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01 生民

 城の庭は、朝の光を浅く受けていた。襄陽の高い城壁に囲まれたその一角に、敷石の広場があり、きぬで飾られた柱が幾本も立っている。柱のあいだには長い几と台が並び、その上には祭祀に用いる器具がまだ静かに息を潜めていた。


 中央には、礼のための楽器が順を追って置かれている。金を打つ鐘は澄み、石を刻んだけいは薄く光り、糸を張ったしつや琴がその隣に伏せられていた。竹をくり抜いた笛としょうは細く口を開き、ほうの器は管を抱えて立つ。土を焼いたけんは丸く、革を張った鼓は低く重みを湛え、木の拍板はくばんは指の温みを待つばかりである。金・石・糸・竹・匏・土・革・木。八種の材から成るこれらの器は、酒肆しゅしの坐を賑わせるためにあるのではない。天子と祖廟、神を祀るときにのみ許される、礼の具であった。


 世には、耳を慰めるだけの歌や舞もある。客の機嫌を取り、酔いを進めるための調べもある。だが、ここに整えられた列は、それらとは別のものであった。雅の名を持つこの楽は、儒の教えにかなう節と拍を定め、音をもって人の心と国の秩序を正す。拍を誤れば礼が乱れ、声を外せば徳が揺らぐと知る者の前でのみ、鼓や鐘は口を開くのである。


 杜夔とき、字を公良は几の傍に立ち、並んだ器を静かに見渡していた。衣には一分の乱れもなく、目の光は鋭い。その横には孟曜もうようが控え、楽人たちは指示を待って息をひそめている。孟曜は絃の張り具合を確かめ、指先で軽く弾いては、響きを耳に入れていた。


 「こう


 名を呼ばれた若者が一歩進んだ。まだ年は浅いが、筆を離れて楽に仕えることを誇りとしている。杜夔は鐘の前に立つ弟子の手つきを見て、短く言った。


 「打つ前に、心を正せ。これは帝と祖先にささぐる礼だ。市の歌と同じ手で鳴らしてはならぬ」


 陳頏ちんこうは身を正し、深くうなずく。彼の胸には、かつて京師けいし雅楽郎ががくろうを務めた杜夔が、病を得て官を退き、乱れゆく世を避けて荊州に来たと聞かされていた日のことが浮かんでいた。師は世に背を向けたのではない。ただ、礼の形を守る場を求めてここに立っているのだと知るからこそ、その一言に重みを感じるのである。


 孟曜が小さく合図を送り、楽人たちはそれぞれの位置に身を据えた。鐘と磬の前にはつちを持つ者が立ち、笛と簫には息を整える者が並ぶ。鼓を打つ者は腰を据え、拍板を握る掌には、これから刻まれる拍に合わせて、自らの心も調えようとする気配があった。帛の帷の下には、まだ帝の御坐も祠官もない。それでも杜夔の胸には、やがて礼が備わるべき場のかたちが、あらかじめ描かれていた。


 合図の鼓が、ようやく一つ鳴った。襄陽の庭を包んでいた静けさが薄く揺れ、鐘と磬がそれに応じる。笛と簫が息を重ね、鼓の低い響きが底を支えていた。


 庭を囲む廊の陰で、その響きを聞く耳があった。荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうである。朝の務めの帰り、従者を伴って歩くうち、金石の調べがほのかに届いた。


 「今朝は、いかなる楽を奏しておるのだ」


 問いに、側近が拱手する。


 「公良殿と孟殿が、帝のための雅楽を整えておられます。試みに節を合わせておられる由にございます」


 劉表は歩を緩めた。書と学を好むこの牧は、音にも興を覚えていた。都の礼が乱れがちな折、そのさまを見ておきたいと思うのも自然である。


 「少し、庭のさまを見てゆこう」


 そう言って、帷の立つ方へと進んでいった。廊の角を曲がると広場があらわれ、その中央に八音の器が整えられているのが見える。鐘と磬の列、その前に立つ楽人の背、糸竹の影。帷の中ほどには、杜夔と孟曜の姿があった。


 劉表は歩みを止め、柱の陰からその様子を眺める。その目には好ましげな色が浮かんだ。乱世にあっても、礼の楽がここまで整うならばと、ひそかに満足を覚える。


 そのとき、杜夔がふと顔を上げた。帷の外に立つ人影を見とめると、鎚を持つ楽人に手を挙げ、音を止めさせる。笛と簫も息を収め、庭の空気がふたたび静まった。


 「公良先生……」


 陳頏は、師の目の色を見て胸騒ぎを覚えた。帷の縁からそっと外をうかがい、そこに荊州牧の姿を見つけると、思わず息を呑む。この場で挨拶を受けるならともかく、杜夔はすでに一歩踏み出していた。州牧にどのような言が向けられるのかという不安が、若者の胸に走る。


 杜夔は帷を分けて進み、柱の手前で拱すると、静かな声で言った。


 「景升殿」


 劉表は目を細め、笑みを見せる。


 「公良殿、よい音であった。天子のための楽が、この襄陽の庭で奏されるさまを、一目見ておきたくなってな」


 杜夔は、首を横にも縦にも動かさなかった。しばし沈黙があり、そののち、言葉を選ぶように口を開く。


 「景升殿は、これを帝のための合奏とお定めになりました。その音を、今はご自身の庭の楽しみとされますか」


 声は低く、庭の隅々まで届いた。


 「雅の楽は、漢室と宗廟、神祇じんぎに供する音にて、私宴の庭に交えるべきものではございませぬ。どうか礼に則り、慎まれますよう」


 その言葉を聞きながら、陳頏の掌には冷たい汗が滲む。


 庭の空気は、張りつめた糸のようになった。荊州牧の面前で諫言を述べようとは、ここに並ぶ誰ひとりとして予期していない。陳頏は目を伏せ、鼓を打つ者も拍板を握る手を固くしている。


 しばしののち、劉表はふっと息を洩らした。怒りの色はなく、むしろ、自らの胸の内を測り直すような静かな眼差しである。


 「公良殿の言、もっともである」


 劉表はゆっくりとうなずいた。


 「天子のためと称しておきながら、その始めを庭で見物しようとした。礼を軽んじたのは、まさしくこの身であった」


 そう言うと、杜夔と孟曜の方へ一歩進み、従者を振り返る。


 「ここは天子と宗廟に通ずる音を整える場である。わしが興に乗って眺める場ではない。以後、この稽古にあらぬ影を交えさせるな」


 従者たちはあわてて拱し、廊の陰へと身を引いた。劉表は、杜夔と孟曜に向き直った。


 「公良殿、孟殿。わしが礼を失した。今の諫め、ありがたく受ける。どうか帝のための節を正し、漢室のために音を備えてくれ」


 孟曜が一歩進み、深く頭を下げる。


 「景升殿のお心があればこそ、この襄陽に礼の場が保たれましょう。我らはただ、古き法に従うのみ」


 杜夔もまた、拱して答えた。


 「礼の形が正しければ、音はおのずと正しくなります」


 劉表は微笑み、庭の列を一度見渡した。鐘の列、磬の影、糸竹の並び。その一つ一つに、漢室のかたちを映そうとする杜夔の心を見て取ったようである。


 「ならば、わしはここにあらずともよい。帝と神々に恥じぬ音を整えてくれ」


 そう言い残すと、劉表は廊の方へ身を引いた。足音が遠ざかるにつれ、庭に残された者たちは、張りつめていた息をひそかに吐く。


 「公良先生、今のは……」


 陳頏が思わず口を開きかけたとき、杜夔は軽く首を振った。


 「よい。景升殿は、礼を解されるお方だ」


 それだけ言って、再び几の前に戻った。孟曜も笑みを含みながら陳頏の肩に手を置く。


 「頏殿、今のをよく胸に留めておくがよい。音は、聴く人のためにあるようでいて、本来は見えぬもののためにあるのだ」


 陳頏は、はっとして鐘の列を見やった。さきほどまで、人に聞かせる演奏と考えていた自分の浅さに気づく。ここに並ぶ器は、好機の耳を喜ばせるためではない。天子と祖先、神々の前に、乱れた世の中でなお礼の筋が通っていると示すためのものであった。


 杜夔が楽人たちに目を配る。


 「先ほどの節を、もう一度。鐘は拍を先に急がせるな。磬はその影を追え。笛と簫は、鼓の底を踏んでから声を上げよ。人に聞かせると思うな。天と祖先に届くと心得よ」


 楽人たちは一斉に拱手し、それぞれの位置に戻った。鎚を握る手の震えは、先ほどとは違っている。恐れだけではなく、自らが礼の一端を担うという重みが加わっていた。


 孟曜が小さく合図を送る。鼓がゆるやかに打たれ、襄陽の庭にふたたび拍が満ちた。鐘がそれに応じて澄み、磬が石の声を添える。笛と簫の息は、朝の空気に細い筋を描き、塤の低い響きが地の底から湧くように重なった。


 音は、城壁を越えて遠くへ散っていった。市の賑わいに紛れても消えず、目には見えぬ先を目ざして、静かに昇ってゆく。陳頏は鐘を打ちながら、その行方を思った。乱れゆく世のなかで、自らの師が守ろうとしているものは何か。その答えが、いま鳴らしている一打の中に宿っているように感じられた。


 杜夔は几の傍らに立ち、音の重なりを聞いていた。劉表の姿はすでに庭から消えている。それでも、この襄陽の一角には、天子のために備えるべき礼の形が、確かに息づきはじめていた。


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