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異世界自転車浪漫譚  作者: 珈琲肉
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 "車は急には止まれない"という標語があるが、それは車に限ったことではない。

 ブレーキを掛ける判断や、制動前の時速、摩擦係数等の要因によってある程度の距離は完全には停止できずに進んでしまうものである。

 それは物理法則として当然のことであり、決して覆ることのない現実だ。 ━━つまり、何が言いたいかと言うと俺の身に起こった事故も気づいた時には既に回避し得ない事象だったということな訳で。

 勿論開き直っている訳ではない。事故を起こした当事者として責任は取る所存だし、俺のせいで不利益を被った方が居るのならば謝罪も賠償もしなくてはいけない。

 しかし、なんというか情けない話ではあるのだが、今回の件は自損事故に当たる事故な訳で……。

 思い返してみればその日は俺にとって厄日であった。朝の便は切れが悪く、ウィンナーを焼けば油が跳ねて火傷をし、歯を磨けば歯が凍みる。ん?これは違うか━━。まあ、小さな不幸が重なっていたことは確かだった。

 そんな厄日であろうが会社を休む訳にはいかないのは当然のこと。車を持ち合わせて居ない俺の通勤は自転車である。といっても、俗に言うロードバイクなどでは無く普通のママチャリ。9,800円で買った安物だ。

 既に10年以上を共にしている相棒ではあるのだが、愛着がある訳でもなく油などを注したことすらない為、チェーンは汚れでギトギト。雨天でも雨樋すらないボロアパートの駐輪場では錆びにくいと謳っていたステンレス製の自転車は見事に鉄臭く赤茶色に錆びついてしまっている。

 そんな相棒と呼ぶには些か心苦しい愛車に跨り、俺はいつも通りに通勤をした。

 ここまでは良い。我が母国"日本国"の平均より少しばかり年収が低めなサラリーマンの日常だ。少しばかりの不幸を嘆いたりする暇などあるはずもなく、かと言って重要な案件を任され多忙を極める程でもない。そんな生活に随分と慣れてしまっている社畜として十年目を迎える俺の不幸はこの後に起こった。

 通勤の際、少し急な坂道がある。朝の通勤ラッシュの時間だというのに人通りは無く、車も走っていない地元の人間ですら早々通りたがらない細道を駆け降りるのが俺の日課であった。まあ、離合もできないような道で対向車なんて来た日には長い睨めっこが続くことは誰しもが知り得ることな為、この通勤の十数年間でも車や人を見かけたことは数える程だった。

 勘違いしてほしくはないので言っておくと、俺は決してスピードを出しすぎたりはしていない。事故を起こして人生を棒に振るリスクを考える頭は持ち合わせて居るつもりだ。━━ただ、その日は厄日だった……。

 いつものように坂をブレーキを掛けながら降りて行っていたのだが、どうしたことかスピードが緩む気配がない。少しばかり強めにブレーキを掛けても変化は見られなかった。

 "ヤバい!"と思った時には時既に遅し。この時ばかりはいい年をした男である俺も慌てる。パニくる。Logicool。なんつって。

 常日頃、右ブレーキの存在する意味を見出せずにいた俺に天罰が下ったのか、消耗され過ぎた左ブレーキは機能停止していた。かと言って右ブレーキを使えば良いじゃないと思うのは間違っている。いや、強情とかではなく。

 既にかなりのスピードを出している自転車。それに下り坂。この状況下で右ブレーキを使うことは自殺行為を意味する。前輪にのみブレーキを掛けた場合接地面は前輪のみ。勿論それで止まるべくもなく行き場を無くした運動エネルギーは斜面ということもあって上へと逃げる。見事な前転を決めるという結果はどうしようもない現実であった。

 それならばこのままのスピードで駆け降りたほうが安全ではないか?俺はその時そう判断した。

 しかし、不幸に不幸が重なることこそが厄日なわけで……。偶然か必然か、突然目の前に猫が飛び出してきたのだ。

 避けれない!と判断する前に俺は反射的に右ブレーキを目一杯押し込んでいた。

 フワッと尻が浮く感覚。ビクッと構えるように俺を見上げる猫と視線が重なる。"良かった、猫は無事だ"と安堵したのは本音だ。

 そうして、俺は長く続く浮遊感を味わいつつも必然的に待ち受ける衝撃に備えるように目を閉じて歯を食いしばっていた━━のだが、一向にその衝撃に見舞われることはなく長々と身体が落下していく感覚を味わい続けていた。

 恐る恐る瞼を開けると、視界には暗闇が広がりその先に光が見えた。その光は遠ざかっていくように大きさを変える。

 いや、遠くなっている。未だに落下を続ける俺と自転車は光の差し込まない暗闇へと落ちてゆく。

 マンホールにでも落ちたとでもいうのか?ここまで不幸が重なればもう笑ってしまいたくなる。人は受け入れがたい状況に面した時、脳が自衛本能として笑ってしまうことがあるということはこういう事なのだろう。

 そんなどうでも良い無駄知識を思い出し、どうしようもない現実に愛想を尽かす。

 嗚呼、もし生まれ変わりがあるとするなら次は女に生まれてみたいと信じてもいない神に祈るように、俺は再び目を閉じた━━。


 目を覚ましたのはあれからどれ程の時が経ったのか……。

 生まれ変わりを望んだ俺に神が与えた奇跡など起こるべくもなかったが、どういうことか俺は生きていた。

 確か俺は通勤途中の薄暗い枯れ葉舞い散る細道で自転車ごと前転してマンホールに落ちたはずなのだが、今いる場所は目に優しい程の緑溢れる大草原。藍より青し空が広がり、吹き付ける風は燦々と照らす太陽の暑さを紛らわしてくれる━━。そんな場所に俺は自転車に跨り地に足を付けていた。

 確認してみると左ブレーキは機能していない。ということは事故は夢や幻ではなく現実だということになる。ならば今のこの状況は一体全体何なのだろう?

 答えなど出るはずもなく、自転車に跨り立ち尽くすことしかできないのが今の俺であった。

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