第20話 「あら。そんなの当然でしょう?」
「お待たせして申し訳ありません。さあ、参りましょうか」
微笑みながら現れた姫君は、赤い薔薇の花束を抱えていた。
ゲーリーが、ほぅ、と目を見張る。
「ちょいと珍しい光景ですな、姫サン。確かローゼンクロゥルから贈られてきたのは薔薇でしたか?」
「えぇ、でもまだ苗ですし、白薔薇らしいので。これはウチの王宮の自前の薔薇ですよ。たまには、と思って」
「ほほー。そらたいしたもんですな」
見事な薔薇、というよりも、むしろ、にこっと笑った王女の可憐さに感心しながら、ゲーリーもヒゲの口元をほころばせた。花や美少女には、見るものを和ませ、自然と笑わせる作用があるような気がする。
今日の王女はそろそろ見慣れてきた白衣姿だったが、そんなことも気にならない。
香りを楽しむように薔薇に顔を近づける彼女は、文句なく絵になった。
結局、味気ない白衣だろうと、無骨な軍服だろうと、着る者次第だな、と、王女に並んで黙然と立っている主人を見ながら思ったりもする。
(……にしたって、大将……せっかくなんですから、似合ってますよとか綺麗ですねとかそーゆう一言があってもいいでしょーに)
ゲーリーの経験上、一般に花というのは女性にとっては妙に特別なものなので、一言褒めるとなぜか喜ばれるのだった。
が、まぁ……。
「摘んだだけじゃ勿体ないから、薬剤として薔薇油でも精製しようかなぁ。これだけじゃほんの少ししか抽出できませんけど」
なんて呟いている王女には、一般的経験論はむなしいだけかもしれない。
そのまま連れ立って、目的の方向に歩き始める。
「アルフ皇子にも一輪差し上げましょうか?」
黒服の胸元を指しながら王女が言うと、皇子は苦笑して首を振った。
「いや……いい。俺の柄じゃない」
「そうですか? 黒に赤は合うんだけどな……わたしの好きな色ですよ」
と、くすくす笑う王女は、なんとなく打ち解けてきたような気がゲーリーにはする。
もちろん、この姫君は元から人見知りなんてしてはいなかったが、どこか警戒するような距離感が感じられていたのが、薄れたようだ。
ゲーリー自身の心情の変化のせいもあるかもしれないが、
「でもお小さい頃は宮殿にいらっしゃったんでしょう? 花摘みくらいしたことありません?」
なんてことも聞くようになったのは、明らかに皇子個人にも興味が出てきたってことじゃないだろうか。
(ま、あの白い皇子サンもご同様なのはアレだが……いい雰囲気になってきたよな)と、ゲーリーはちょっと嬉しくなった。
……のだが。
「それは……ないわけでもないが。……マルレーネにはいつも呆れられていたな。手つきがなっていないと」
…………。
(って大将! ココでそんな元婚約者の名前を出しますか!?)
一瞬後には、主のあまりの朴念仁っぷりにめまいがした。
信じられない。
これから口説こうって女の前で、昔の女の話をするか?
(んなこたぁどう考えても厳禁ですって! 基本でしょ基本!!)
……まぁ、ある意味、国家間の婚約話をこのレベルに考えられる彼の思考も、なかなかたいしたものなのだが。
「あぁ、その頃からの付き合いなんですか。皇家ともなれば家同士のつながりで、幼馴染なのはよくあるパターンかな」
と、軽く言う王女の思考も、ゲーリーには常識外だった。
「フェアヴィラング侯爵家。……確か、シュバルツコゥルの元有力貴族でしたね……お母様つながりのご縁だったんですか?」
「まあ……そんなところだ」
「皇子とのご婚約を決めたのは皇后? 前皇ですか? それとも……」
「一応、母上だ」
(…………王族皇族ってのぁ、オレみたいな庶民とはアタマの構造が違うのかもしれねぇ……)
平然とかわされる会話に、ゲーリーは異次元を垣間見たような気持ちがした。
仮にも婚約者候補である男の、昔の婚約については平然と話すくせに、
「ふぅん……」と、ここで思案顔になるユミルのツボも良く分からない。
一方で、主の皇子ほうは、少し異なった物思いをしていたようだ。
「左手では力を込めすぎるから、花は右で摘むくらいがちょうどいいだろうなんて言われたな。……もう、今はその手もないが」
静かな口調ではあったが、右腕に視線を落としてほんのわずか翳った目は、懐かしむというには痛々しい光を宿していて。
(……大将……)
それは過ぎ去った過去への哀悼だろう。
いつごろのことを。
なんのために。
誰のために。
悼んでいるか、なんて。――長い付き合いの従者には、分かりすぎるほど分かってしまう。
その頃には自分だって、希望に輝く主人の下で、幸福であったのだから。
(くそぉ……)
こんな目をさせる原因となった存在が、ひどく忌々しくて、ゲーリーはハラワタが煮えそうだった。
と、そのとき。
「あら。そんなの当然でしょう?」
水のような、平静な声がした。
王女は、むしろきょとんとしている。
「そんなの、誰だってそうですよ?」
「は? あの……姫サン?」
「人間の細胞の代謝は、表皮なら1ヶ月そこそこ、腕ごとだって数ヶ月で進みます。――まして子供の頃なら、骨が全部入れ替わるのだって、4年もかかりませんよ」
「……へ?」
一体彼女は……何を言っているのだろうか。
「人身であるならば、どんな人だって、10年以上も同じ腕を使い続けるなんてことはない、ってコトです。皇子だけが特別ってことはありません」
「…………」
カッとなった頭に冷水をぶっ掛けられたような気分で、なんとなく主をうかがうと。
黒髪の下で彼は――虚をつかれた、という顔をしていた。
……珍しい……はずなのだが、この国に来て以来、妙に頻繁に見せられている表情だ。
「あえて特別だというのなら……普通は、勝手に起こるだけの生理現象が、皇子の右腕の場合は、人為によるってことでしょうか。それをなすだけの技術と、それから――意志」
呟くように低く言ってから上向いた王女は、打って変わった真摯な眼差しを、皇子に向けた。
「片腕をなくしたというそのことが、容易だとは、わたしも思いません。
けれど――大公を奉じるカーディフとして、あえて言いましょう。腕だろうと、足だろうと、喪い、そして再び得た、その理由があるはずです」
――煉獄の大公は、自らの意志で、弟子の6人に、その身体を分け与えた。別れの証しに。
「わたしは確かにその理由を知りません。けれど、なくしたのはともかく、再び鋼の腕を得たのは皇子の意志ではないんですか?」
答えは、なかった。
ユミルは気にせずに、『それ』に片手で触れる。服の上からでも、分かる、しっかりした質感。
「……皇子がいじわるで、あまり見せていただけてませんけれど。でも分かりますわ、とっても凄い技術です。ひとつの意志を可能にするのは、た易く、そして難しいもの。――貴方の理由を可能にした技術者を、わたしは尊敬しますわ。
幸運でしたね、皇子。こんな腕が手に入って」
撫でるようにそっと指を滑らせてから、ユミルは手を離し、くるりと身を翻した。
「さ、では行きましょうか」
そのままナニゴトもなかったかのように、軽やかに歩き出す。
それを思わず数秒ぼんやりと見送ってしまって、慌てて主人に振り返る。
――と。
「……ふっ」
皇子は、ため息のような笑いを漏らした。
「たまらないな……あの姫君は、妙に核心を突く」
その顔は、苦笑に近かったものの、妙な晴れやかさを感じさせるもので――。
それこそ、ここのところずっとお目にかかっていなかった表情だ。
「理由、か――そんなものはずっと前から、決まりきっているのにな」
言って、左手で右肩を軽く掴む。
黒い瞳は、その一瞬だけ、確かにかげりや迷いを消し払ったようだ。
「詮無い愚痴だった。すまない。――行こう」
しっかりした足取りで王女の後を歩き出した主人を、ゲーリーは「は、はい、そうですな」と慌てて追う。
……一抹の、不安は消えない。
彼の『理由』が何であるか、よく知っているから。
けれど、それでも。
ゲーリーは嬉しかった。
改めて、やはり、あの王女サマは――イイ。実に、いい。
(だってなぁ……あの話を聞いて、同情どころか、『皇子だけが特別ってことはありません』で『幸運でしたね』……だぞ?)
王族だから、なのか、魔女ゆえか……それとも単に、彼女の個性というものか。(多分三番目だと思うが)
ちょっと信じられないぶっとんだ発想だ。本当に頭の構造が違うのかもしれない。
でも……もし、皇子の腕を見ても動じるどころか嬉しげに寄って来た数日前の朝のように。
あの発想で、皇子の悲嘆も、自分の憤激も、国のしがらみも、吹き飛ばしてくれるのなら――。
(オレぁ、魔女に魂を売ってもいいかもしれん)
これはなんとしてもくっつけるしかあるまい、と、中年従者が似合わないキューピッド役を決意した瞬間だった。
* * *
王族用の厩舎に3人が近付くと、6,7歳くらいの小さな子供が、ぱっと赤い頬を輝かせて走ってきた。
腕に、黒い猫を抱えている。
「わぁい! 姫さまぁ!」
粗末で泥だらけのかっこうでしがみつかれても、白衣姿の王女は気にする様子もない。
つぶされるのを厭ったように、黒猫はするっと子供の腕から逃れた。
「元気そうね、ニール。……ルナー、ここにいたんだ」
なぁ、と鳴く猫のことはすでに眼中にないらしい子供は、夢中でユミルの手を引いた。
「来て来て! すごいのぉ。とぉってもかわいいんだから! 東の国のお馬さん♪」
アイゼナフトからの贈品は、仔馬だった。
平坦地の少ないアイゼナフトだが、農耕地にできるほどの肥えた土地が少ないことは、かえって畜産を盛んにした。
元は野草を使っての素朴な畜産業が営まれていたのだが、東の地に続いた騒乱が、軍馬の需要を爆発的に拡大することになる。
また、北東部の騎馬民族が支配していた草原地帯が国土に組み込まれるにつれ、良馬の産地としての名声を確立。
肥沃な平地を駆け巡って育つローゼンクロゥル産馬に比べて、山地もものともしない頑健なアイゼナフト産馬は山間部でも人気が高い。
ことに、双刀の黒皇子の愛馬「黒雷号」は、現代を代表する名馬として名高く、血のような汗をかく、だの、日に千里を走る、だのの逸話を数多く持っている。
今回のアルフ皇子の訪問で、彼が黒馬に乗ってこなかったことは、一部マニアに死ぬほどの落胆を招いたとかなんとか。
「ゆーめーな黒い子がこなかったのは、おじーちゃんも残念がってたんだけど。ね、この子も、とってもかわいいでしょ?」
ユミルを厩舎に連れて行った子供は、自慢げに栗毛の仔馬を見せる。ユミルの足元では黒猫が退屈そうに侍っていた。
「そうね……たてがみと尾が白いのは、尾花栗毛っていうんだっけ?」
「うん、そぉだよ!」
確かに美しい馬体の、健康そうな仔馬だ。きっとよく走るだろう。
あまり乗馬は得意じゃないけど。夜会でこぼした言葉を覚えられてたのかな、なんてユミルは思う。
あれから用意してもギリギリで送ってこられる日数だと思うが。
「まっ黒いおめめがすてきなの。そっちのお兄ちゃんみたい!」
「……お褒めに預かり光栄だ」
指名を受けて、アルフ皇子が若干複雑そうに礼を述べる。
ユミルとゲーリーは忍び声で笑った。
「えへへ~。でね、おじーちゃんが、姫さまが許してくださったら、このお馬さんはニーもおせわ手伝っていいって!」
期待にきらきら輝く目でユミルを見上げる。
ユミルは子供の頬をちょん、とつついて、にっこり笑った。
「そうね、じゃあお願いするわ。ニール。このお馬さんをよろしくね」
元より、馬丁長であるニールの祖父が可能だと考えたなら、反対する気はまったくない。
「ぃやったぁああ!」
ニールは両腕を天に向けて両足で飛び上がった。
そのまま厩舎の裏手に走っていく。
「おじーちゃん! おじーちゃん! 姫さまがねぇ、いいって!」
ユミルたちは微笑ましくその後を追う。黒猫は最後尾でのんびり尾を振りながらついていった。
初老の馬丁は、厩舎の裏手で、用具を洗いながら誰かと話しこんでいた。その足元に飛びつくニール。
「おじーちゃん! 姫さまが許してくれたよぉ!」
「こら、静かにしねぇか、お客さんの前でよぉ――おっと、姫さま、来てらしたのか。こりゃすまねぇ」
のん気にアタマを掻きながら謝る馬丁。
セシルを仰天させたヒュールバーグの『お国柄』はここでも健在だったが、新興国アイゼナフトの、それも軍部に籍を置いていた主従は気にした様子はない。
「ううん、仕事中でしょう。別にかまわない。で――お客様って――」
と、彼が話し込んでいた相手に目を向ける。
それは、妙齢の――と、いうにはいささかトウが立っているかもしれないが、美しい女性だった。
紫紺の髪がしどけなく流れ、きわどいラインの黒いドレスに白い肌が艶かしい。
先日ゲーリーが宙に描いた8の字型を、見事に実現している体型だ。
少し眠そうな目が、なんとも色っぽかった。ゲーリーなどは思わず口笛を吹いたくらいだ。
それにちらりと流し目で応えてから、美女はユミルに向き直った。
ユミルの足元からするりと抜け出した黒猫が、ぱっとその腕に飛びつく。
そのまま猫を片手で抱え上げて、彼女はもう一方の手を軽く上げた。
「――ハァイ、久しぶりね、ユミル。ルナーも」
少しかすれたハスキーな声も、彼女には相応しい。
黒猫がナァ、と甘えたように鳴いて腕に身を摺り寄せ、
「――レェナ!」
ユミルは、ぱっと顔を輝かせて美女に飛びついた。
さきほど、ニールがユミルを見つけたとき以上の反応かもしれない。
馬丁長とニールは、不思議そうに2人を見比べた。
「その方ぁ、あの仔馬を運んできなすったご使者ん中の、馬の世話やってたヒトらしいんですがね……お知り合いですか?」
「ええ! そうなの! 本当、久しぶり――そっか、レェナは東のほうにいたんだ」
「まぁね、なんだか面白そうなことになってるみたいだし――満月も近いからね、来てみちゃった。リィノにも会おうと思って」
「うん、そうして! 母さんも喜ぶわ。わたしも嬉しい。……しばらくいてくれるの?」
「そうね、あんたの結婚話なんて茶番が片付くまでくらいは」
「あはは、茶番はヒドイなぁ、もう。じゃあ滞在中は……そうだな、庭園の東に、母さんが使ってた東屋があるのよ。王宮がいやだったら、山の家もまだ残ってると思うし――」
「そーねぇ、どうしよっかな……街ン中でもいいし……」
すっかり盛り上がってる女性2人の話に付いていけず。
アルフとゲーリー、馬丁長とその孫は、「これは一体なにごと?」と視線を交し合った。
それぞれの身長が随分ばらばらだったので、交わされた視線のラインはかなりでこぼこしたものになったが……。
そのどれにも、これという答えは書いていなかったのである。




