緑香:おちょくられる
緑香が目を覚ますと、ぶすっとした顔の青年が体育座りで膝に顔を埋めつつこちらを見ていた。
「……あなたは?」
「客人その一ですよ。あなたの彼氏がここの責任者と話に行ったので見張らされているんです」
「え、彼氏じゃないですよ」
「見えましたよ。ラブラブいちゃいちゃして。いいなあ私もやってみたいなあ」
赤面した緑香を無視して神無と名乗った青年は、囲炉裏に起こした火に手を翳す。
「告白しておきます。私は異界の者です。厳密には異界の主の部下、ですが」
その瞬間、緑香の脳裏にさまざまな可能性が駆け巡った。
「まさか、唯さんの故郷を乗っ取って」
「そう思われるのが嫌だったんですよ」
イラァ、と青筋を立てた彼は緑香を睨む。負けじと緑香が睨み返すと、神無はそっぽを向いた。
「唯というのが誰かは知りませんが、この『故郷』は敵意、害意が無い者の前にしか現れません。私は別件で人を探していて、偶々この故郷にいると聞いて来ました」
その方を殺す気もありませんし。
そう言った神無の顔をじっと見る。
「私の顔に何かついていますか?」
「いえ。ただ……何か疲れているように見えて」
彼が呆気にとられて緑香を見つめた。
「……分かりますか?」
「苛々もしていますよね?」
「ええ、とても!」
激しく頷いた彼は口を開いて、
「実は」
「おーやあ? 起ぉきたみたいだね」
いきなりの声に顔をひきつらせ、なにくわぬ顔で口を閉じた。
声の主は二十歳前後の青年、もしくは女性だ。中性的な体つきで性別は分からない。しかし目が年老いた翁のそれ、というのは何故だろう。やはり神なのだろうか。声も中性的だ。淡い水色の浴衣をやや適当に着ている。
人物の後ろから、ひょっこりまた別の人物が現れた。よく見ると、彼は、
「唯さん!?」
「もう分かったのか!?」
緑香は慌てて彼に歩み寄る。
髪も目も真っ黒になった唯は、妙に嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、緑香殿」
ちゅ、という音と共に額に何かが当たって、すぐに離れていく。
「……唯さん今アナタ何をしました?」
「きす、とやらをした」
唯に悪いことをした気は無いらしい。じっと何かを待っている。拳をくれてやればいいのだろうか。
「……唯さん?」
「人間は朝や夜などの境目に、あいさつを交わしながらきすをすると聞いたぞ。あいつから」
あいつ、という部分で淡い浴衣の人物を指差す。人物は口笛を吹きながら、入り口から外を眺めている。
今更だが、唯の家は江戸時代からあるんじゃないかと思うような建物だ。部屋の中央に囲炉裏があり、座布団が隅に積まれている。囲炉裏の火はついていないがそんなに寒くない。理由は主に二つあり、一つはこの世界の季節が春だからで、もう一つは緑香の上に暖かい羽毛布団が乗せられているからだ。羽毛布団と言えば、
「緑香殿」
……現実に引き戻された。
改めて彼を見る。
唯はきらきらと輝く目で何かを待っている。何を待っているかは、会話で何となく分かった。しかしそれにはまだ心の準備というのがまだいやしかし、
「緑香殿、おはようのきすが欲しい」
諦めた。
「うわあゲロ甘」
白い目で見ていた神無の容赦無い言葉を否定できないことに情けなくなりながら、緑香は彼の額に唇を押し付けた。
「おはようございます、唯さん」
けれど、唯が嬉しそうに微笑むのを見ると、情けなさなど吹き飛んだのだ。