六 鯨と花と茶色のウィッグ
そして、翌朝。
「うん、よし。目を開けていいぞ」
ルナさんの合図で鏡を覗けば、瞳の大きな少女がそこにいた。
「……別人みたい」
私の口から思わず出た言葉は、それだった。
あまり化粧をする習慣がないため、ほんの少し化粧をするだけでも変わる私の顔は、ルナさんの腕前で大きく化けていた。
「先輩に仕込まれてな。変装は得意だ」
「そうなんですか。……ルナさんも変装するときはメイクするんですか?」
「いや、私は専ら男装だな」
なるほどと思うが、もともと男っぽいルナさんが男装をしても、普段とあまり差異がないような気がする。
「あとは簡単にこれをつけてくれ」
ぽん、と投げて寄こしたそれは、髪の毛の束だった。かつら……いや、ウィッグというのか。ピンで固定させるタイプのもので、私の地毛とは色も癖も異なっている。茶色のウェービー・ヘアー。
鏡を見ながらなんとかつけてみる。使ったことがないから悪戦苦闘したが、何とか形になった。ルナさんに見せると、よく似合っていると言いながら、乱れたところを櫛で少しだけ直してくれた。
私の今着ている服は昨日買ってきた黒いスーツ。ルナさんは安物で申し訳ないと言ったが、私は贅沢を言える身分ではない。それに、それほど質の悪いものではないと思う。
ルナさんの黒のパンツスーツは、すらりと高い身長に非常に合っていた。それほど背の高くない私は、それが少し羨ましい。
「どこへ行くんですか?」
「うん? 言わなかったかな」
ひとつ首を傾げて、そういえば言っていなかったかもしれないな、と言った。
私と彼女の黒を基調としたこの格好。それからすれば私にも予想はついていたけれど、確証はなかったから、正解が欲しかった。
彼女は小さく微笑んで、答えた。
それはやはり、私の考えていたものだった。
「弔いに」
白。黒。白。黒。
その二色だけで構成されたそれを鯨幕ということくらい、私でも知っていた。
ルナさんの運転する自動車が辿り着いた場所は、葬儀会場だった。誰のものかなどなんとなくわかっていたし、入り口に立てられた看板に主役の名がでかでかと書かれていた。
それは私のものではない私の名。
「あなたは『海さん』だ」
車のドアを開ける直前、ぼそりとルナさんがそう言った。
何のことかと、思わず聞き返す。
「え?」
「本名を名乗るわけにもいかんだろう」
私はその場で数秒静止して――ああ、と頷いた。
了解の意を伝えて、私と彼女は肩を揃えて歩いていく。こういったことに慣れていない私は、受付はすべてルナさんに任せた。申し訳ないなと思ったけれど、彼女は私が何も言わなくても、当然のことのように自分の名前の隣に私の名前も残してくれた。
そして、それを済ませて葬儀会場を覗くと。
祭壇の近くに、私の家族が立っていた。
「このたびは、ご愁傷様です」
ルナさんはゆっくりと頭を下げた。
「いいえ。その……始めまして、ですよね」
やはり頭を下げてそう言った母は、少しやつれたように見えた。
「ええ。私は上水流といいます。亜由美さんの大学の友人でした。
こちらは私の妹で、海といいます。私ともども、亜由美さんにはとても仲よくして頂きました」
「そうですか……あの、気を悪くしたらごめんなさいね。
海さんって、あの子に少し似ている気がします」
思わず、どきりとする。
が、ルナさんは、涼しい顔で微笑んだ。少しの悲しみが滲む笑顔。
「ええ。亜由美さんも同じことを言っていました。きょうだいみたいだとおっしゃって、この子を可愛がってくださいました。――ありがとうございました」
それはすべて嘘だ。……けれど彼女の悲しみの色には、リアリティがあった。
少しの会話のあと、母は、式が始まるまでまだ時間があるので、と別室に案内してくれた。そこには私の見知った親戚や、昔からの友人の顔が、いくつもあった。
行われたのは、普通の葬式だった。
読経を聞いて、お焼香を行う。近しい身内から順番に。それを考えていけば順当だけれど、私は最後の方だった。ルナさんと揃って棺の前まで行って、何度かいろいろな方向に礼をして、それから抹香を救い上げて炉にくべる。それを三度繰り返して、私たちは元の席に戻った。
ルナさんは非常に慣れた様子で一連の動作を行っていた。ちらりと彼女を見る。その横顔から感情を読み取ることはできなかった。
祭壇の前に白い箱がある。私があの中に眠っている。
私を呼び寄せた彼女があの中で、まるで他人事のように眠っている――
「お別れをしよう」
声をかけられて、私ははっと顔を上げた。
ルナさんが私を見ていた。弔問客がぱらぱらと椅子を立って、祭壇に飾られていた花を貰っている。
私もルナさんに引かれて、花を貰いにいく。と、白の中にほんの少し薄紅色の入った花を渡された。白一色が普通だと思っていたから驚いたけれど、後でルナさんに聞いたら、昨今はそういうことも珍しくはないのだと言う。
両手に花を掬うように持ちながら、棺の中を覗き込む。
そこには私が、眠っていた。
「…………」
他の誰でもない、私だった。似合わない白い着物を着て、もう二度と動くことのない瞼を落としている。あなたは何を考えているの? と言葉に出さずに問いかけるけれど、彼女は答えることはない。
彼女の顔の横に、そっと手の中の花を捧げる。そのとき、彼女の頬に私の手の甲が触れた。それはとても冷たかった。
「……おやすみ、私」
誰にも聞かれないように、呟く。もう生きていない私に。
しばらくして、棺のふたが閉められる。
釘を打ちつける音がする。
これでもう、彼女は棺から出てこれない。
彼女はもう、戻ってこない。
――礼さんは私たちと少し離れたところで、ぼんやりと立っていた。
火葬場は同じ敷地内にあった。
棺がエレベーターのような扉の中に吸い込まれていくとき、あちこちからすすり泣く声が聞こえた。礼さんも泣いているのだろうかと思ったら、そうではなくて、彼はやはり虚ろな目で、扉の中に消えていく棺を見ていた。
あの扉から次に出てくるとき、彼女は既に人のかたちをしていない。
目を閉じて黙祷をして、私たちは待機の部屋に戻る。
礼さんとも少しだけ話した。
彼の話しぶりは、いつもとあまり変わらなかった。
その後私は一人で、手洗いに立った。
ルナさんはそれに心配そうな表情で、
「一人で大丈夫か? 広いからな、迷うかもしれないぞ」
と言ったが、私は、
「大丈夫ですよ」
ルナさんに自信満々にそう言って、一人で出てきた。
は、いいが。
トイレを見つけて入って、そして。
「……まさか本当に迷うとは思わなかったです」
呟いた。
私が思っていた以上に建物の中が広かったことや、いつもの癖で「迷ったら携帯電話で助けを呼べばいい」と思ってしまっていたこと――しかし今の私は携帯電話を持っていない――などがすべて裏目に出た。
知った顔が来てはくれないかと少し待ってみたが、誰かが来てくれる様子はない。
仕方がないから、私は何度か辺りをきょろきょろと見回して。
「……た、多分こっち……」
つまりは勘で、歩き出した。
道に迷うと、どの部屋もどの通路も似て見えてくるから不思議である。しんと静まり返った建物の中は、ただでさえ不安を煽ってくれる。
――と、そのとき。
私は、ガラスで囲った一角を見つけた。
「…………?」
これは何だろう。何のために作られたのだろう。
ガラスの向こうは吹き抜けのようになっていて、天から太陽光が差し込んでいる。そしてその中には、たくさんの植物があった。コンクリートや石造りの建物に、少しでも生を与えようという配慮なのかもしれない。もしかしたらもっと科学的な意味合いがあるのかもしれないけれど、私にはわからない。
辺りを見回すと、ガラス張りの一角に扉を見つけた。扉に鍵は閉まっておらず、私が軽く押しただけでそのドアは動いた。どうやら、立ち入り禁止と言うわけではなさそうだ。
ゆっくりと足を踏み入れて、植物に指で触れる。よくできた作り物かと思ったそれには生き物特有の湿り気があって、本当に生きていることを全身で主張していた。
植物の揺れる音だけが、その場に響く。
それに何とも言えぬ安心感を感じて――
「――亜由美」
そのとき静かなその一角に、私の名が響いた。
振り返ると、礼さんが立っていた。
「こんなところにいたのか。帰ってこないから探しただろ」
ようやく知った人に会えて、ほっとする。
私は照れ隠しに、少しだけ笑ってみせた。
「迷っちゃって」
それからまた、私は緑色の葉に触れる。
私の纏った黒い服とは似ない色。
「亜由美」
彼がまた、私を呼んだ。
何とも言えない声だった。
「何?」
答えて私は彼を見る。
礼さんは私の頬に手を触れて。
……それからの彼のその仕草があまりにも慣れたものだったから、驚きも感じなかった。
彼の顔がゆっくりと近づいて――唇が触れた。
気付いた瞬間、頭の中が真っ白になる。それから私が我に返ったとき、礼さんは私を見ていて、私は礼さんを見上げていた。
「え……」
「……ごめん」
礼さんは、泣いていた。
そしてその涙を見た瞬間に、私の、先ほどの礼さんの行動への驚きは消え去ってしまった。だから私はそっと手を伸ばして、それを指先で拭う。彼には泣かないでほしかった。
礼さんは私を抱き寄せた。
それから震える声で、
「お前がなかなか、帰って、こないから」
「礼さん……」
「お前も、いなくなったのかと、思った」
礼さんの喉で、ひくっ、としゃっくりの音がした。
そして彼は掠れた声で、どこにも行くなよ、と呟いた。
そうだ。
彼は誰よりも失いたくなかった人を、失ったのだ。
「……亜由美っ……」
そして礼さんは、もう一度私を固く抱きしめて――
ぱっこ―――ん。
という景気のいい音が響いたのはそのときだった。
「痛ィってぇ――――!」
次いで礼さんが頭を押さえて叫んだ。どうやら背後から殴られたらしい。
それに続いた言葉は、私にも礼さんにも聞き覚えのある声。
「何が楽しくて葬儀場でラブシーンなんか演じているんだ、お前たち」
礼さんが背後を振り返り、私が彼の肩越しにそちらを見やれば、革靴を片手に佇むルナさんの姿。どうやらそれでツッコミを入れたらしい。
ルナさんの足を見やると、左足は靴下だった。
「睦言語るにはあまりにも場違いというか、そもそも彼女の葬式で新しい女といちゃつくたァいいご身分ですね馬鹿野郎」
「なっ、お、お前どこから、見てっ」
とルナさんは、にやーり、と笑った。
それはとても意地の悪い笑顔。
「どこからだったら嬉しい?」
「あっ、あうっ、あうっ」
耳まで真っ赤にし、ぱくぱくと金魚のように口を開け閉めする。
それを見ると彼女はまた、面白そうに笑った。それから背を向けて、
「安心しろ。今来たばかりだ。――そろそろ時間だぞ」
「お前って本当に性格悪いなっ」
「褒めるなよ」
「褒めてねえっ」
礼さんとルナさんのそんな賑やかな口喧嘩を聞きながら、私たちは『彼女』を待つべき場所へと戻っていく。
そのあとは何となく、夢のようだった。
綺麗に焼かれた人の骨がごろごろと出てきて、それが私自身の骨であることは理屈ではわかっていたけれど、納得できるわけがなかった。
説明が終わると、二人一組になって、箸でそれらを壷の中に入れていった。しばらくすると箸は、私とルナさんに一膳ずつ回ってきた。私はルナさんとちらりと視線を交わすと、小さめの骨をひとつ、二人で掴んで壷の中に入れた。
どの骨がどの部位にあたるもので。そんな説明をぼんやりと聞いていると、肩を抱き寄せられた。誰だろうと思って見上げると、ルナさんが私を見ていた。どうやら心配してくれているようだった。
私の見知った両親や親戚やいとこが、私の骨をそっと拾って壷の中に入れていく。それらはとてもとても静かで、そして非常に異世界じみていた。けれどそれは、礼さんやルナさんにとっては間違いのない、現実だった。
……そんなことを思っていると、なぜか涙が溢れてきた。
この世界の私は、死んだのだ。
極まってしまった感情が収まるまでに少々の時間がかかったけれど、葬儀場という特性上、それから故人の親しかった友人という私の立ち位置上、特に問題のある行為というわけではなかった。もとより私の家族は『私』を送ることだけで精一杯のようだったし。
葬儀場で行う一連の作業が終わって、ルナさんの車に戻る。しばらくしてようやっと泣きやむことのできた私を見て、運転席に座ったルナさんは首を傾げた。
「大丈夫か? 気分が悪ければどこか落ち着ける場所を探すが」
「いえ、大丈夫です。……すみません」
軽く首を振って、無理もない、と言った。それは普通の人間なら体験するはずもないことだ。
そのとき、がちゃ、と音がして後ろのドアが開いた。
私が振り返って確認するよりも早く、声が飛んでくる。
「乗せてってくれ」
「礼さん」
私は思わず彼の名を呼んだ。
ルナさんはバックミラーを見ていた。それで彼を確認したようだ。
「お前、何で来たんだ」
それは理由ではなく、彼が斎場まで来た手段。
「おばさんの車。けど、なんとなく」
礼さんはルナさんの許可が出るよりも早くバックシートに座ると、黒いネクタイを緩めた。そうして軽く、息をつく。
「慣れないな」
「こんなものに手馴れる奴なんて葬儀屋くらいなものだ」
「それもそうか」
そう納得する礼さんに向けて、彼女は尋ねる。
「どうする? 帰るなら、うちの最寄の駅でよければ送るが。
帰って一人でめそめそ泣くっていうなら止めはしない」
「泣けもしねえよ、馬鹿」
憮然とした面持ちで礼さんは言った。それはそうだろう、死んだはずの人間がなぜか別の世界から現れて目の前で生きてしまっているなんていう、どう捕らえたらいいのかよくわからない現状では、真の故人の前でどんな顔をしたらいいのかわかるまい。
ルナさんはセレクトレバーにただ左手を置きながら、ぽつりと。
「泣いておいた方がいいぞ。人間、泣けるときに泣いておかないと性格が歪む」
「体験談か?」
「さあどうだろう……というかお前は私の性格が歪んでいると思っているのか」
「お前の性格が歪んでないって言うんなら、人間関係で悩む人間は世の中から一人としていなくなるだろうな」
と返すと彼女は、あまり心外ではなさそうに「心外だ」と言った。表情はその返答を予測していたとでも言いたそうなものだったけれど。もしかしたら彼女は、そう言われ慣れているのかもしれない。
「取り敢えず私の家の方に向かって走らせる。寄って帰るにもどこかで飯を食うにも、それまでに決めて言ってくれ」
「了解」
言うと彼女はセレクトレバーを動かした。アクセルをゆっくりと踏み込んで、そうして車は動き出す。後部座席から礼さんが呼びかけた。
「安全運転で頼むぞ」
「私の『安全運転』は、TPOを弁えた運転のことを言うから安心しろ」
私は、なら安心だ、と思ったけれど彼はそうは取らなかった。
「速度制限を守れって言ってるんだ馬鹿」
それにルナさんは何も答えず、ただ代わりに軽く舌打ち。
どういう意味だろう。二人の会話の意味が理解できず悩んでいると、苦々しい口調で礼さんが注釈を入れた。
「人がいなきゃ一般国道で百キロ出しそうで怖いんだよ、この暴走車両は」
……そんなまさか。
と思ってルナさんを見るが、彼女は私を見なかった。どうやら礼さんは、間違ったことを言ってもいないらしい。
ハンドルを取りながら式場の敷地を出て行きながら、呟くようにルナさんは言った。
「やっぱりオートマはつまらんな。ギア変換があるほうが面白い」
「マニュアルの車なんか持ってるのか」
「今はない。私が中古で買った先代はそうだった。私の許可なく乗り出した兄が派手に壊したが」
その際に兄に新車を買ってもらった、と続ける。
それから思い出したように、彼女はぽつりと言った。
「ああ、そういえばお前――先生が呼んでたぞ。渡したいものがあるがなかなか会えなくて困ってる、あとで会ったら伝えておいてくれってな」
「いつ?」
「五日前だったかなぁ」
と、彼は目を見開いた。
「なんで早く言わないんだよっ」
「あの状態のお前に下手なこと言えるか」
抗議の言葉に、しかしルナさんはそうあっさりと返した。すると彼は何も言い返せなくなる。
「まあ、現在の緊急事態にかまけていて言い忘れていた私も悪かったがな。どうせだからこの後、車を置いたら学校へ行こうか。いろいろやりたいこともあるし」
そうしてオートマチックの四輪自動車は、公道へと足を踏み出す。




