夢
『将来の夢』
緑色の黒板に大きく真っ白い字で書かれたその言葉はまっすぐではなく、少し右に曲がってしまっていた。
「将来の夢について作文を書きましょう。期限は明日まで。この時間中に書き終わったら先生に出しに来てね」
僕でも知っているような有名なスポーツブランドのジャージを愛用する僕のクラスの担任の先生がいつものように宿題を発表した。漢字の書き取りだとか数学のドリルだとか、そんな他の宿題と同じように。
悩みなんてなさそうな、いつも友達とおなかを抱えて笑いあっている僕の席のお隣さんはそんな先生の言葉に頭を抱えてうなっていた。そんな姿を初めて見たぼくはついお隣さんに聞いてしまった。
「頭でも痛いの?」
くじ引きでお隣さんに決まったときから片手の指で数えられるくらいしか話したことのない僕が真面目な顔で話しかけてくるものだから、お隣さんはドングリみたいな大きな目をさらに大きく見開いて、いつもみたいにおなかを抱えて笑った。
「ううん、大丈夫。どこも痛くないよ」
笑いすぎておなかが痛くなってしまったのか、ひーひー言いながらお隣さんはポッコリとしたおなかを左右にさすった。
「じゃあ、どうしたの? 何かあるなら僕が先生に言ってきたあげる」
「ああ、いーいー。ただ、何書こうか迷っただけだから」
「迷う……って作文?」
僕は同志を見つけたとばかりに身を乗り出した。けれども、僕の身体とは逆に首を後ろに引いてしまったお隣さんは僕の同志なんかじゃなかった。むしろ僕と正反対。
「どれを書こうかなって思って」
「どれ?」
「うん。お花屋さんにケーキ屋さん、保育園の先生、動物園の飼育員さんもやってみたいなあ」
「なれるのは一個だけだよ」
僕は意地悪でそういってみた。そんな僕の意地悪はお隣さんには届いていないようで、お隣さんには不似合いな真面目な顔をして言った。
「うん。だから迷うんだ。全部やりたいことなのに一個しかなれないだなんてひどい世の中だよね……」
「世の中は関係ないんじゃない?」
また頭を抱えてうなりだしたお隣さんにはそんな僕の言葉なんか耳に入っちゃいない。頭を抱えたところで何かが決まるわけじゃないのによくやるな……、なんて思ったけど口に出すのはやめた。そして僕は残りの時間全てを枠の書かれただけの原稿用紙と表情がクルクル変わるお隣さんの顔を眺めることで使い果たした。
キーンコーンカーンコーンって終わりのチャイムが校内に響き渡る。これを合図に教室にいるみんなは先生にプリントを返されるときよりも素早く動き出す。ノロノロとカバンをいじるぼくを見て、後ろの席のサッカー好きの男の子は僕の椅子の足をガンっと一度だけ蹴った。何をするんだ、なんて分かりきったことは聞かない。そんなことはいつものことだからもう慣れてしまった。
先生はいつものように黒板の前に立って、黒い板のような名簿を叩く。これは先生が明日の予定を話し出す合図だ。一斉にみんなは前を向く。それに満足した先生は明日の予定を口にする。
「明日は全体朝礼があるから遅刻しないように」
「はーい」
明日の予定を告げられ、いい子ちゃんの返事を返す。後は帰りの挨拶だけかと、みんなはカバンに手をかける。すると先生が口にしたのはみんなが待っていた言葉とは違った。
「作文、忘れないようにね」
「わかってるって! 先生早く!」
僕の後ろの席の子は地団太を踏みながら、窓から校庭を見下ろす。きっと放課後の場所取りに参加したいのだろう。わきにはしっかりとサッカーボールが挟まっている。
「はいはい。じゃあ、はい、さようなら」
「さよーなら」
教室中の声がそろう。
音楽の授業の歌の練習じゃ絶対にそろわないのに、『帰りのさようなら』と『給食のいただきます』の声だけはみんなちゃんとそろう。音楽の気の弱い先生はみんなで頑張ればいつかきっとそろうって言っていたけれど、そんなことはきっとないんだろうなって僕はいつも思う。
一斉に教室の中のほとんどの子がいなくなってから僕はノロノロとカバンの中身を確認する。どうせ僕の乗るバスの発車時刻までは20分以上ある。それに僕を急かす後ろの子ももう校庭で場所取りに参戦してしまっている。いつもなら早めにバス停に行って本でも読みながらバスを待つところだが、残念ながら読みかけの本は僕のベッドの枕元に置いてきてしまった。宿題をこなそうにも出ているのはあの作文だけ。何もすることがない僕はノロノロとカバンを漁りだした。
『夢』なんて誰かに胸を張って言えるものは何もない。
そういってしまえば、きっと先生は顔をしかめて、しわをくっきりと作るだろう。去年の担任の先生がそうであったように。
大学を卒業して先生になった去年の僕のクラスの担任の先生は、昔から先生になることが夢だったのだと4月に熱く語った。詳しく覚えている子なんて僕を含めそういないけれど、隣のクラスの先生に言われるまで話していたようだから軽く20分は語っていたのだろう。
そんな先生が僕らの先生になってから初めて出した宿題――それが『将来の夢』だった。僕はさっきみたいに何も浮かばなくて、提出期限にも間に合わず、「何でもいいんだぞ」そう言った先生に題名と名前だけがしっかりと僕の字で書かれた原稿を渡した。
すると先生は僕の肩をがっしりとつかんだ。
「いじめられてるのか」
深刻な顔で見当違いなことを言った先生は僕の心配なんかしていなかった。先生の目には目の前の僕は映っていなかった。僕の肩を痛いくらいにつかんでいた先生がしていたのは先生自身の心配。僕が先生の目と僕の肩を交互に見ている間、先生は「初めてもった担任でさっそくいじめか……」なんてブツブツとつぶやいてから「いや、違う」と解答を導き出したようだった。
やっと解放されるのか、安心した僕に先生は言った。
「お前の夢は○○だ!」
先生が導き出した解答は僕の夢を作り出すことだった。僕は先生に言われた通りの内容をメモし、僕の言葉に書き換えて次の日の朝一番に先生のもとに提出しに行った。それを先生は「よくかけているな」と僕の夢ではないそれを満足そうに受け取った。
あの時、僕はなんて書いたんだろう。思い出すのは、校庭から響くクラスメイトの楽しそうな声ばかり。他の宿題と同じように、言われたことをこなしただけの宿題。
また同じ宿題が出るなんて思ってもみないで他のものと同じように返されたその日にゴミ箱に入れてしまったのか。それともまたあると困るからと小さく折りたたんでとっておいたような気もする。
どちらにしても僕は勉強机の隅々を探すしかないのだろう。
大人が満足する『夢』を僕は今もまだ持っていない。けれども、もうあるかもわからない小さな紙には僕の字で書かれた大人が望む『模範解答』が載っている。
少しバスの発車時刻には早いかもしれないが今日は天気がいい。珍しく雲一つ出ていない空の下で、何もせずにただぼうっとバス停のベンチに座るのもたまには悪くないかもしれない。
楽しそうな声が窓の外から聞こえてくるのを背に僕は席から腰を上げた。




