ショートストーリー
「明日、会おう」完結おまけSSです。
黄泉路から帰ってきて、普段の生活に戻った智加と明来。
智加は自分が言霊で傷つけてしまった柴田弘美の病室を訪れていた。
ショートストーリー
「柴田さん。柴田弘美さん」
智加はその耳元に小さく囁いた。今は夜の10時を回ったくらいだ。しんと静りかえった病棟に、時折誰かが歩く足音が響いてくる。
目の前に眠っている女性は、以前、智加が言霊を使ったことにより、記憶を失った女生徒だ。
『あんた、誰だ?』と言っただけだったのだが。
あの時、暴行を受けた明来を見て、カッとなった。我ながら、情けない。
男はほうっておいても、治療で臓器は回復するだろう。しかし、柴田弘美は、治療でなんとかなるとは思えない。
「柴田さん。弘美さん」
智加はまた名前を呼んだ。彼女の中の眠った彼女を揺り起こすかのように。
ううん、と唸って、柴田弘美は小さく寝返りを打った。智加はしばらくの間、椅子に座ってじっと見いてた。
なんでこんなことをやろうなんて思ったのだろう。
誰がどうなろうと、構わないのに。
枕元には、キラキラと光る天使の羽や月、ビーズで作られた猫が飾ってあった。彼女の回復を願い、置いたのだろう。
「明来か」
こんなことをするのは、智加はため息をついた。
その時、病室のスライドドアが静かに開いた。そこに立っていたのは、明来だった。驚いたような顔をして、こっちをじっと見ていた。
智加は立ち上がると、ベッドから少し離れて立った。明来は無言で近づくと、彼女の枕元に、新しいアクセサリーを置いた。水晶やローズクオーツ、花のモチーフのついたブレスレットだ。枕元にそっと手を置くと、明来はじっと彼女の顔を覗き込んだ。何も言わず、ただじっとその顔を見ていた。
何も知らず、すんすんと寝息をたてている。茶色に染めた髪はぱさぱさで荒れていた。顔は白っぽく、肌は粉がふいたように乾燥し、皮膚が剥けていた。
小さく唇を引き結ぶと、明来は立ち上がった。智加はもう一度彼女に近づくと、そっと名前を呼んだ。少しくすぐったそうな顔をして、柴田弘美は眠りつづけた。二人は病室をあとにした。
しばらく歩くと、小さな自販機のある待合室に出た。深夜で誰もいなかった。二人は椅子に並んで座った。
「東辞、来てたんだ? ありがとう」
「お前に、礼を言われる筋合いはないが」
「うん。でも、嬉しかったから」
「男のほうはだいぶ良いそうだな?」
「うん。来週あたり退院みたいだ」
「そっちにも顔を出してるのか?」
「ううん。どっちも直接は会ってないんだ。会って、なんて言っていいか判らないから。夜寝静まってる頃に、顔だけ見にきてたんだ」
「お前は被害者だろ?」
明来は目を見開いたかと思うと、ううんと言って、顔を横に振った。
「東辞が来てくれたから、もう安心だ」
明来は笑った。こぼれそうなくらい満面の笑顔だった。
智加はふいに視線を逸らした。正直今でも柴田弘美のことなど、どうなってもいいと思っている。自分には関わることもない知らない人間だ。なのに、明来はそんな顔をする。
「記憶が戻るかどうか、判らないがな」
「うん」
「治らないかもしれない、って言っている」
「うん」
「なんだ、その顔は?」
明来はにやにやしっぱなしだ。
「だって嬉しいんだから、しょうがないだろ。東辞が彼女を治そうと、こんな夜更けにこっそり忍んで、言霊を使ってくれている。そうだよな?」
「知るか」
「あはは。照れない、照れない」
満面のにやけ顔で、じっとこちらを見ている。智加はふんと言って、そっぽを向いた。なにかとても恥ずかしいことをしているように思えてきた。その時ふいに、思い出した。
「そういや、お前、俺の親父に啖呵を切ったそうだな?」
「へ?」
「智加さんを僕に下さい、とかなんとか」
「あ。あれは、そのー」
「高宮が防犯カメラの映像を動画にして、あちこちにみせびらかしてるぞ」
「ええーーーっ!?」
「お前、高宮を怒らせたんだろ?」
「がー、まずい。そうかも。東辞と二度と会うなって言われたし」
「そんなこと言われたのか?」
「東辞だって、あの時二度と会わないって言ったじゃんか」
「ああ。そうだな」
「あれは無しだよな。もう何度も会ってるしさ。オレたち、親友だもん」
「親友?」
「え? なんでそこで止まるのさ」
明来の腕を掴むと、智加はその身体を引っ張った。鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づけると、明来は目を見開いて固まっている。
「な、なに?」
「親友? 妻の間違いじゃないのか?」
「つ、妻?」
「智加さんを下さい。そう言ったんだろ?」
「あ、いや。それは」
「だったら、俺は妻だろ? お前が旦那様。可愛がってもらおうじゃないか。こんな可愛い妻は二人といないぞ」
智加は明来の髪に触れた。そのまま撫でて、指の背で頬をなぞった。唇は半分開いていて、ふっくらした下唇が目の前だ。そのまま指で顎を触り、人差し指で、唇の線をなぞった。
真っ赤になって、たじたじとなった明来がビクッと肩を揺らせた。
「ぷっ」
智加は堪えきれずに笑い出した。あまりにも可笑しくて、腹がよじれそうだ。顔を手で覆って、必死になって笑いを噛み締めた。
「東辞っっつ!」
「あはは。悪い。冗談だ。まじになってるから、つい」
「ばか、あほっ」
明来が智加の肩や腕をぽかぽかと殴った。その手をやんわり止めて、智加は正面を向いた。白い壁には、肺炎予防のポスターが大きくかかげられていた。
「こんなふうに笑うのは、いつぶりだろう」
「外じゃ喋らないって言ってたもんな」
「外と言うより、誰ともな。母以外は」
「お母さん?」
「ああ。母はお前と一緒で、俺の言霊に全く影響されない体質だった。母と約束したことは、学校では喋らないこと。小学生の俺は、感情がまだコントロールできなかったからな。怒りやマイナスの感情を表に出すことはできなかった。家に帰るまで、必死で押さえ込んでいたんだ」
「小学生で? オレなんて怒ったり泣いたり、友達とケンカなんてしょっちゅうだ」
「そうだろうな。それが普通の小学生だ。ケンカもしない、誰とも仲良くならない。母と俺は転々と住まいを変えたから、深入りする暇もなかったが、どんな思いも、母だけは聞いてくれた。俺はそれで良かった」
「なんでも喋れたのか?」
「ああ。悔しかったことや怒りにぶちまけたことも。母は全部受けて止めてくれた。それは普通の感情だって、言ってくれた。怒ったり泣いたり、笑ったり。そうやって毎日色んなことを経験していく。そう言って、俺を特別視せず、普通の子供だって言ってくれてた」
「東辞……」
「なんでお前もそうなのか判らないが。こうやって喋れるのは、楽しい。楽しいことなんだって、思い出した。俺も人と変わらない、普通なんだって」
ふいに腕を掴まれた。嬉々と笑う明来が、自分を見上げている。
「そうだよ。東辞ってば全然変なやつだし、口悪いし、意地悪だし。そんなやつにはきっとやっさしいーオレ様が必要だったんだな。だから神様が傍に置いてくれたんだ。出会うべくして、出会ったね。感謝しろよ、東辞」
「図にのるな」
「へへへ。いいじゃん。東辞のお母さんの話、もっとしてよ。どんな人? 美人なんだろうな」
「美人? そうだな。綺麗だな。静かで穏やかで、いつも笑ってて」
「へえ。料理うまい?」
「ああ。なんでもうまかった。お菓子も作るし、和菓子も」
「そういや、東辞、甘いの好きだよな。卵焼きも甘いのにしろって」
「そうか。気づかなかった」
「なんて呼ばれてたんだ?」
智加は少し目を細めた。遠い記憶を呼びすますように。狭いアパートの、母の面影が現れてくる。
「はるかって」
「可愛いな。はるか」
「殴るぞ」
「ケンカとかした?」
「しない。する必要ないしな。お前じゃあるまいし」
「えー。オレはケンカなんて」
「してただろ? お前バカだから、きっと母親に怒られてた」
「そんなことない。オレのお母さんは」
途端、明来の目から大粒の涙が落ちた。ぱたぱたと膝の上に涙が落ちて、幾つも染みを作っていった。
膝の上にあった手が、ぎゅっと固く握りこまれた。
「あれ、なんで。オレ……、おかしい」
明来は手で涙を拭った。拭ってもふいても、それは次から次に溢れて、流れていった。明来はついに両手で顔を覆った。
「悲しくなんて、ない。オレ」
「判っている」
智加は明来の頭を引き寄せた。自分の肩に明来の顔を埋めさせた。明来はされるがまま、必死に声を堪えている。身体はこわばり、硬くなったままだ。
「我慢するな」
途端、明来がしがみついてきた。顔をうずめ、智加の上着をぎゅっと掴んでいる。智加は明来の頭に手を置くと、静かに髪を撫でた。
明来は気づいただろうか。
黄泉路で母にすがった涙とは違って、この涙は温かなことを。
母親の話をしようとした瞬間、母がこの世にいないことを悟ったのだ。お守り袋もない、不安定な現実を、明来はようやく歩き始める。
この涙を、智加は流させてやりたかった。
(それでいい……)
院内の照明は薄暗く、静まり返った廊下に動くものはなかった。自動販売機の稼動する音が、静かに鳴り響いていた。
(了)
「明日、会おう」智加&明来シリーズ(1)は、これで完結です。
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。
お話はまだ続きます。お時間がありましたら、どうぞお付き合いください。
どうもありがとうございました。