第21話 「あたしはどーも不満なのよねぇ」
ヘビに睨まれたカエル、という言葉が凍りついた脳髄に響き渡った。
……もう、いい。自分はヒキガエルでいい。魔女の眷属だろーが構わない。
ただ一点。
その魔女、が――あの、愛した女であるならば。
今、目の前にいる女性も、確かにヒトに言わせれば、亡妻に劣らず美しいかもしれない。
妻の燃える炎そのままだった髪とは、対照的な落ち着いた紫紺の髪。
かすかにあごを上げてこちらをさも可笑しげに見下すその目つきでさえ、とろけそうな色香がただよう。
黒い服からこぼれそうな白く豊かな胸や、裾のスリットからのぞく扇情的な脚線は、華奢な骨格の妻がついぞ備えなかったもので、多くの男性の目を惹き付ける事だろう。
実際、その膝の上に当然のように丸くなっている黒猫は、琥珀色の目を細めてうっとりしているようだ。
女性が同席を希望した、白衣と黒衣の2人の皇子は、興味深そうに、または、困惑をたたえて彼女とこちらをうかがっているが……これは彼らの節度と男性としての余裕がなせる業かもしれない。
自分などは、確か、初めて見たときは、まあ……そういう部分から目が離せなくなって……妻に殴られたんだった。
そのことを思い出すと、殴られた痛みよりも、何も知らなかった幸福な自分への同情で、未だに目じりに涙がにじみそーだ。
「お。おひ」
いかん、声が裏返る。
「お久しぶり、ですなぁ」
かろうじて愛想笑いを浮かべた彼に、女は優艶に笑う。
「そうねぇ、久しぶりに会ったわねぇ。ま、アナタには久しいどころか、永劫お会いできなくても、微塵の痛痒も感じないけどね」
……これだ……。形ばかりの礼容さえ作ってくれない。彼の肩書きなど、彼女の前ではそれこそチリに等しい。
それでも彼は、妻子に鍛えられた忍耐にすがって、必死に食い下がった。
「ご、ご壮健の様子。何よりで……」
「ほほほ。可愛い親友をだまくらかしたドコかのバカ者がいなかったら、多分今ごろ、身体とともに、心もどれほど健やかだったでしょーね」
あぁもう。
国王は、心中悲鳴を上げつつ天に、というより、もう少し頼りになりそうなものに祈った。
(助けておくれ……リィノ……ユミル)
だが。あいにく。ひとりはすでにこの場にいない故人であり。
もうひとりは、午前中のこの時間、魔術院に行っていたんである。
* * *
「なんだか随分ご機嫌ね、ユミル」
ソニアに声をかけられて、ユミルはメガネの向こうから、珍しく浮かれた笑顔を見せた。
「分かる?」
「分かるわよ。何? 卒業認定用の論文が通りそうなの? それとも、例の話にイイ進展でも?」
廊下で歩きながら、くるっと回って見せたユミルは、
「ふふふ~。違うわ、そんなことじゃないのよ」
魔術院生にとっては一大事であろう事柄も、女性にとっては一生の問題であろう婚約話も、「そんなこと」でくくっておいて、
「久しぶりに親しい人が、わたしを訪ねてきてくれたの♪」
……こんな浮わついた彼女を見るのは大変珍しいことだ。
「し、親しいって……」
「母の友人なのよ。わたしのこともずっと前から知っててくれてる人。昨日は思わず一晩語り合っちゃった」
「母の友人、ねぇ……」と反復しておいて、ソニアは気付く。
「――ん? ちょっと……待ってよ……」
ユミルの身分も知っている彼女は、もちろん知っている。ユミルの母、といえば――。
「ちょ、それってまさか……正統の――ッ」
言いかけて、気付く。ここは人目もある廊下だった。
「……た、例えば魔術院長が土下座してでもココに招きたいと思うようなヒトじゃないの!?」
声をひそめる彼女に、ユミルはにまぁっと笑う。
「無理よ、土下座されたってあの人は来ない。自分の行きたいところにしか行かないし、自分の会いたい人にしか会わない。……そういう人だもの」
* * *
さて。応接間の前の廊下を、気がかりそうに物陰から、ひとりの娘がうかがっていた。
掃除用具を抱えているのは、女官長に見咎められたときの言い訳のつもりだ。
が。
「よう、どーしたい、お嬢ちゃん?」
「ひゃっ!?」
「……っと、脅かしちまったか、悪かったな」
「げ、ゲーリーさんっ……あぁ、セシル君も……」
「こんにちは」
背後から声をかけてきたのは、王と女性とともに応接間にいるはずの、2人の皇子の従者たちだった。
中年の男性は、からりと笑いながらシアの肩を軽く叩いて謝ってくる。
少年の方は、そこらの美少女がはだしで逃げ出すような顔で、にっこり笑った。
「応接間が……気になるんですか?」
「え、えぇ……そうなんですよぅ。やっぱり……」
従者たちもそうだったのだろう。
もっともな話だ。昨日唐突に来訪した美女は、そのままユミルと庭園にある東屋に一晩こもっていたかと思うと、今朝になってから、王と2人の皇子とちょっと話がしたいと言ってきたのだ。
彼らには……いや、皇子たちにも、まだ彼女が誰か分かっていない。
「一体、あのイイ女ぁ何者なんだ?」
「今朝ちょっとお会いしただけですが、本当に、綺麗な人ですね……それにずいぶん、姫君と親しそうでした」
「……アタシも、ほんの数回しかお会いしたことはないんですが……」
シアは、きゅっと水桶の柄を掴む手に力を込める。
ほんの数回だろうと、その印象は鮮烈だ。あの容貌、美しい紫紺の髪。
ユミルに教えてもらった、彼女の名は――。
「レェナ=ファディエル様……『左足』の魔女ですぅ」
名乗った美女に、さすがに2人の皇子も驚いたようだ。
その視線が、思わず組まれた脚に集中したのも無理はないだろうが――そこにあるのは、ただの(というには、あまりに美しく魅惑的な形状ではあったが)白い脚だ。
慣れた反応らしく、魔女はからりと笑う。
「ふふ、『左足』の魔女だろうと、別に見た目にも明らかにおかしなものが接合されてるわけではないわ。霊視的な位相で顕現させることもできるけど……あたしはあまり見せるの好きじゃないから、ダメ~」
「いえ――これは、失礼を。思わず、驚いてしまって」
そつなく頭を下げたのは、やはり聖皇子だ。
「ですが、お目にかかれて光栄です。……そうですか、正統の六魔女は、お互いに交流があるものなのですね」
「あら? 白い皇子サマは魔女に興味がおあり?」
レェナがにやりと笑うと、レヴィン皇子はさらりと絹の感触のしそうな微笑を返す。
「それはもちろん、妻にと望む、愛しい小さな人に関することならば、何でも知りたいですよ」
「~~っ……あはははははっ」
魔女は、突然吹き出した。身をくの字に折って、柔らかそうな自分の太ももを、遠慮なくばしばし叩く。
「~~っかし~! いや~、ナイス! 皇子サマ、イカすわ! 神の徒にしとくのはもったいないわ」
「それは……どうも。褒められたと思っていいんでしょうか」
「もちろんよ。だから質問にも答えましょう。……六魔女の間には、さして太いつながりはもはやない。姉妹と呼び習わすのは未だに健在だけれど、お互い好きなようにしているというところ。
――もっとも」
目に浮いた涙を拭きながら、レェナの声が不吉に低くなった。
「現在、『カーディフ』は更に立場が微妙かもしれないわ。個人主義の右手はユミルのことなんか見向きもしないし、篭もり癖のある右足は行方知れずだし。それに――あんのクソババァはまだガンコに『たかが王族、一介の人間ごときの前に跪いた魔女なぞ、もはや魔女足りえぬ』とかほざいてやがるしねぇ……」
ぎらり、と光った目は……必ずしも笑い涙で濡れたせいではないだろう。
その視線の先で、国王は一瞬ぴくり、と震えたきり、動かなくなった。
「陛下のこともちょっと心配なんですよねぇ」
廊下では、水桶を抱えたまま、シアが2人の従者を相手に話を続けている。
「実は、魔女の間ではちょっと……姫が仰るには『カーディフは今、村八分状態なのよ』だそーなんですよぅ」
なんといっても、煉獄の大公以外に膝を曲げないという魔女が公然と人間に跪いたのだ。
大公を信奉する魔女の中に、それを非難する者もいて、ユミルのことも後継者として承認されかねているのが実情だという。
それだけのことだったからこそ、リィノの行為はほとんど伝説になっているわけなのだが。
「レェナ様はリィノ様と親しい友人同士だったそうで。
姫のこともとっても可愛がって下さってるので、それが気に入らないんですね」
なるほど、それはそうだろうな、と、ゲーリーは昨日見たユミルとレェナの様子を思い出して納得する。
セシルも、魔女の世界にも色々と、彼らなりの筋や取り決めがあるのだな、と思った。
が……続く侍女の言葉には、そんな納得など吹き飛んで、2人して唖然とする他ない。
「……なにしろ、あの方が初めてこの国にいらっしゃったときの目的は……陛下を殺すことだったそうですから」
かつての恐怖はいまだに身体からも心からも去らず、王は自分の全てが停止するのが分かった。
呼吸から、思考まで。
――だが……。
先に視線を外したのは、「ヘビ」のほうだった。
「……まぁ、いい。リィノに、あまりあのヒトを苛めないでね、なんて言われてしまったし。ユミルにも釘を刺されたしね。リィノときたら、自分で決めてことは、あたしにだって口出しを許さないんだから。
そこが好きだったけれど、ユミルにもきっちり受け継がれているのを見ると、今でもときどき腹立たしいわ」
『殺す』などという物騒な単語を聞いて、顔色を変えて応接間に向かおうとする2人の従者を、シアは慌てて呼び止めた。
「あ、でも、多分、大丈夫だと思いますぅ。レェナ様は、リィノ様や姫の意思を大事にされるもの。とりなしがあれば、王にも殿下たちにも、危害は加えませんよぅ」
「と、とりなしがあれば、でしょう!?」
「あったに違いないですよぅ。絶対」
水桶を提げながら胸を張られても、セシルは今ひとつ不安だ。
「姫は、なんだかんだ言って、皇子殿下たちのことをお認めになってるもの。それに……自分の立場も周囲の状況も分かっている方です」
きっぱりと言い切られれば、確かに、思い浮かぶのは、あの姫君の、聡明な微笑と冷静な語り口で……。
「両殿下に何かあったらどうなるか、とか、レェナ様のおつもりとか、そんなの全部知ってて、ちゃんと何もしちゃダメって言ってありますよぉ」
「……信頼、してるんだな」
少し肩の力を抜いてゲーリーが言うと、シアはにっこり頷く。
「もちろんですぅ! ……理性の部分については」
「…………」
確かに、情感の部分については……信頼、というか……諦めらしきものを感じなくもない。
「――でも、それにしてはこんなところで様子をうかがってるんですね」
まだ不安が去らないらしいセシルがそう言うと、シアは照れたようにえへへ、と笑った。
「それはですねぇ、他にちょっと気になることが……」
「ほ、他にまだ何かあるんですか……!?」
「なんていうんですか、ほら、職業病っていうんですかねぇ……」
侍女は、わきわき、と片手で何かを掴むような仕草をする。
「――あの髪が! 目に焼きついて離れないんですよぅ!」
「………は?」
「姫のふわふわした金髪とはまた違った、あの艶! コシ! 色! とかしたらどんな手触りかとか、どんな飾りが似合うかとか、もう昨日からそればっかり考えてしまって!あぁ~~一度いじってみたい結ってみたい飾り立てたい~~!」
廊下で侍女がもだえているとも知らず、レェナはその紫紺の髪をかき上げて脚を組みなおすと、もう一人の皇子に笑いかけた。
「――で? 黒い皇子サマの方は、魔女にはあまり関心はないかな?」
気分を転換するのが早いこと。
がらりと声の調子を明るくして尋ねる魔女に、アルフは無表情のまま少し目を伏せた。
「……お恥ずかしい話だが、寡聞にして魔術伝承についてはほとんど知らない。六魔女についても、先日調べたような有様で、戸惑いのほうが先にたつ。……申し訳ない」
率直な言葉はむしろ耳に心地よく、レェナはにっこり微笑んだ。
「まぁ、あちらの国情からすれば当然そうでしょうね。でも――こう言えば、少なくともカーディフに興味がわくんじゃなくて? カーディフの『使霊』は……元々は、大公がお降しになった精霊よ」
反応は顕著だった。……あくまで黒皇子にしては、ということだが。
彼は、軽く目を見開くと、かすかに上ずった(と聞き分けられるものは、少ないに違いないが)驚きの声を発した。
「精霊……善き人々か!?」
心持ち、長身を乗り出した彼に、魔女は満足げに頷く。
「あぁ、それはまた随分古き呼び名。……そういえば、精霊信仰のシュバルツコゥルには、まだその言葉も残っていたわね。――それももう消えるばかりだけど」
むろん、元々は、の話であって、今はその存在の本質は全く違う。ゆえに呼び名も変わるのだ。
魔人が支配下においているときは、敬意を込めて英霊、人の支配下に下ったものは、もう少し落ちて使霊と。
「興味があるなら頼んで見せてもらえばいい。でも、あの子はあまり出したがらないから無理かな」
レェナは軽く言って、椅子に背を預けて身をくつろげた。
「なるほどねぇ、これならリィノが『割と掘り出し物』なんて言ったのも分からなくもない。少なくとも容貌はどっちも文句つけよーがないしねぇ。ソコだけは、その貧相な男と違うと認めるわ。けど……あたしはどーも不満なのよねぇ。ナニがといって、全体に気に食わない」
「全体に……ですか?」
固まっている国王でもなく、無口に何か考え込んでいるらしい黒皇子でもなく、とりあえず口を開くのはレヴィンだ。
「そうよ、全部。……ユミルが楽しんでいなかったら、こんなバカげた茶番から、あの子をとっととさらって行きたいくらい」
「それは困りますよ」
「そうね、アナタの事情があるでしょうからね」
神聖皇国中の乙女を魅了した微笑を、魔女は鼻であしらった。
「その黒い皇子サマの都合も、そこのタヌキの思惑も含めて、それが何かなんてあたしにはどうでもいい。世の権力者が必死になる俗事なんて、本来魔女にはかかわりのないこと」
だが……ユミルは、ファディエルとして承認したカーディフの後継であり、なにより親友の忘れ形見だ。
それが利用されているようなのは、魔女として非常に不快だし、誰もが平気であの子にあれこれ背負わせようとするのには、個人的心情として我慢ならない。
――少なくともレェナにとっては、ユミルはいまだ可愛く幼い少女だ。
父親だとかゆうにっくき小男よりもつきあいは長く、赤子の頃から知っているのだ。
魔女としての才能と、その萌芽を認めてはいても、時折、無性に甘やかして、もう止めなさいよと言ってやりたくなる。
もういいじゃないの、と。
だが、そのたびにユミルは笑って言うのだ。大丈夫、これが楽しいのだ、自分で選んだことだ、って。
(……まったく。母子そろって)
あの子は、平気で随分たくさんのものを背負っている。
笑いながら、ひょいひょいと自分の背の荷に加えてしまうのだ。
それでいて……その、組み合わされた重みを楽しんでいる。
(あんな小さい背中なのにねぇ)
「けど……それが、あの子の意志なら、あたしは尊重するしかない。でもねぇ――覚えておきなさい」
だから、仕方ない。
自分にできることは、せいぜいが品定めと称して夫候補とやらに会って、ちょいと嫌味を言っておくくらいのことなのだ。
「かつて大公は、カーディフに右目ではなく英霊を賜ったわ。
『人間の女というものは、魔術によらずとも魅了の力を備えている』――と」
一瞬の視線や、ちょっと組みかえられた脚、風に流れる髪、そんな程度のものが、時として魔術よりも強力に異性の心を捕らえる。
もとより女には魅了の右目は必要ないのだから、他のものを、と与えられたのが英霊だ。
「未だ幼くとも、あれは紛れもなく赤黒の魔女の娘であり……女よ。あなた達が影で何を画策しようとそんなことはどうでもいいけれど――あまり甘く見ていると、足元をすくわれるわよ?」




