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山林キャンプ


午前二時四十五分。誰もいない静まり返ったオフィスに、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。


デスクの上には、飲み終えたエナジードリンクの空き缶が墓標のように並んでいる。高坂紬(こうさか・つむぎ)は、充血した目で発光するモニターを睨みつけながら、ただひたすらに不動産物件のデータ入力を続けていた。

ここは業界でも悪名高いブラック企業。残業代という概念はとうの昔に消滅し、上司の怒号と理不尽なノルマだけが社員に与えられる唯一の報酬だった。


ふと、オフィスの壁に掛けられたまま放置されている薄型テレビに目をやる。

ミュートにされた画面の中では、派手なエフェクトと共に、剣や魔法を操る若者たちが異形の怪物(モンスター)を打ち倒していた。画面の端には『国内最大ギルド【天帝の剣】、新たなA級迷宮を攻略!』というテロップが踊っている。


「……いいよな、攻略者(シーカー)は」


ひび割れた唇から、乾いた声が漏れた。

現代は、世界各地に「ダンジョン」と「モンスター」が出現した狂乱の時代だ。それに伴い、超常の力を得て迷宮に挑む「攻略者」たちは、莫大な富と名声を掴む新しいスターとして世界中から熱狂的な支持を集めている。


高坂もかつては、そんな光り輝くステージを夢見た一人だった。

ダンジョンの危険度やモンスターの強さ、そして攻略者の実力は「S、A、B、C、D、E、F」の七段階で厳密に評価される。この世界には絶対的な「戦力比の法則」が存在し、例えばF級モンスター一体を安全に討伐するには、同ランクのF級攻略者が三人、あるいは一つ上のE級攻略者が一人必要とされている。

これが上位になればなるほど絶望的な差となり、A級モンスターを倒すにはA級が三人、あるいはS級が一人。そして頂点であるS級モンスターともなれば、「S級攻略者三人」——すなわち、一つの国家の総戦力レベルが要求されるのだ。


そんな残酷なほど明確な実力主義の世界で、高坂が適性検査で叩き出した魔力値は、まさかの「ゼロ」だった。

さらに発現したスキルは、過去に一件の確認例すらない【地主】という謎スキル。

訓練所では火の粉一つ出すことができず、教官からは「史上最低のハズレ」「お前が攻略者になるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない」と嘲笑され、早々に夢を諦めるしかなかったのだ。


結果、行き着いた先がこのブラック不動産での奴隷のような日々である。

ストレスで胃は常にキリキリと痛み、最近は耳鳴りまでやまない。心身ともに限界が近づいていることなど、とうの昔に気づいていた。


高坂は溜息をつき、作業の手を止めてスマートフォンを取り出した。

彼にとって、この地獄のような日々を生き抜くための「唯一の癒し」に触れるためだ。


画面に映し出されたのは、派手な戦闘や煌びやかな攻略配信とは無縁の、薄暗く素朴な映像だった。

『ヤスさんの田舎暮らし・まったりキャンプ日記』

チャンネル登録者数、わずか三百人。

画面の中では、日に焼けた初老の男性——ヤスさんが、手慣れた様子で焚き火の準備をしている。


『えー、今日はですね、この山奥の洞窟を見つけたので、ここを秘密基地みたいにDIYしてみたいと思います。いやぁ、男のロマンですよねぇ』


朴訥(ぼくとつ)としたヤスさんの声を聞いているだけで、高坂のささくれ立った心がスッと凪いでいくのを感じた。

世界中の人々がS級攻略者の派手な魔法に熱狂する中、高坂はヤスさんが語る「正しいテントの張り方」や「フェザースティックの削り方」に魂を救われていたのだ。


『洞窟っていうのはね、風をしのげる最高の物件なんですよ。ただ、奥に何があるか分からないから、入り口付近でしっかり火を焚いて、安全を確保するのが大事でしてね』


「……最高の物件、か」


高坂は、ふと自社の「不良物件リスト」を思い出した。

誰も買わない、開発もできない、税金対策にすらならない辺境の山林。その中に、ぽっかりと洞窟が空いているだけの、タダ同然で売りに出されている土地があったはずだ。


その瞬間、高坂の中で、張り詰めていた何かが「プツン」と音を立てて切れた。

もう嫌だ。

誰かのために数字を作るのも、理不尽に怒鳴られるのも、夢の残骸にすがって生きるのも。


「……辞めよう。全部」


翌朝。

高坂は、出社するなり部長のデスクに退職届を叩きつけた。


「はあ!? お前、今辞めてどうするつもりだ! どこも雇ってくれねえぞ!」

「お世話になりました。それと、ウチが抱えてる『西多摩の第4区画の山林』、俺の退職金と貯金で買い取ります」

「……あそこを? お前、気が狂ったのか? あんなの、土砂崩れのリスクばっかりで家も建たねえゴミの山だぞ!」


部長は腹を抱えて爆笑したが、高坂は一切気に留めなかった。

手続きを済ませ、自分名義の権利書を受け取った瞬間、高坂の胸にはかつてないほどの清々しい風が吹き抜けていたのだ。


数日後。

激安の軽バンにホームセンターで買い揃えたキャンプ道具一式を詰め込み、高坂はついに自分の「土地」へと足を踏み入れた。


うっそうと茂る木々。手入れなど一切されていない荒れ放題の山道。

だが、高坂にとっては光り輝く楽園に見えた。


「ここが、俺の山……!」


ズズンッ……!!


高坂が一歩、その土地に足を踏み入れた瞬間だった。

大気が微かに震え、世界を構成する目に見えない歯車が、本来あり得ない方向へと強引に噛み合ったような、奇妙な感覚。

だが、魔力が「ゼロ」である高坂には、空間そのものが書き換えられたという事実に気づく術はなかった。


【条件をクリアしました】

【スキル『地主』を発動します】

【対象エリア:高坂紬の所有地すべて】

【権限行使:物理法則の改変・魔力干渉の完全無効化・不法侵入者の強制排除・所有者の絶対強化etc……】


脳内に響いたはずのシステム音声すら、高坂は「なんか耳鳴りが治ったな」程度にしか受け取っていなかった。

ただただ、ヤスさんの動画で見た「洞窟での秘密基地作り」を実践できる喜びに満ち溢れていたのだ。


草をかき分け、斜面を登ると、ぽっかりと口を開けた巨大な洞窟が現れた。

中はひんやりとしており、奥へと続く道は真っ暗で底知れない。

高坂はランタンに火を灯し、意気揚々と洞窟の中へと進んでいった。


「おっ、いい感じに開けたスペースがあるぞ。とりあえず、ここを今日のキャンプ地とする!」


荷物を下ろし、周囲を見渡す。

すると、洞窟の壁際に「やたらとデカくて丸い石」が鎮座しているのを見つけた。表面は黒光りしており、どことなく神秘的な雰囲気を漂わせているが、高坂にはただの大きな岩にしか見えない。


「ちょうどいいな。ヤスさんも『焚き火の時は、大きな岩を風防と熱の反射板代わりにすると暖かい』って言ってたし。よし、これを使おう」


高坂はその謎の丸い石の目の前に、拾い集めた枯れ枝や薪を丁寧に組み上げた。

そして、ポケットから「ファイヤースターター」——マグネシウムの棒を取り出す。ヤスさんが動画で絶賛していた、ロマン溢れる着火道具だ。


「ええと、ナイフの背でこうやって削って……火花を散らす、と!」


シュッ、シュバッ!

高坂が力強くナイフを擦り合わせた瞬間、バチバチッと激しい火花が散り、薪の下に敷いた麻紐に引火した。


――その直後である。


カッ……!!!!


焚き火の熱が「丸い石」に伝わった瞬間、石の表面に無数の幾何学模様が浮かび上がり、鼓動するように激しく明滅を始めたのだ。


「うおおっ!? なんだこれ、すげえ勢いで火が燃え広がったぞ!?」


高坂は驚きの声を上げたが、それは火の勢いに対するものではなかった。

彼が風防代わりに使っていたその石こそ、数百年もの間、ただの岩に擬態して休眠していた『未発見のS級ダンジョンコア』だったのだ。

通常、S級ダンジョンコアを再起動させるには国家規模で計画、人員を投入し膨大な魔力の供給が必要となる。


しかし、高坂の【地主】スキルによって「この土地における絶対的なルール」が書き換えられた空間内で、あろうことか「直火で炙られる」という前代未聞の熱ショックを受けたコアは、システムのバグを引き起こし、強制的に再起動モードへと移行してしまったのである。


ズゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


洞窟全体が激しく揺れ、コアから放たれた極太の光の柱が、山の天井を突き破って遥か成層圏へと立ち昇っていった。

本来であれば、その場にいるだけで人体が蒸発するほどの超濃度の魔力波。

しかし、高坂は、ただ顔をしかめて手で風を遮るだけだった。


「わっ、すごい隙間風だな! でもヤスさんの言う通り、この石を風防にして正解だった。全然火が消えないぞ!」


高坂は呑気に笑いながら、燻製用のベーコンを串に刺し始めた。

自分が今、人類の歴史を揺るがす特大の爆弾の導火線に火をつけたことなど、微塵も気づいていない。


「よし、火も安定してきたし、次は害虫除けのネットでも張るか。ヤスさん式なら完璧だしな」


鼻歌交じりにキャンプの準備を進める高坂。

しかしその頃、彼の預かり知らぬ場所で、世界は未曾有のパニックに陥っていた。


◆ ◆ ◆


「どういうことだッ!? 説明しろ!!」


東京の中心にそびえ立つ、日本探索者協会(JSA)の本部ビル。

その最上階にある巨大なモニター室では、けたたましい警報音が鳴り響き、数十人のオペレーターたちが悲鳴のような声を上げながらキーボードを叩いていた。


「観測史上最大規模の魔力波を検知!! 間違いありません、クラス……S級です! 国内に、新たなS級ダンジョンが出現しました!!」

「馬鹿な!? なぜそんなものが突然現れる! 場所はどこだ!!」

「と、東京都の西多摩地区、第4区画の山林です!!」

「なんだと……!? そこはJSAの管理下にある封鎖指定エリアだろうが!」

「そ、それが……!」


血相を変えて報告に走ってきた部下の言葉に、JSAの幹部は耳を疑った。


「事務局のデータベースに致命的なミスが発覚しました! 該当のエリア、昨日付けで『一般の不動産物件』として、民間に売却登記されてしまっています!!」

「はあぁっ!? S級ダンジョンが丸ごとオマケでついてくる山林を、自腹で買ったイカれた素人がいるって言うのか!?」


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