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真白と、白いチーズケーキと紅茶(3)

 わたしは、そのワイルドベリー柄のティーカップを見て言った。

 

「これ、桃花先生の……だよね。懐かしい。みんな小さいうちはプラスチックのコップでさ。中学生以上になったらこのイチゴのカップ使っていいわよー、なんて言われてて」

「ああ……そうだった」

「今はもう大人になったんだから、使っていいんだよね? もちろん」

「そう、だから出したんだ。ほら早く……。冷めないうちに」

「はい。じゃあ、いただきます」


 あの桃花先生が、今もどこかから見守ってくれている。

 そう思うと、さっきまで張りつめていた空気がちょっとゆるんだ気がした。

 わたしはカップのふちに口をつけ、香りを堪能しながら紅茶をすすった。


「あー、美味しい……」

「そう。良かった」


 青司くんを見ると、少しホッとしたような笑みを浮かべていた。

 でも少し疲れもあるようにみえる。

 引っ越しが予想以上に大変だったのかもしれない。

 わたしは、ちょっとだけ勇気を出して言ってみた。


「あの。せ、青司くんも……こっちで少し休まない?」

「え?」

「いろいろ……疲れたんでしょ、今日は」

「あー、うん。そう言われればそうかも。じゃあちょっとだけ休憩しようかな。そうだ、俺も食べとかないと」


 青司くんはそう言ってもう一人分の紅茶とケーキを用意すると、わたしの隣の席に座った。

 う、うわ……近い!

 わたしから誘ったくせに、隣に座られただけですっごくドキドキしてきてしまった。なんだか首から上が熱い。このままだとのぼせちゃう、なんて思ったので首のマフラーを取って落ち着こうとする。


「ふう……」


 パタパタと手で顔を軽く仰いでいると、青司くんは不思議なものでも見るようにこっちを見ていた。


「どうしたの?」

「え? いや、なんでもないよ……」

「ふーん。あ、俺はもう味見してるんだけどさ、真白はまだだから……」

「え?」

「ケーキ。早く食べて。感想聞かせてほしい」

「え、あっ、ケーキね、ケーキ。はいはい……」

「そう。久しぶりに作ったからさ、ちゃんと美味しいかどうか自信なくって。真白だったらちゃんと、正直に言ってくれるでしょ」

「うぅ……そ、そんな重要な役目……ああ、そんなじっと見ないで。緊張する!」

「ははっ、ごめんごめん。じゃああっち向いてるね」


 そう言って、青司くんがわたしと反対の方向を向く。

 はあ……もう心臓が持たないよ……。

 なんだかんだ言って十年ぶりに会った「初恋の人」というのはすごい破壊力だ。


 緊張しすぎて、ちゃんと味を感じられるかどうか不安になってきた。わたしは青司くんが見ていないうちにすばやくフォークを差し、ケーキの先を少し口に入れる。


「……っ!」


 舌の上に、砕かれたビスケットの土台とやわらかなチーズムースが乗っかった。それらはすぐに口の中でほどけ、濃厚なチーズと爽やかなレモンの香りを漂わせる。

 わたしは十分それらを味わうと、幸せな気持ちでつぶやいた。


「は~……美味しい。これとっても美味しいよ、青司くん」

「良かった~。あ、でもそれって……母さんと同じ味になってる?」

「え? うーん。どうだろう、もうずいぶん前のことだから正確な味をはっきりとは思い出せないけど……でも、たぶん同じ味のような気がする。だって、とっておも美味しい上にと~っても幸せな気分になったからさ」

「そう……か。なら、良いか。ありがとう」


 そう言うと、青司くんも自分のチーズケーキを食べはじめた。

 二人ともケーキの内角は九十度だった。これはホールケーキの四等分で、わりと大きな扇形である。

 もしかして、わたしが今日ここに来なかったら……青司くんはこれをひとりで食べるつもりだったんだろうか。

 全部のケーキをひとりで食べてる彼の姿を想像すると、なんとなくおかしくなった。


「ふっ……ふふふっ」

「ん、どうした?」

「あ、ううん。なんでもない。ねえ青司くん、さっきの返事……だけどさ」

「うん」


 楽しい気分になってるうちに、さっきの返事をちゃんとしよう。

 お誘いは……突然ですごくびっくりしたけれど、でもちゃんと考えなきゃいけないことだ。だって青司くんは、きっと覚悟してここに帰ってきたんだろうから。

 わたしや、みんなから非難されるかもしれないってことを考えなかったわけじゃないと思う。

 さっきの様子を見る限り、わたしはそう感じた。


「わたしにお店を一緒に手伝ってほしい……ってやつ。あれ、本気なんだよね?」


 青司くんは真剣な瞳でこちらを見ている。


「うん、本気だよ」

「じゃあ……ぜひ、やりたいって思う」

「本当?」

「うん。でも……今日うちに来たときにお母さんから聞いたかもしれないけど……わたし今、ファミレスでバイトしてて。すぐには、その……」

「あー……そっか。たしかそんなこと、おばさんも言ってた気がするなあ。忘れてた」

「……うん。だから、ちょっと考えさせて」

「わかった。でも、真白にそう言ってもらえて良かったよ」

「え?」


 わたしはそれを聞いて、レアチーズケーキを食べていた手を止める。

 青司くんは紅茶を一口飲むと、ぽつりと言った。


「ここに戻ってきたら……真白に真っ先に手伝ってほしいって、思ってたからさ」

「……え」


 なに、それ。


「真白が、まったく別の所に引っ越していたりしたら、それはそれで違う人を雇わなきゃって思ってたけど……でもやっぱり昔のよしみっていうか、気心が知れた人との方がうまくやってけそうな気がして。だから……」


 そんな。そんな……。

 そんなこと言われたら、めちゃくちゃ嬉しくなっちゃうんですけど……。

 わたしは、約束を破られてずっと怒っていた。なのにそんなこと言われたら、一気に許してしまいそうになる。まったく自分でも現金な女だと思う。好きな人にちょっと甘い言葉をかけられただけで、すぐにこうなってしまうのだから。


 ――ねえ、騙されてるんじゃない?


 そんな声がどこかから聞こえる。


 ――ずっと忘れられて放っておかれたのに、ちょっと都合が良すぎるんじゃない? 十年の間に、青司くんはもしかしたら人が変わってしまったかもしれないよ? それなのになんで、そんな風にすぐ信じられるの? また急にいなくなられるかもしれないのに。


 わたしは、とりあえずそれらの言葉を無視して、チーズケーキを食べ終えることにした。

 そうでもしてないと頭と心がどうにかなりそうだった。

 この空間ではまともに考えられない。そうだ、この話は一旦保留にしよう。うん、そうと決まれば「一時撤退」だ。


「ご、ご馳走様でした!」

「え? もう帰るの?」

「うん。あ……明日もまた来ていい? 青司くん」


 空になったお皿を持ちながら、ためらいがちにそう訊いてみる。

 断られたらどうしよう。「わたしも一緒にお店をやる」って速答しなかったばかりに、興味を失われたりしてないだろうか……。


「うん、ぜひ。オープンまでいろいろやることがあるから、相談だけでも乗ってくれると助かるな。お客様に出そうとしているメニューの考案とか、試食とか……一人じゃ心もとなくって」

「あ、うん……! わ、わたしにできることがあったら遠慮なく言って」


 さっきの返事はどうやら好意的に受け取ってもらえたらしい。「考えさせて」なんてえらそうに言っちゃったけど案外大丈夫だったようだ。ああ、良かった。


 メニューの試食、かぁ。

 他にどんなケーキやドリンクを出す予定なんだろう。わたしは思わずいろいろ想像してしまった。

 きっとどれもがみんな、かつて桃花先生が作ってくれたような美味しいおやつなんだろうな。

 そう思うとかなり楽しみになってきた。


「えっと、オープンって……そういえばいつ頃の予定なの? 青司くん」

「んー、さっきいつでも開けるなんて言っちゃったけど、本当は準備ができ次第……かな。大目に見積もって四月の上旬までには始めたいって思ってるけど」

「そっか……。じゃあ明日、バイトに出勤する前か退勤した後にまた来るよ。午前中か夕方以降になるけど、それでもいい?」

「うん、構わないよ」

「じゃあまたその時に」


 わたしは足の高い椅子から降りると、カップとお皿を流しの方に持っていこうとした。

 でも、青司くんにそれを止められる。


「あ、いい、いいよ! 真白は今日は……」

「え、なんで?」

「ここの、お客さん第一号だからさ」

「え……お、お客さん一号!?」


 なぜか青司くんが赤くなって俯いている。

 そんな。自分で言って照れるなんて、こ、こっちも照れるんですけど……!


「だから、いいから! 今日は俺が片しとくから。それでもやりたいっていうんなら、ここで一緒に働いてからにしてくれ」

「えっ? そ、それ……」


 最後の方はもう小さい声になっていたけど、はっきり聞こえた。

 え、なに。なんかもう、わたしがここを手伝うのが決まりきってるって感じの言い方だったんだけど……今の。

 見透かされちゃってる。

 わたしが本当はここで働きたくて仕方ないって思ってるのを。

 でも今、わたしがその言葉に動揺しまくったら、なにかとても悔しくなったので必死で平常心のフリをした。


「……」

「あ、もうだいぶ暗くなってきてるね……。真白、そろそろ帰りなよ」

「……う、うん」


 カップとお皿をしぶしぶ手渡すと、それを流しに置く青司くん。

 笑顔がなくなると、やっぱり疲労の色が強く出ている。早くちゃんと休んでほしい。


 お客さん第一号、か……。

 そんなこと言われるなんて、思いもしてなかった。


 そういう一言一言に、ドキッとしてしまっている自分がいる。

 もう、なんか……いろいろとズルい。こんなふうに振り回されたくなんてなかったのに。今日だけで何度も何度も振り回されてしまってる。でも同時に妙な喜びも感じてしまっているのが、またタチが悪い。


 失っていたものがまた目の前に現れた。

 だから、こうなるのは当然といえば当然なのかもしれないけど。


 青司くんが帰ってきたことを知っているのは、まだわたしだけなんだろうか?

 他のみんながまだ知らないのだとしたら、本当はわたしがすぐにでも連絡を回さなきゃいけない。でも……どうなんだろう。青司くんはまだみんなに知られたくないかな? それとも、早くみんなに会いたい?


 わからない。

 目の前にいるから訊けばいいのに、なぜか訊けない。


 ――どうして?


 それは……わたしがまだ青司くんを独占したいと思ってるからだ。まだわたしだけの青司くんでいてほしい。だから……まだみんなに黙っていようとしてる。


「……」


 薄暗い部屋の中、キッチンのまわりだけに間接照明が点いていた。

 今まであまり気付かなかったけれど、いつのまにか青司くんが点けてくれていたようだ。

 わたしは小さい自分を恥じながら、玄関へと向かう。

 そしてドアに近づいたその瞬間、わたしは一枚の絵を見つけた。


「あっ……!」


 それは、水彩絵の具で描かれた桃花先生の肖像画だった。

 玄関の横の壁にひっそりと額入りで飾られている。


「桃花、先生……」


 絵の中の先生は時を止めていた。それは十年前の姿のまんまだった。

 写真かと見まごうほどよく似ている。

 全体的に淡いピンクの色調。


「この絵を……描いたのも青司くん?」

「あ。うん、そう」


 わたしはその絵に近づくと、そっと額縁に触れた。

 ふんわりと柔らかな髪を胸元に垂らして、椅子に腰かけている先生。周囲には何もなく、彼女が画家であるという要素はどこにも見当たらない。


 この絵は、青司くんが描いた絵だ。

 なら青司くんは、彼女を「水彩画家の先生」としてではなく……あくまでも「母親」として描いたのだろう。

 いつ描かれたのかよくわからなかったけれど、でも、とてもあたたかな絵だと思った。


「……おかえり」


 自然と、わたしの口からはそんな言葉があふれていた。

 そう言っていいのかわからなかったけど、でも今、すごくそれを言いたいと思った。


「おかえり、青司くん」


 振り返り、あらためて言う。

 青司くんはとても驚いた顔をしていた。でも、しばらくするとまたにっこりと優しく微笑んでくれる。


「うん、ただいま。真白」

「わたし……青司くんにまた会えて、とっても嬉しい。帰って来てくれて、ありがとう」

「……うん」

「今日はご馳走様でした。じゃあまた明日ね!」

「あ……待って、これ持っていってくれ。おばさんたちに」


 青司くんは一旦キッチンに戻ると残っていたケーキをラップで包み、適当な袋に入れてわたしに持たせてくれた。


 ギイ、と勢いよく扉を開ける。

 外に出ると青司くんも後ろから一緒に出てきて、わたしが家に着くまでしばらく戸口で見送ってくれた。

 なんだか気恥ずかしい。青司くんの視線が後ろにずっとあるなんて、とってもドキドキする。


 見上げると、もうすっかり空が紺色のベールに覆われていた。

 川沿いの桜並木や洋館の周囲の木立は、黒くかげっている。

 川のせせらぎが聞こえる。

 橋を渡って振り返ると、わたしの幼馴染はまだ洋館の前に立っていた。


 もう二度と見ることはないと思っていた風景が――そこにあった。


「ああ……」


 わたしは涙がまたこぼれてきそうになって、あわてて家の中へ駆けこんだ。

 奇跡だ。奇跡が……起きた。

 もう二度とあの人を失いたくない。


 わたしはそう思うと、自宅の玄関でじっと泣くのをこらえた。

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