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「嘘……だろ?」
あるべきノートが無い事実に、俺は目眩にも似た感覚を覚えた。
頭を抱えてうなだれると、額から噴き出ていた汗が手のひらにべっとりと張り付く。
まるで今までのことが夢だったかの——
「……夢!?」
その呟きに全身の皮膚が泡立つ。
どうしてその考えに至らなかったのだろう。
薄れていく記憶は、まさに夢を見た後と同じだ。
だけど96回も同じ夢を見るだろうか?
いや、俺の中に96回という記憶があるだけで、96回同じ夢を見たとは言い切れない。
「ちょっと、月也! いつまで寝てるのよ。学校遅刻するわよ!」
何度も聞いた母さんの怒声でさえ、考えてみれば6月7日に限らずよく聞くセリフに過ぎない。
「ちょっと月也!」
痺れを切らした母さんが勢いよく部屋のドアを開けると、俺を見て顔をしかめた。
「起きてるんなら早く下りて来なさいよ」
それだけ言って母さんは階段を下りていった。
胃の中が気持ち悪い。
一旦リビングに行った俺は体調が悪いと朝食を断り、部屋へと戻った。
食卓にはいつも通りのパンと目玉焼き、コップに並々と注がれた牛乳が置かれていたが、それもまた我が家の定番でもある。
何が真実で何がまやかしで、何が現実で何が夢なのか。
確かめなければいけない。
俺は白いカッターシャツに腕を通し、学校へ向かうのだった。
俺の知る6月7日の朝同様に、教室にある俺の席の前にはすでに山平が座っていた。
席に着くと山平が椅子に逆座りの体制で笑いかけてくる。
「おい、円井、聞いてくれよ。昨日さ」
いつもと同じ山平のセリフ。
ぼんやりとした記憶ではあるが、ここでの俺の返事で話の流れは変わってくる。
「鳶山先輩が突然ペアの入れ替えをしてきたんだろ?」
「あれっ? 俺、円井に話したっけ? まぁ、いいや。だいたいさぁ、これから大会なのに……」
夢にしてはあまりにも現実と噛み合う答え。
確かこの後……。そう、青樹さんが教室に入ってくるのを見ていて、俺が山平に茶化されるはずだ。
俺が教室の後ろの扉に視線を向けると、ちょうど中を伺うように青樹さんが入ってくる。
その姿を見ただけで心臓がトクンと高鳴った。
夢の影響だろうか?
顔が熱くなるのを感じて俺は目を逸らした。
「でさ、その時先輩がさ。っておい、円井顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃ無いのか?」
「い、いや。大丈夫だよ。で、山平は大会前の変更に納得がいかなかったんだろ?」
「当たり前だろ? 大会までもう一ヶ月も無いんだぞ」
話は続くが俺はちょこちょこと青樹さんに視線が動いてしまう。
彼女は鞄の中身を机に入れ終えて、始業までの僅かな時間でも読みかけの本を取り出して読んでいた。
あれっ? さっき、山平になんて言われると思ってたんだっけ?
何かを忘れている気がしたが、俺は山平の話に相槌を打つ。
まもなくしてチャイムが始業を知らせ、一日の授業が始まる。
蒸し暑い教室の中、先生の声とノートに書き込まれる筆記音だけが鳴り響く。
ふと、ノートの上でシャープペンの動きが止まる。
教室の反対側に座る彼女を見て、俺はその名前を書き込んだ。
——青樹 空
続いて、山平、川原。
その3人の名前を書いた後、無意識に97と書いた。
何故そんなことを書いたのかは分からない。
川原という名前なんて記憶にない。
俺はその書き込みを消しゴムで消し、黒板に書かれた方程式を隣のページに書き写していくのだった。
最近の俺は青樹さんが気になるらしい。
気がつけば視線で追っているし、その姿を見れば胸が高鳴る。
よく見れば可愛い顔つきだし、彼女の纏ってる雰囲気は柔らかく心を落ち着かせてくれる。
まぁ、その。どうやら俺は青樹さんが好きみたいだ。
まだ山平には相談していないが、あいつはこのことを伝えたら笑うだろうか? それとも応援してくれるだろうか?
ここ数日は登校時間も少し遅らせた。
始業ギリギリに近くなるが、早歩きというより小走りで登校する青樹さんの姿を見るためだ。
もしかしたらストーカーの気持ちはこんな所から始まるかなと思わなくもないが、健全な高校男子なら好きな人を見ていたいのは普通のことだと思うようにしている。
その日、6月15日の朝。
青樹さんはいつもより遅れてきた。
すでにほとんどの生徒は学校に入っていて、校門に立つ教師が「早く入れ、遅刻になるぞ」と声を張り上げている。
俺もいい加減学校に入ろうか迷っていると、全力疾走に近い勢いで青樹さんが駆けてくる。
そのまま歩いていけば生徒玄関で鉢合わせかなと考えたが、俺は校門の所で足を止めた。
どうしてそうしたのかは分からない。
だが、俺の目の前で走ってきた青樹さんが突然宙を舞った。
誇張表現ではなく俺の胸の高さぐらいで、真っ正面から高跳びするように体が地面から離れていたのだ。
咄嗟に前のめりになりながら右腕を伸ばすと、確かな重みがのしかかり、俺はバランスを崩しながらも青樹さんを受け止めた。
「ふぎゃぁ」
普段からは想像もつかないおかしな鳴き声の後、大量のものが落ちるバタバタとした音が続いた。
校門の入口のアスファルトの上に青樹さんの荷物が散乱しているのは、俺が受け止めた衝撃で彼女が鞄を手放したからだ。
右腕に乗っかっていた力が弱まると、あまりにも細い青樹さんのお腹が離れていく。
「あ、あのっ。ありがとうございました」
とても焦った様子で目を泳がせながら青樹さんはペコリと頭を下げた。
「大丈夫?」
「あっ。はい。……って円井くん!?」
自分を受け止めたのがクラスメイトだと知った青樹さんは、顔を真っ赤にさせて恥ずかしそうに顔を手のひらで隠した。
いちいち可愛い素振りに、おそらく俺の顔も赤くなっていただろう。
視線を逸らすように散乱した荷物に目をやると、校舎から始業を知らせるチャイムが鳴りはじめる。
「はい。お前ら遅刻だな」
まるで青春の一ページを覗き見たように顔をニヤニヤさせた教師は、後は若い二人に任せますかといった感じでそのまま手伝いもせずに校舎に戻っていった。
「片付けようか?」
「あっ、はい。ごめんなさい」
教科書やノートを拾い集めていると、手に取った一冊の本が目に入る。
『いつの日か君を幸せにするために』
美形の男女二人が手を取り合う絵が書かれた本。
その本を読んだ記憶はないのに、なぜか物語が頭に蘇る。
確かタイムリープする能力を持った主人公が、何度助けても死んでしまう運命のヒロインを救い出して幸せを掴む話だ。
「あっ!?」
音速を超えたかと思える速さで本を奪い取った青樹さんは、ますます顔を赤らめる。
もう耳も首も真っ赤っかだ。
「……それ、面白いよね」
俺の発言に青樹さんは細い目を見開いて、ずいと一歩前に身を乗り出した。
「円井くん、読んだんですか!?」
「えぇっと、ループもののライトノベルでしょ?」
「はい! 円井くんもこの手の話好きなんですか!」
こんな乙女チックな本を俺が読んでいたとは思わなかったのだろう。青樹さんは目をキラキラさせて俺の顔を見つめてきた。
やばい、めちゃくちゃ可愛い。
俺は悟られないように顔を校舎に向けて指差した。
「あの、青樹さん、もう授業始まってるから」
「あぁぁぁ、ごめんなさい。そうでした」
「だから、また話は後で」
「——はい!」
今日はなんて良い日なのだろう。
遅刻となり先生には怒られるし、クラスメイト達からは二人揃ってのご出勤だ、朝帰りか? と冷やかされたが、なにせ相手は青樹さん。
たまたまだとは言ったものの、むしろ本当にそんな関係になりたいくらいだ。
山平に至っては意味ありげにサムズアップされた。
その後親指の位置が人差し指と中指の間に移動したが、肩の揺れようからして楽しんでいるようだ。
席についても俺はチラチラと青樹さんの方を見てしまう。
青樹さんも今朝のことで気になるのか、たまにこちらを見ては視線が合うと恥ずかしそうに顔を逸らされた。
もちろん俺も恥ずかしさのあまり、すぐに顔を前に向けていたが。
俺は昼間の休憩時間に青樹さんに話しかけに行きたかったが、流石に朝のこともあってクラスの話題をかっさらってしまう。
青樹さんの方はというと相変わらず休憩時間は本を読んでいるが、こちらに何度も視線を向かわすあたりきっかけを待っているように見える。
俺はこっそりとノートの切れ端に『話は放課後。校門待ち合わせでいい?』と書き込んで握りしめると、さりげなく青樹さんの席の横を通り過ぎるふりをして彼女の机にそっと置いた。
席に戻って青樹さんを窺うと、彼女は恥ずかしそうに小さく頷いた。
なんだろうこの幸せな感じ。
さっきから口元が緩みまくっている。
「なあ、円井。……なにニヤついたんだ?」
後ろを振り向いた山平は俺の顔を見て引いていたくらいだ。
6限目の授業が終わると俺は足早に校門へと向かった。
落ち着きのない態度で生徒玄関を何度も見る。
心臓の音はうるさいし、足も震えてしまう。
胃が痛い気がするのは極度の緊張のせいだろう。
帰宅部連中がまばらに歩く中、青樹さんは俯きながら玄関を出てきた。
俺の姿を確認したからか、小走りになった青樹さん。
校門にたどり着くときにはすでに息が荒くなっていたのだが、立って待っていただけの俺の呼吸も荒い。
「お、お待たせしました」
「同じクラスだよ。待ってないよ。ただ……ここで話すのもあれだから場所移動しようか?」
「あっ、はい」
ほんの少し距離をとりながら後ろにいる青樹さんを連れて、学校から300mほど離れた喫茶店に入った。
扉を開けると小さな鐘がなり、カウンターでコップを拭く店主が「いらっしゃい」と笑みを見せる。
落ち着いた感じの店内の一番奥の席はパテーションの影に隠れるので人目につきづらい。
俺が椅子に座ると青樹さんはキョロキョロしながら向かいの席に座った。
「青樹さんはどれにする?」
テーブルの上に置かれたメニューはカタカナの振り仮名が打たれているが英語表記だ。
「えっ、えぇっっと。円井くんにお任せします」
「マスター。ダッチコーヒーとアフォガート一つずつね」
店主はにこやかに頷くと早速作業に取り掛かる。
「円井くんってこういうお店によく来るんですか?」
「えっ? 俺? えぇと、まぁ、たまにね。どうかした?」
そう言われればおかしな話だが、俺がこの店に来るのは初めてだ。
そもそも喫茶に行くことなんかなく、友達連中と帰りに寄るのは精々がファミレスだ。
「なんだかとっても手慣れてる感じがしたものですから。とても大人な感じがします」
「いや、そんなことないと思うけど。それよりも青樹さん。俺たちは同級生だよ。敬語はやめてくれると嬉しいな」
「えっ、あっ、はい。じゃなくて、うん」
ぎこちない会話をしていると店主は俺の前にダッチコーヒーを、青樹さんの前にバニラアイスとエスプレッソを置いた。
これはどうするのかと困る青樹さん。
俺がエスプレッソを手に取ってバニラアイスにかけると、コーヒーの熱によりアイスの表面が溶けていく。
「はい。どうぞ」
「そうやって食べるんだ」
青樹さんはスプーンでアイスを掬って頬張ると、満面の笑みを浮かべた。
「美味しい!」
「でしょ?」
舌鼓を打ちながら今朝の話題に切り替わる。
不思議なことに青樹さんが題名を言えば朧げながらに物語が浮かび、会話は途切れることなく盛り上がる。
青樹さんも俺を同士と思ったのか、目を輝かせてあの小説はいい、あの小説のラストは悲しかったと身振り手振りを交えて話してくれる。
彼女が言うにはSNSでの仲間はいるが、学校で話せる仲間はいなかったそうだ。
だから俺の存在はとても嬉しいと。
「円井くんってすごいね」
「えっ、俺が?」
「うん。話題は豊富だし、こういうお洒落なお店も知ってる。それに……朝、私を助けてくれたの、その、えっと、小説の……主人公みたいだった」
青樹さんは耳まで赤くすると、尻すぼみに声を小さくしていく。
「うーん。俺はそんなにすごくないよ。持ち上げすぎだって。多分、その、あれだよ。俺と青樹さんの波長があったんだよ」
自分で言っていてめちゃくちゃ恥ずかしい。
この場に山平がいたら大笑いしてそうだ。
そのあとも青樹さんが一押しの本をすすめてきたり、学校の話をしたり。気がつけば外はやや薄暗くなっている。
こちらが誘ったからと会計は俺が持ち、二人で外に出た。
「円井くん、ごちそうさま。今日はとっても楽しかったよ」
「こちらこそ。あの……またこうやって話できかな?」
「うん。むしろこっちからお願いしますって感じだよ」
また青樹さんと話が出来る約束に、俺は心の中でガッツポーズした。
「じゃあ、私、こっちだから」
「暗くなってきたし送っていこうか?」
「ううん。近いから大丈夫」
残念ながら俺と青樹さんの帰りは逆方向だ。
残念がっていると突然背後で声がした。
「おっ、空」
「あっ、昌也くん」
全身の毛が逆立つ。
振り返れば「なんだコイツ」と俺を睨みつける男がいた。
突然湧いてくる怒り。
初めて見るはずなのに、俺は思わず殴りかかろうとしていた。
「なに、コイツ?」
「あっ、私のクラスメイトの円井くん。昌也くん、今帰り?」
「あぁ、一緒に帰るか?」
「うん。またね、円井くん」
手を振る青樹さんは男と一緒に仲良く歩いていった。
心の中のドス黒い感情がおさまらない。
俺の直感が青樹さんとあの男を近づけてはいけないと告げている。
何よりあの青樹さんの表情。
俺に向けられていたものとは全く別物で、まるで身内に向ける親しみが表れていた。
嫉妬?
そんな簡単に一括りに出来ない感情を前にして、俺は見知らぬ名前を呟いた。
「川原……昌也」




