最終話 黒塗りの車から降りてきた彼は、もう普段着ではなかった
データセンター計画が正式に動き出し、町には少しずつ新しい未来が見え始めました。
けれど、東京へ戻った颯真はスナックに現れなくなり、明日香はようやく、自分が彼を待っていることに気づきます。
最終話では、毎晩ウーロン茶を頼み続けた颯真の本当の想いが、明日香へまっすぐ届けられます。
データセンターの用地が正式に決まった。
町は、久しぶりに大きな話題で揺れていた。
全員が手放しで喜んだわけではない。
不安を口にする人もいる。
変化を怖がる人もいる。
でも、少なくとも、前より町の空気は明るかった。
最終説明会の日、颯真さんは壇上で言った。
「この町は条件が良かったから候補地になりました。ですが、条件だけなら他にも候補地はありました」
会場が静かになる。
「最後に決めた理由は、人です」
颯真さんの視線が、客席を見渡した。
田島さん。
佐伯さん。
真由ちゃん。
健太くん。
美沙。
そして、私。
「この町には、まだ諦めていない人たちがいる。その人たちと事業を作る価値があると判断しました」
胸が熱くなった。
颯真さんは、雇用の約束をもう一度説明した。
地元採用枠。
未経験者向け研修。
地元業者への発注。
災害時の電源協力。
若者が町で働ける仕組み。
真由ちゃんは、市役所職員として泣きそうな顔をしていた。
健太くんは、初めて少し前を向いた顔をしていた。
田島さんは、何度も頷いていた。
佐伯さんは「店、もう少し続けるかな」と小さく呟いた。
町が救われた、なんて簡単には言えない。
でも、明日が少し見えた。
それだけで、人の顔は変わるのだと思った。
その日の夜、颯真さんはスナックに来た。
普段着だった。
いつもの席に座り、いつものようにウーロン茶を頼んだ。
でも私は分かっていた。
これが最後かもしれない。
「明日、東京へ戻るんですか」
私はグラスを置きながら聞いた。
「はい」
「そうですか」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
颯真さんは静かに私を見た。
「毎晩ここに来られて、よかったです」
「町の調査に役立ちました?」
冗談めかして言うと、彼は少しだけ首を振った。
「あなたに会えました」
言葉が詰まった。
店内には常連たちの笑い声がある。
美沙の声がする。
グラスの音がする。
なのに、その瞬間だけ、世界が少し静かになった。
颯真さんは、それ以上何も言わなかった。
強引に迫らない。
答えを求めない。
私の気持ちを急かさない。
それが、いつも通りの颯真さんだった。
「また来ます」
帰り際、彼はそう言った。
私は笑った。
「はい」
でも、社交辞令だと思った。
東京の社長は忙しい。
この町での用事は終わった。
スナックのカウンターでウーロン茶を飲む日々も、きっと終わる。
翌日、颯真さんは東京へ戻った。
数日が過ぎた。
彼は来なかった。
当たり前だと思った。
なのに、毎晩、入口のベルが鳴るたびに顔を上げてしまう。
「社長さん、東京に帰ったんだな」
田島さんが言う。
「忙しい人だからね」
佐伯さんが頷く。
「明日香ちゃん、寂しいんじゃないの?」
美沙がわざとらしく聞く。
私は笑ってごまかした。
「ただのお客様でしたから」
けれど閉店後、カウンターの端を見る。
空いた席。
そこに、ウーロン茶のグラスはない。
私はようやく認めた。
私は、颯真さんを待っている。
彼が毎晩来るのが、いつの間にか当たり前になっていた。
その当たり前がなくなるだけで、こんなに寂しい。
その夜も、片づけをしていた。
美沙が看板の灯りを消そうとした時、外に車が止まる音がした。
静かで重い音。
美沙が窓の外を見て、目を丸くした。
「明日香」
「何?」
「来た」
「誰が?」
答えを聞く前に、店の外が少しざわついた。
私はドアの方へ歩いた。
スナックの前に、黒塗りの車が停まっていた。
商店街の古い街灯の下で、その車だけが別の世界から来たように見えた。
運転席から秘書が降りる。
後部座席のドアを開ける。
降りてきたのは、颯真さんだった。
いつもの普段着ではない。
完璧なスーツ姿。
東京の社長としての顔。
けれど、私を見る目だけは、あのカウンターの端に座っていた時と同じだった。
「颯真さん……?」
私は店の入口で立ち尽くした。
颯真さんは、まっすぐ私の前まで来た。
「用地は決まりました。東京での報告も終わりました」
「それなら、もうこの町に来る理由は……」
「あります」
彼は、私の言葉を静かに遮った。
「あなたに会いに来ました」
店内が静まり返った。
美沙だけが、奥でにやりと笑っているのが見えた。
颯真さんは続けた。
「俺は、この町に事業を作ります」
そして、少しだけ声をやわらかくした。
「でも、俺が帰ってきたいと思った理由は、あなたです」
胸が震えた。
颯真さんは、一歩も詰め寄らない。
ただ、まっすぐに立っていた。
「俺は、最初の日からあなたに惹かれていました」
「最初の日……?」
「酔った常連に傷つけられそうになっても、誰も傷つけずに自分を守ったあなたを見て、この人にまた会いたいと思いました」
そんなところを、見られていたのか。
「用地を探しに来たはずなのに、毎晩ここに来る理由を探していました」
彼は少しだけ息を吸った。
「東京へ戻って分かりました。俺はこの町に用があったんじゃない。あなたに会いたかったんです」
私は言葉を失った。
離婚した時、私は捨てられたのだと思った。
いなくても大丈夫な女だと思われていた。
誰かに必要とされることを、どこかで諦めていた。
でも、この人は言う。
会いたかった、と。
毎晩ここに来たのは、私に会うためだったと。
「あなたの人生を、俺の都合で動かしたくありません」
颯真さんは言った。
「東京へ来てほしいと命令するつもりもありません」
彼らしい言葉だった。
迎えに来たのに、連れ去らない。
本気を見せるのに、選ぶ権利は私に渡す。
「軽い気持ちで、あなたの前に立つつもりはありません」
颯真さんは、まっすぐ私を見た。
「それでも、俺のこれからに、あなたがいてほしい」
颯真さんは、一度だけ言葉に詰まった。
あの説明会で何百人の前に立っても揺れなかった人が、私の前では、ほんの少し息を乱していた。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「結婚を前提に、俺と付き合ってください」
店内から、小さく誰かが息を呑む音がした。
田島さんだろうか。
佐伯さんだろうか。
美沙は、たぶん泣き笑いしている。
私はすぐには答えられなかった。
嬉しい。
怖い。
信じたい。
でも、自信がない。
離婚したばかりの私が。
この町に逃げてきた私が。
大丈夫なふりをすることしかできなかった私が。
本当に、この人の隣に立っていいのだろうか。
「私……まだ、自信がありません」
やっと出た声は、少し震えていた。
颯真さんは、少しも落胆しなかった。
「では、自信が戻るまで通います」
「またウーロン茶ですか?」
私が泣きそうになりながら聞くと、颯真さんは少し笑った。
「あなたが注いでくれるなら」
涙がこぼれそうになった。
私は、あの離婚の日の言葉を思い出した。
明日香は、俺がいなくても大丈夫だろ。
あの言葉は、私をひとりにした。
でも今、目の前の人は違う。
大丈夫だから選ぶのではない。
大丈夫じゃなかった時間も含めて、私を選ぼうとしてくれている。
「まずは」
私はゆっくり言った。
「仕事じゃない時間に、お茶からお願いします」
颯真さんが、深く息をついた。
ずっと緊張していたのだと、その時初めて分かった。
「喜んで」
店の中で、誰かが拍手した。
最初は美沙だった。
次に田島さん。
佐伯さん。
真由ちゃん。
健太くん。
小さなスナックに、拍手と笑い声が広がった。
「社長、今夜もウーロン茶か?」
田島さんが茶化す。
颯真さんは真面目に頷いた。
「はい」
「町に雇用を持ってきた男が、酒も飲まずにウーロン茶とはね」
佐伯さんが笑う。
美沙が言った。
「いいのよ。あれは明日香の前で酔えない男なの」
店内がまた笑いに包まれる。
私はカウンターの中へ戻り、グラスに氷を入れた。
いつものように、ウーロン茶を注ぐ。
でも今日は、いつもとは違った。
颯真さんは、いつもの席に座っている。
けれどもう、ただのお客様ではない。
私はグラスを置いた。
「どうぞ」
颯真さんはそれを受け取り、私を見た。
「明日香さん」
「はい」
「やっぱり、ここに来てよかった」
私は笑った。
「私も、この町に来てよかったです」
窓の外では、寂れた商店街の灯りがぽつぽつと続いていた。
すべてが明るくなったわけではない。
町の問題が一晩で消えるわけでもない。
私の傷が、今日すべて癒えたわけでもない。
それでも、スナック美沙の灯りは消えていなかった。
この町には、まだ諦めていない人たちがいる。
そして私も、もう一度、誰かと未来を見てもいいのかもしれない。
カウンターの向こうで、颯真さんがウーロン茶を飲んでいる。
その横顔を見ながら、私は初めて思った。
私は捨てられた女ではない。
私は、ここでまた、始められる。
― 完 ―
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
離婚した夜、帰る場所を失っていた明日香。
毎晩ウーロン茶を頼みに来る颯真との出会いによって、彼女の人生は少しずつ動き始めました。
捨てられたと思っていた場所で、もう一度誰かに大切にされること。
寂れて見えた町にも、まだ未来を信じる人たちがいること。
そんな「再出発」と「大人の恋」を描いた物語でした。
明日香と颯真、そしてスナック美沙に集う人たちのこれからを、少しでも温かく感じていただけたら嬉しいです。




