空から降ってきた少女
「……う、ううん……」
S級ダンジョンの最深部、木陰に放置されていた元悪徳上司の鮫島が、目を覚ました。 彼の記憶は、黒い子熊に凄まじい殺気を当てられ、泡を吹いて倒れたところで途切れている。
「クソッ……俺としたことが、熱中症で倒れるなんて……」
フラフラと立ち上がった鮫島の視界に飛び込んできたのは、完成したばかりの立派なログハウスと、即席の露天風呂。そして、風呂上がりらしき高坂紬が、金髪の外国人と何やら談笑しながら、スマートフォンで配信を続けている姿だった。
『いやー、温泉の熱で茹でたゆで卵、最高ですね!』
「おい、高坂ぁ!!」
鮫島は懲りずに大声を上げ、ズカズカと高坂のもとへ歩み寄った。 先ほどの気絶を完全に「ただの貧血か熱中症」だと思い込んでいる鮫島は、再び高坂の配信を乗っ取ろうと企んでいた。
『あれ?部長、目覚めたんですか。体調大丈夫ですか?』
「うるせえ!いいご身分だな。お前が遊んで稼いだ金は全部ウチの会社のもんだって言ってんだろ!さっさとそのスマホを……ん?」
鮫島の目が、高坂のすぐ後ろで羽を休めている巨大な鳥――炎の翼を持つS級魔獣『不死鳥』に釘付けになった。
「なんだこの鳥……めちゃくちゃ綺麗じゃねえか。おい、これもここで捕まえたのか?これだけデカくて珍しい鳥なら、裏ルートで剥製かペット業者に売れば数千万にはなるぞ!慰謝料代わりにこいつは俺が貰っていくからな!」
鮫島は下劣な笑みを浮かべ、高坂の制止も聞かずに不死鳥へと手を伸ばした。 だが、S級指定の伝説級生物が、羽虫のような一般人の接触を許すはずがない。
『ピョエ?』
不死鳥は不思議そうに首を傾げると、「クシュンッ」と小さなくしゃみをした。 その瞬間、不死鳥の嘴から漏れ出た小さな火の粉が鮫島を包み込んだ。 【地主】スキルにより、高坂の所有地内での『人間への致命傷』は無効化されている。しかし、身につけている『衣服』は別だった。
「あ……?」
ボワァッ!!という音と共に、鮫島の着ていた数十万円の高級スーツが、一瞬にして粉々となって消え去った。 それどころか、彼が長年ひた隠しにしていた『高級カツラ』までもが綺麗に燃え尽き、太陽の光を反射してピカピカに輝くハゲ頭が露わになったのである。
「ヒッ……!?あ、熱くねえけど……俺のスーツが!?俺の、俺の髪がぁぁぁぁっ!?」
水玉模様のトランクス一丁と、見事なスキンヘッド。 その哀れで滑稽な姿は、同時接続者数五十万人を超える高坂の配信カメラに、4Kの高画質でバッチリと抜かれていた。
【ファッ!?】
【カツラだったのかよwwww】
【手品かな?】
【不死鳥のくしゃみでカツラ燃えるの面白すぎんだろwww】
【オッサン、パンツ一丁で何してんの?ww】
コメント欄が爆笑の渦に包まれる中、鮫島は自身の頭頂部を触り、すべてを失ったことを悟った。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!おぼえてろよぉぉぉぉっ!!」
社会的な死と大恥をかいた鮫島は、両手でハゲ頭を押さえながら、全速力でダンジョンの出口へ向かって逃げ帰っていった。
「……ボス・ツムギ。イマノ男ハ、敵対組織ノ暗殺者デスカ?ワタシガ追イカケテ、始末シマショウカ?」
『いやいやアーサーさん、物騒なこと言わないでくださいよ。ただの元上司です。カツラだったんですね、あの人……』
高坂が呆れたようにため息をついた、その時だった。
――パリィィィィンッ!!
突如、露天風呂のすぐ近くの空間が、ガラスが割れるような音を立てて砕け散った。
どうやらS級ダンジョンのコアをとんでもない方法で起動した影響で、次元の断層にズレが生じ、別の場所にあるダンジョンと空間が繋がってしまったのである。
「ヒャアアアアアッ!?」
空間の亀裂から、一人の少女が悲鳴を上げながら転がり落ちてきた。 彼女はそのままフカフカの黒土(世界樹のネギ畑)の上をゴロゴロと転がり、高坂の足元で停止した。
「い、痛たた……」
少女は、傷だらけの安い革鎧を身に纏い、手には刃こぼれしたみすぼらしい剣を握っていた。
彼女の名は、神崎しずく17歳。
数年前にダンジョンのスタンピードで両親を亡くし、残された病弱な10歳の弟を養うため、危険を承知で探索者となったばかりの、一番下のランクである『F級攻略者』だった。
(……あ、あれ?私、死んだんじゃ……?)
しずくは混乱していた。 つい数秒前まで、彼女は埼玉県の初心者向けF級ダンジョンで、予期せぬE級モンスターの群れに囲まれ、死を覚悟していた。 弟のために死ねないと必死に剣を振るっていたところ、突然背後の空間が割れ、ここに吸い込まれたのだ。
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。 見たこともないほど巨大な丸太の家。赤黒く光る温泉。寝そべる黒い熊に、炎の鳥。 そして、スコップを持ったジャージの青年と、凄まじい筋肉の外国人。
「……ま、魔王……?」
しずくの脳が理解を拒み、無意識のうちにそんな言葉が漏れた。
『魔王って。俺、そんなに悪人面かなぁ』
ジャージの男――高坂が、苦笑いしながらしゃがみ込んだ。
「ひっ……!こ、殺さないで!私には、私が死んだら生きていけない弟がいるんです!お金なら、今日の稼ぎの三千円がリュックに……!」
しずくはガタガタと震えながら、涙目で命乞いをした。 そんな彼女を見て、高坂は「ああ」と納得したように頷いた。
『なるほど。君も道に迷っちゃったんだね。こんな山奥まで、コスプレの撮影か何か?その剣、すごく使い込まれててカッコいいけど』
「こ、コスプレ……?」
(この人、何言ってるの……?私が本物の探索者だと分からないの?それに、この信じられないほどの澄んだ空気……ダンジョン特有の息苦しさが全くない……?)
しずくが呆然としていると、高坂がポイッと何かを投げてよこした。 しずくが慌ててキャッチしたのは、真っ赤に熟れた、ルビーのように輝くプチトマトだった。
『お腹空いてるでしょ。泥だらけだし、ここで少し休んでいくといいよ。それ、うちの畑で採れたトマト。甘くて美味しいよ』
「ト、トマト……?」
しずくは、手の中のトマトを見つめた。 F級の彼女には分からなかったが、それは一口かじれば寿命が延び、あらゆる病を治すと言われる『神々の黄金林檎』である。 数日間、弟の薬代のためにまともな食事をとっていなかった彼女のお腹が、グゥゥッと可愛らしい音を立てた。
恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、しずくはそのトマトをそっと口に運んだ。 ――プシュッ。 果汁が口の中ではじけた瞬間。
「……えっ?」
しずくの体から、疲労と痛みが嘘のように消え去った。 それどころか、彼女の中に眠っていた微小な魔力回路が、濁流のようなエネルギーを帯びて爆発的に拡張されていく。 美味しい。こんなに美味しいものを、私は今までの人生で食べたことがない。
「あ、あま……い……おいし……っ」
しずくの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。 両親が死んでから、弟の前では絶対に泣かないと決めて、ずっと気を張って生きてきた。その張り詰めていた糸が、ジャージの男がくれた一つのトマトの優しさで、ふっと解けてしまったのだ。
『そんなに泣くほど美味しい?よかったら、もっとたくさんあるから、弟さんのお土産に持って帰りなよ』
「ほ、ほんとに……?こんないいもの、もらっていいの……?」
『もちろん。俺の畑で採れたただの野菜だからね。あ、俺はツムギ。君の名前は?』
「……しずく。神崎、しずく……」
ジャージの男が差し出してくれた手を、しずくは震える手でそっと握り返した。
【なんか女の子降ってきた!?】
【迷子のレイヤーさん?めっちゃ泣いてて可哀想】 【トマト食べて泣くとか、どんな過酷な人生送ってきたんだよ……】
【高坂ニキ、マジで誰にでも優しいな】




