閑話 皇女 【イアナ視点】
私は、【主】を得た。私の心臓、名前、一滴の血でさえ全ては主のモノ。私の止まり木。主が死ねば、その後を追うと決めた。
イアナ・ブロイア。主から贈られた、最も貴重な『名前』だ。
私の生い立ちはありふれた物で、世間一般によく聞く話だった。食事はまともに与えられず、第二次性徴期の直ぐ後に、『練習』という名目で父と呼ぶには醜悪過ぎる男の慰み物となった。
抵抗すれば気絶するまで殴られ、終いには賭けの対価として複数の男に犯された。こんな地獄、【スラム】では溢れ反っている。
明日が来ることを恐れ、男が帰宅する時間帯には発狂するほどの恐怖が私を襲うのも、全部全部『当たり前』のこと。
そうして、長い月日が経った。ギャンブルで借金の利子が回らなくなった男はついに私を娼館に売り渡すことを決めた。それも劣悪な環境で奴隷以下のプレイを売りにたった一度客を取っただけでゴミ箱行きになると有名な娼館に。
限界だった。もうとっくの昔に限界を迎えていたはずなのに、自分の【死】でさえこの男を満足させる道具にしかならないという事実が途方もなく私を惨めにさせた。
ただ男にとって私の抵抗など微々たる物ですらなく、いつになく機嫌の悪くなった男は歯が折れると思うほど強く頬をぶつ。
声を上げようものならさらに殴打は続くだろう。そして助けてくれる人間などこのスラムには存在しない。男は体格も大きく、助けに入ったところで誰も勝ち目がないとわかっているから…。
何度も頬をぶたれた衝撃で耳が遠退いていく。意識も朦朧としていく中、私はある一つの物語を思い出していた。
顔も知らない男の情婦だった女が話した夢物語。ある不幸な女の子は心優しき聖女様に救われ、幸せを見つけたという内容だった。馬鹿にしながらそう話した情婦は、翌週の早朝に顔面が変形するほど殴打され、死んでいた。
私はその話を聞いても、一度もそんな『心優しき聖女様』を願ったことはない。だってその『心優しき聖女様』とやらは一度も殴られたことも、ぶたれたことも、蹴られたことも、犯されたこともない『幸せな女の子』なんだから。
そんな人に救ってもらっても、嬉しくない。何も知らない赤の他人が慰めてくれたところで感じるのは殺したいほどの憎悪だけ。
そう。だから私が願っていたのは…『この男を殺してくれる悪人』だった。そして願いは、…叶った!
突然の男の絶叫。初めて男の顔が苦痛に歪むのを見た。それから状況を性格に把握する暇も与えずに的確に四肢の機能を失くしていき、ついに床に這いつくばった男の背中を滅多刺しにする、まど幼い子ども。
ビリビリと感じる明確な【殺意】。憎悪なんてモノじゃない。癇癪なんて幼稚なモノでもない。もっとナニか、昇華された完全な【悪意】が刀に灯ってクラい光を放っていた。
男が息耐えようと一切手を弛める気配は見えない。その光景は異様なはずなのに、崇高なモノに見えて、思わず涙が零れ落ちた。
それから刀から手を離しその場から去ろうとする彼女を必死で呼び止め、心からのお礼を申し出る。
すると彼女は何を思ったのか私を拾ってくださった。なんと幸運なことだろうか。そうして彼女についていき身体を清められた後知ったのはこの帝国の第一皇女であるという衝撃の事実。
私達をヴェルナスという侍従の方に指導するよう命じ、完全にフードを取られたお姿はこの世の【美】の頂点に立った造形物にすら思えるお顔立ち。
部屋から退出し大人しくヴェルナスさんの指示を聞き奴隷の人達とはまた各自部屋が別れて眠りについた。まだ漠然とした不安の中にいる。それでもあの男の元から抜け出せた眠りは、深く心地良かった。
朝の五時半にヴェルナスさんに起こされ仕事室と思われる部屋に一同集められる。
皆が皆ここにいることを望んでいるようではなかったけど、ひとまず私はヴェルナスさんの指示に従うことを最優先にした。それがあの御方のご意志なのだから。
明確な目標がある私は他の人達より段違いに頭角を現したけど、それでもまだまだ一般的な侍女の半分も教養は身に付いていないことに自分自身が一番落胆した。
ヴェルナスさんからは充分だと励ましの言葉を頂いたけど、武術などは当然すぐに結果が現れるわけではないから余計に落ち込んでしまう。
ヴェルナスさんの講習を終えた後でも予習復習は欠かさずに休憩中の侍女の御方に心得などをご教授いただいた。
そしてもう一つのことに、私は大きく悩まされていた。それは【悪夢】。寝台につけば容赦なく襲ってくる悪夢に、徐々に精神を蝕まれていた。
まだスラムで暮らしていた頃は現実その物が悪夢だったことと浅い眠りばかりだったことが原因で夢なんて滅多に見なかったけど、此処に来て最も苦痛だったのは悪夢だ。
何よりそれを一人で耐えて、次の日に影響を及ぼすことが一番恐ろしかったことだ。落ちこぼれになって、あの御方に見捨てられることはどうしても許しがたかった。
だから、耐えて、耐えて、耐えて…っ。過呼吸で眠りにつくことさえ恐怖に感じてしまっている私を見計らうように、小さな影が扉を開けて入ってきた。
「だ、誰ですか…? い、いや…っ。お願い…、来ないでっ…」
身体を丸めて拒絶の言葉しか口にしない私に、ランタンで照らされた殿下が近づく。
「怖がるな。私だ」
毛布にくるまっていた私は聞き覚えのある声にバッ!と今まで防波堤だったはずの毛布を放り投げる。ランタンで暗い真夜中でもそのご尊顔はハッキリと見える。
「殿下…! 一体どうされたのですか?!」
およそ一ヶ月振りにお顔を拝見できた興奮で声があがらってしまう。そんな私を見てそっと人差し指を口許に当てる殿下。すぐさまむぐっと自分の口を塞いだ。
「…眠れないのだろう。私が隣にいてやるから、ちゃんと息をしろ」
「は、はい…」
私などでは決して指一つ触れられぬ太陽の化身の如く御方が、その小さな身体で私の顔を胸に抱いて優しく頭を撫でてくださっている。私は死んだのだろうか?
「…お前が夜な夜な悪夢に苛まれていると聞いたんだ。全て忘れろと言っても無茶なことだ。だが、これからお前は私が守ってやる。だから今は、ゆっくり眠れ」
あぁ…、この御方は全てを分かってくださって私を『守る』と仰ってくれた。
それからふと、この御方も同じような経験をされたのではないかと、考えてしまった。皇族の御方にそのような経験あるはずもないのに、何故かそう確信に近い考えが思い浮かび上がった。
だってこんな風に、まるでお互いの傷口を慰めるように抱き締めて、抱き締められようとしているのだから…。
まだ小さく幼い皇女様…。この小さな背中にはどれほど大きなモノが背負わされているというのでしょうか。それを隠して生きることに、どれだけのモノを犠牲にして来たのでしょうか。
それでもこれからは、どうか私にも分け与えてください。貴方様の肩が少しでも休めるように、罪も咎も、地獄ですら御供しましょう。
それから私は度々殿下と枕をともにし、毎度私のところまで来るのは面倒だと侍女に任命してくださった。以前までなら畏れ多いと辞退していた申しでも、今では目標の第一歩として謹んで受け入れた。
先輩の侍女から盗めるところは全て盗んだ。殿下の傍に居続けるために、私は強く、そして貪欲になったのだ。それを後悔したことは一度もない。むしろ自分の変化を誇らしくする思っている。
何より…、
「お前を侍女に任命するが、名前がないと不便だろう。何か名前はあるか?」
「いいえ、殿下。私に名などありません」
「なら、お前は今日から【イアナ・ブロイア】だ。毒花として私の傍で美しく咲き誇ってくれ」
「…っはい! 光栄の極みにございます!」
前の私と決別した決定的瞬間だった。殿下から名が下賜されたとき、私は真の意味で解き放たれたのだ。そしてこれから主の王道や覇道、たとえ邪道だとしても、死の間際までお仕えする新たな【イアナ・ブロイア】を誕生させた。
今日もそのお背中を目にしながら、仕事に勤しむ毎日を送っている。我が主の保護下で…。




