羽田家のおでん
わたしは玄関で靴を脱ぎ、急いで洗面所に向かった。
こんな動揺しきっている顔を母に見られたくない。見られたら、いったいどんなことを言われるか。
「……あー、からかわれたくない!」
絶対なにか言われる。絶対そうに決まってる。
だってわたしは十年間、ずっと「腑抜け」になっていて、家族みんなを困らせてきたのだから。いろんなことに興味を無くしやる気を無くし、ただただ生きてきただけだった。
当然、そうなった原因もみんな知っている。
桃花先生が亡くなって、青司くんが引っ越していって、あの川向こうの家に誰もいなくなってしまった。
それが原因だってわかっているから……。
だからきっと、母はバイトから帰ってきたわたしにイの一番で知らようとしたんだ。
玄関口にいたのは偶然じゃない。
「はあ。草むしりだなんて……もうちょいマシな嘘つけばいいのに。お母さんたら……」
夕方に草むしりなんて変だなって思ってたけど、やっぱりあれはわたしのためにあそこで待ち伏せていたのか。ほんと、素直じゃない。
やれやれと思いながら、洗面所でお化粧を落とす。
「ふう……」
洗い終わって、鏡の中の顔を見つめていると、あらためて平凡な自分の容姿に嫌気がさす。バイト終わりだからか、青司くん同様疲れがはっきりと出ている。セミロングの髪も少しぼさっとなっていたし、メイクも今日はマスカラするのを忘れていた。
ああもっと、マシな恰好で会いたかったな。青司くんに。
なんせ十年ぶりに会えたんだから。
でもあんな風に急に知らされたら、準備し直すヒマなんてなかった。
だって、ずっと会いたくて会いたくて。渇望しつづけていんだから。
「真白ー、帰ってきたのー?」
「……はーい」
キッチンの方から聞こえてくる母の声に、気のない返事をする。
「今日はおでんよー。早く来なさーい」
「はーい!」
二回目は少し大きな声で返した。
この家にはあと父と弟がいるのだけど、父はいつも帰りが遅くて、弟は月に一回帰ってくればいい方だ。今あの子は東京の大学に通っている。向こうで一人暮らしをしているけれど、いずれはわたしの友人たちのようにあっちで仕事も見つけるつもりなのだろう。
一人で、寂しくないのだろうか。
わたしは……寂しい。
自分の周りから誰かがいなくなるのは。
もう一度鏡の中のわたしを見つめる。
ねこっ毛の細い髪。それが耳のちょうど下あたりまで伸びている。色は昔から染めてないのにやや茶色みがかっている。目は化粧をすればわりと可愛い。でもマスカラをしないと、元のまつげは貧相だった。鼻もそれほど高くないし、唇も薄くって女優さんみたいに口紅が似合うようなぷっくりとした唇がうらやましい。
まあ……ないものねだりは良くない。
あるものを少しの工夫で良く見せられればいい。
この顔を可愛く見せたい人なんて、青司くん以外にはあまりいなかったから今までそんな風にしか思ってこなかった。
でも今日は……違った。青司くんは今日のわたしを見てどう思っただろう。
素敵な男性になった青司くんと違って、わたしは……。
幻滅されただろうか。
昔のまま何も変わってないって。それとも、昔よりブスになったって思っただろうか。
怖い。
待ち望んでた人がまた戻ってきたのに。
もう一度恋をしても、うまくいかないかもしれない……そう思ったら怖くなってきた。
だって昔から、青司くんがわたしのことを好きなのかはよくわからなかったから。いつも自信がなかった。わたしばっかり大好きで。
だから、今度も……。
「ううん……!」
わたしは鏡の中のわたしに向かって首を振った。
とりあえず、仕事仲間としては必要とされたのだ。そう。それだけは確かなことだ。だから、あまり悲観的になりすぎてはいけない。
わたしは洗った顔をタオルでふくと、ダイニングへ向かった。
母が笑顔で出迎える。
「さー、もうできてるわよー。早く座って座って」
「うん……。あ、これ青司くんにもらった。はい」
「え? なにこれ。ケーキじゃない!」
「そう。ご家族にって。わたしはもうあっちでいただいたから」
「へえ~。……まあまあ」
青司君にもらったケーキを母に渡すと、案の定ニヤニヤされた。
わたしはそれを無視してテーブルに着く。
ケーキをしまうために母は一旦キッチンに戻ったが、すぐに大きな金色の鍋を代わりに持ってきた。中央の鍋敷きの上にそれをドンと置く。
そしてもったいぶりながら蓋を開けると――。
中からは、透明なだし汁に浸かった大根や、ちくわ、昆布、こんにゃく、ゆでたまご、ちくわぶ、それからウインナーなどが現れた。
目の前にはすでにご飯とお箸、それから中くらいの取り皿と、からしのチューブがある。
「さ、どうぞ。召し上がれー」
「はーい。いただきまーす」
母の合図とともに、わたしはさっそくお箸を取る。
でも鍋の中にお玉が入っていたので、わたしはそれで具をすくうことにした。
選び終わると、ハイと母にバトンタッチ。
「はふ……」
最初は大好きなちくわぶからいってみた。
甘いケーキの後だったけど、だからこそ適度なしょっぱさが身に染みる。
だしがよく効いている。
ちょっとからしをつけるとまた美味しい。
「は~、美味しい~」
じんわりとした温かさに感じ入っていると、母がじっとわたしを見つめていた。
「なに?」
「いや~、帰ってくるのが遅かったわねえ、と思って。ま、いろいろ積もる話があったんでしょうけど」
「あー。まあ、うん……」
きた。
きっとここから怒涛の母の追及が始まるはずだ。わたしはひそかに覚悟する。
けど、母は以外にも変化球を投げてきた。
「どうせなら、夕飯に誘っちゃえばよかったのに~」
「えっ?」
「ちょうど今日はうち、おでんだったしさ。うちじゃなくても、ふたりで外で食べて来たっていいじゃない? だって青司くん、一人暮らしなわけでしょう……? 今はきっと、ひとりで悲しくお夕飯作ってるわ。たいへーん。引っ越し当日は疲れてるでしょうに……」
「そ……んなこと。全然思いつきもしなかったよ……」
「もう、ぼんやりしてるんだから。この子は」
「それどころじゃ……なかったんだよ……」
「でしょうねえ」
もぐもぐと、そんなことを言いながらわたしたちはおでんを食べる。
ひたすらもぐもぐ、もぐもぐと。
「でも良かったわね、真白」
「え?」
「また会えてさ」
「あー、まあ……ね。複雑だけど」
「複雑って? なにがよ」
「いや、青司くんさ、画家になったんだって。外国で」
「え?」
「イギリス……だったかな。あっちに行ったから連絡がつかなくなってたんだって。だから、今までごめんって謝られた」
わたしはそうして、ひとしきり青司くんから聞いた話を母にも話した。
どうせ隠したって、後でまた根ほり葉ほり訊かれるんだ。だったら一度に済ませてしまった方がいい。
というか、実はわたしの方も話を聞いて欲しいという気持ちが、多少なりともあった。
嵐のように吹き荒れているこの感情をどうにかしたい。だから、ある意味母から水を向けられて助かっていた。
ほんとに、母は話のきっかけづくりが上手い。というかかなりの聞き上手だ。
母にひとしきり説明すると、わたしはちょっと落ち着いてきた。
「へえ……アトリエ兼喫茶店、ねえ。まあ、この辺に喫茶店ないからいいんじゃない? みんな会合とかは公民館か、遠い喫茶店しか使ってなかったしねえ。でも……あんたが真っ先に勧誘されるなんてね」
「そうなの。わたし今、別のバイトしてるし、手伝いたい気持ちはあるんだけど……」
「ふーん。まあ、これからどうなるにせよ、あんた……もう後悔だけしないようにしなさいよ」
「えっ……?」
ちょうどこんにゃくをパクついていたわたしは、ハッとして母を見た。
いつになく真剣な表情をしている。
「もう、あの時こうしておけば良かったなんて……後悔しないでよね。だから、よく考えて決めなさい」
「……う、うん」
「人生って、わりととりかえしがつかないことってたくさんあるんだから」
「わ、わかってるよ!」
「なんだっけ? チャンスの神様は前髪しかない、だっけ。もたもたしていると通り過ぎて、いざ掴もうと思っても後ろはつるつるだからつかめない、とかなんとか。って知ってた、真白?」
「青司くんは……ハゲじゃないよ」
「あははは……! まあ青司くんは、ずいぶんと男前に成長したからねえ。そうよね、大丈夫よね、フフフフフ」
「……」
なんかもうそれ以上母についていけず、わたしは何も反応しないことに決めた。
でも、さっきからわたしを見てずーっとニコニコしている。
あーもう。なんなんだ! そんなに見られたら、おでんが食べづらいったらありゃしない。とっても美味しいのに、とっても美味しいのに……なんだか胸がつかえてうまく飲み込めなくなるじゃないか。
「ほんと、良かったわよね……」
母はそうしみじみと言いながら、リモコンでテレビをつける。
わたしはようやくちょっとホッとした。たぶんこれ以上突っ込まれたら泣いていたからだ。
食事を終えると、わたしは自分の食器を洗ってからお風呂に入った。
湯船につかると一日の疲れが抜けていく。青司くんも、今入っているだろうか……?
お風呂から出ると、ちょうど帰ってきた父と廊下で出くわした。
「あ、おかえりお父さん。早かったね」
「うん、ただいま。真白……あれ? なんかあったか?」
「ん?」
「なんだか、顔色がいつになく良いように見えるから」
「え? べ、別に? お風呂上がりだからでしょ」
「そ、そうか?」
「そうだよ。あ、今日はおでんだって! じゃね!」
「えっ、おい……どうしたんだ」
わたしはまたいろいろ訊かれそうになったのを察して、逃げ出した。
母に訊かれるのはまだいい。でも父は、ダメだ。父になんか訊かれたら、恥ずかしすぎてのたうちそうになる。
階段をとんとんと駆け上っていると、下から母の「お父さん、お向かいの九露木さんがね、帰ってきたのよ」という声が聞こえてきた。
あー、あれはこれからまるっと父に話す気だな。
そう思うと、わたしは顔がまた熱くなってきた。自室に駆け込み、しっかりと内鍵をかける。
わたしが、九露木さん家の息子さんを好きだという話は、家族の中での共通認識だった。
さすがに相手方の母子にそれをバラされるという無神経さまではなかったのが救いだ。それ以外はことあるごとにからかわれている。
「あー、もうこの後お父さんと顔会わせづらくなるじゃーん……。うー」
母に加えて父のニヤニヤ笑いにもこれから遭遇せねばならないかと思うと、悶絶死しそうだった。
わたしは別の意味でも、あのお店で働くことが難しくなりそうだ。
毎日あの家に出向くだけで、いろいろ冷やかされるのが目に見えている。
わたしはぼふんとベッドに倒れ込んだ。
「いや、やっぱり後悔……はもうしたくない。だからもう家族とかも、なりふり構ってる場合じゃないよな……」
そうだ。これからは、たとえどんな目に遭っても。誰に何を思われても。
もう二度と青司くんを失う前に、後悔しないようにしなきゃならない。
わたしのこの想いを伝えるまでは。
またいなくなられたり、先に誰かと恋人になられる前に、手を打たなきゃいけない。そんなことになったら、わたしは今度こそ人として立ち直れなくなってしまうと思う。
自分勝手すぎるとは思うけど……でもわたしは、わたしの場合は、そうしなければ前に進めないとわかっていた。
これはきっと、最初で最後のチャンス。
だからしっかりと前を向いて考えていこうと思った。
「あ、そうだ」
メールが届いていたのを思い出して、バッグからスマホを取り出す。
確認すると、かつての「お絵かき教室」の仲間でもあり、親友の紅里からだった。
仕事の愚痴が書かれている。
わたしは、青司くんのことを伝えようとして、でもやっぱりまだ伝えられなくて、結局当たり障りのないことを返してしまった。
※ ※ ※ ※ ※
翌朝。わたしはいつもより少し早く起きた。
普段はバイトが十一時からなので、九時くらいには起きるようにしているのだけど、この日の起床時間はなんと七時だった。
朝食を軽く済ませ、表に出る。
メイクはばっちり。マスカラもちゃんとつけた。服も昨日よりはおしゃれめなスカートにしている。
「ど、どうしよう、まだ行くのは早すぎる……かな?」
まごまごと川向こうの様子をうかがっていると、ちょうど青司くんが家から出てきた。
なんたる偶然。
青司くんはすぐにわたしに気付いて声をかけてきてくれた。
「真白? 早いね!」
「あ、お、おはよう! 青司くん」
「うん、おはよう」
「ちょっと、いつもより早く目が覚めちゃってさ~」
「わかるわかる。もう朝ご飯食べた?」
「うん。青司くんは?」
「食べた!」
「そっか……」
そこで会話がとぎれる。やば。なんかまたドキドキしてきちゃった。
でも、青司くんは変わらずこちらを見つづけている。
あれ? その前になんで青司くんは外に出てきたんだろ?
不思議に思っていると、また声がかけられた。
「あのさ、真白。ちょっとこの辺一緒に散歩しないか?」
「へっ?」
「近所。変わってるとこないか確認したいなって思って。昨日はバタバタしてたからさ、スーパーにしかいけなかったんだ。ね、どう?」
「え、えっと……」
「忙しいなら無理しなくていいけど」
「い、いや。む、無理じゃない、忙しくない! 今行く! 待ってて!」
わたしはすぐに家に引き返して上着を取ってきた。
ちらっと外の様子をうかがうだけって感じで出てきてたから、まだなにも防寒対策をしてなかったのだ。グレーのPコートをきっちり着込み、マフラーを巻くと、わたしは橋を渡って青司くんの元へと向かった。
次は朝のお散歩デート回です~。