いが聞こえた。


 「公良先生、先日のご指示どおり、鐘の改鋳がひとまず整いました」


 声の主は、楽府に出入りする若者のひとりであった。その背後には、同じ年ごろの影が二つ、遠慮がちに並んでいる。


 杜夔は立ち上がり、舎の奥の鐘の列へ歩み寄った。吊り並べられた金の腹は新旧まじり、刻印の深さもまちまちである。彼は槌を取り、もっとも低い一口の縁を軽く打った。


 澄んだ音が梁を渡って広がる。続けて二つ、三つと打てば、五音が階をなして立ち上がった。改めさせた鐘も、古いものと乱れなく応じた。


 「


 名を呼ばれた邵登しょうとが、書板を置いて進み出る。


 「律は書だけに記すものではない。金の口と刻み、紐の長さに宿る」


 杜夔は槌を渡した。


 「宮を起こし、次に商を打て。角をひとつ上げ、徴と羽をそれに従わせよ」


 邵登は順に打った。鐘の声はさきほどと変わらぬ階を描く。杜夔は耳を澄まし、短くうなずいた。


 「よし。お前はいずれ律と制度を支えるだろう。だが文字に頼るな。鐘がわずかに狂えば、経書の一句より先に、お前の耳がこれを責めねばならぬ」


 邵登は拱手し、その言葉を胸に収める。


 「たい


 次に名を呼ばれた張泰ちょうたいは、鼓の台へ歩み出た。撥を取り、革の張り具合を確かめる。


 「殿上の拍は、戦の陣とも通ずる。ここで一打遅れれば、舞の列は乱れ、人の心も乱れる。お前の手は、多くの足と目を動かすと心得よ」


 杜夔が指で静かに拍を数えた。三つ目で鼓が鳴る。続けて二打、三打と打つうち、舎の内に目に見えぬ拍が立ち上がった。


 「そこだ。拍を立てることを恐れるな。ただ走るな。文のぶんのまいは歩みのうちに徳を示す。お前の手が先に走れば、列はそれを追って崩れる」


 張泰はもう一度同じ型を打った。今度は沈んだ拍である。杜夔はうなずき、撥を台に置かせた。


 「ふく


 最後に呼ばれた若者が、琴と笙の前に進み出る。桑馥そうふくは三人の中でいちばん年が若く、指は細いが、弦に触れる動きにはためらいがない。


 「詩をひとつ選べ」


 杜夔は書を開き、一行を示した。


 「この句を宮から起こしてみよ。言に引きずられるな。まず音の高低を定め、それから言葉を載せる」


 桑馥は静かにうなずき、宮を起こした。商と角をつなぎ、徴と羽を絡める。まだ形の定まらぬ旋律であったが、音と音とのあいだに詩の息づかいがかすかに宿りはじめる。


 笙がそれに和して低く鳴った。桑馥は琴と笙とのあいだで、どの音が互いを支え、どの音が浮きすぎるかを探っていた。


 「お前は音色を聴く耳を持っている。だが情に流されるな。雅の楽は、心を慰めるばかりではない。礼を正し、歌と器とをそれぞれの位に置くためにある。世に流行る調べの甘さを覚えてもよいが、ここではそれに引かれるな」


 桑馥は指の置き場を改めた。琴の音が静まり、笙とのあいだに凛とした間が生まれる。


 三人の手が止んだとき、舎の内にはなお余韻が残っていた。杜夔は几の前に戻り、三人を見渡した。


 「金・石・糸・竹・匏・土・革・木。八音の器は、それぞれに役がある。人の身も同じだ。お前たちがみな同じように奏でようとすれば、礼はかえって崩れる」


 邵登は鐘の傍で拱手し、張泰は鼓の陰で背筋を伸ばした。桑馥は琴の前に膝をつき、静かに頭を垂れる。


 稽古が終わると、舎の内には静けさが戻った。鐘は紐に揺れ、鼓の革には熱だけが残る。邵登は書板を脇に置き、張泰は撥を拭い、桑馥は琴の前に膝をついたまま、弦の余韻を耳に留めていた。


 やがて桑馥が立ち上がり、杜夔の前に進み出る。


 「公良先生」

 「何だ」

 「先生は八音すべてを弾き鳴らしてご覧に入りますのに、歌はお口になさらず、舞も舞われません。いま宮中では、一人の楽人が歌い、弾き、舞うことも増えていると聞きます。なぜ先生は、歌舞をなさらぬのでしょうか」


 言い終えると、桑馥は不安になり、深く頭を下げた。邵登も筆を止め、張泰も撥を持った手を留める。


 杜夔はしばし黙していたのち、静かな声で言った。


 「よい問いだ」


 彼は立ち上がり、鐘と磬、糸竹と鼓の列を見渡す。


 「周の世まで、器を奏する者、歌をうたう者、舞を舞う者は、それぞれ別であった。楽とひとまとめに称しても、務めは分かれていたのだ。鐘を打つ者は鐘の律を究め、歌う者は声と辞を究め、舞う者は手足の節をもって礼を示した。のちの世になるにつれ、人は便利を好み、器と歌と舞を一所に合わせるようになった。場を賑わせるにはそれもよい。だが礼の場では、ひとりに多くを背負わせれば、どこかで必ず粗が出る」


 杜夔は琴に指を置き、宮を軽く鳴らした。徴と羽の影が、その上に揺れる。


 「五音はひとつながりでありながら、それぞれに位がある。人も同じだ。登は律と制度を支え、泰は拍と列を支え、お前は音色と情を支える。そのうえで別の者が歌い、さらに別の者が舞う。そうしてこそ、礼は揺るがぬ」

 「では、先生は歌舞を軽んじておられるのではないのですね」

 「軽んじはせぬ。ただ、器を司る務めを授かった者がみずから歌い舞うを本とすれば、その分だけ器の道がおろそかになる。わしは器のうちで礼を尽くす」


 杜夔は桑馥を見た。


 「お前が琴を、あちらが舞を、それぞれ極めてこそ、天子の前の楽は揺るがぬ」


 桑馥は深く拱手する。


 「琴の道を、もっと深く学びます」

 「よし。登は今の言を条に記せ。泰は拍を刻み直して、乱れなきところを覚えよ。桑馥は、先ほどの詩の節を明日もう一度奏でよ」


 三人はそれぞれ拱し、持ち場へ散っていった。舎の内には、再び静かな拍だけが残る。



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