第3話 血塗られた少女と、底辺からの反撃
ハウンド・グール――その名の通り、底知れぬ飢えと死臭を纏った魔獣の肉体を、俺は完全に我が物にしていた。
体長4メートルの巨体は凄まじい迫力を誇るが、その実態は生易しいものではない。あちこちの皮膚はところどころにただれ、黒ずんだ肉からは特有の腐敗臭が漂っている。死してなお動き続けるアンデッドのような変異を起こした肉体であり、自らの内臓から立ち上るドス黒い血と異臭は、まさに底辺を這いずる肉食獣そのものだ。
だが、その腐りかけた肉の奥底には、爆発的な筋力と、獲物を確実に仕留めるための鋭利な牙や爪が備わっていた。下層のムカデのときとは比べものにならないほどのプレデターとしての自信と、死肉を漁る獣の本能が、俺のなかに満ち満ちていく。
その強靭な嗅覚が、血の匂いと、それに混じる人間特有の汗の臭いを拾ったのは、ちょうど街道から少し外れた深い森の入り口に差しかかった時だった。
――人間か。
俺は音を立てぬよう、腐臭を放つ4メートルの巨体を低い草むらに潜ませ、気配を殺してその場へと近づいた。
そこに倒れていたのは、一人の少女だった。
年齢は十代の後半に見える。荒野の泥や血にまみれていながらも、その顔立ちは息を呑むほど整っていた。
乱れた月白の髪――透き通るような銀髪が、血に濡れてほほに貼り付いている。
目を引くのはその装束だった。ボロボロに引き裂かれてはいるが、生地の上質さや、随所にあしらわれた精緻な金糸の刺繍、そして胸元に誇らしげに掲げられた『見慣れない紋章』。異世界に来たばかりの俺にはそれが何を意味するのかさっぱり分かったが、ただタダモノではない雰囲気を漂わせていた。
さらに彼女の手には、使い込まれながらも何やら奇妙な、ゾワゾワとする底知れない力をまとった美しい直剣が握られている。彼女が、ただの箱入り娘ではなく、武器を使いこなすただ者ではない者だと物語っていた。
――人間が、こんな辺境の荒野で何をやっている?
俺が興味と警戒を抱きながら観察していると、背後の森の木々をかき分けて、荒々しい足音が近づいてきた。
「見つけたぞ……! 呪われた血を持って生まれた魔族め!」
現れたのは、鉄の甲冑に身を包んだ二人の男だった。
彼らが纏う重厚な鎧にも、少女のものと同じ紋章が刻まれている。身につけた装備や気配からして、ただの兵士ではなく、組織化された精鋭の追跡者たちだ。
血まみれの地面に這いつくばっていた銀髪の少女は、追手たちの声を聞きつけると、悔しそうに歯を食いしばった。痛む体を震わせながら両手を地面につき、死に物狂いで泥を這うようにして、ふらふらと自力で立ち上がる。血に染まった直剣の柄を力なく握りしめ、その美しい双眸で追手たちを睨みつけた。
「ふん、無駄な抵抗はやめろ」
先頭に立った冷徹な表情の男が、嘲笑うように吐き捨てた。
「まさか、一族を揺るがす大罪人が、こんな泥まみれの野垂れ死にを選ぶとはな。……『永遠の命と不死身の肉体』を手に入れられるというその血、我が君主であるお方の命令通り、ここで回収させてもらうぞ。大人しくその血を差し出せ」
「……私は、誰かの道具じゃない……!」
少女がかすれながらも凍てつくような拒絶の声を絞り出す。
彼女は追いつめられていながらも、まだ屈することなく、その瞳には強い意志の光が宿っていた。ただ、彼女は目の前にいる追手たちに致命傷を与えることができないでいた。手には剣を持ちながらも、人を殺す決心がどうしてもつかないのだ。その甘さが彼女をここまで追いつめ、死地に引きずり下ろしていた。
「慈悲深いことで。だが、その甘さが命取りよ。お前の『正体』を知った以上、生かしてはおかん」
男が冷酷に剣を抜く。しかし、彼女はその刃を向けられても怯むことなく、ぎっと追手たちを睨み返した。
――なるほどな。
草むらに潜む俺は、そのやり取りを聞きながら冷笑を浮かべる。
彼女は、国や組織といった大きな力から逃げ、その身を狙われているらしい。
生前、理不尽な組織の論理にすべてを奪われ、虫けらのように扱われた自分の過去が、なぜかその少女の姿に重なる。理不尽に追いつめられているその境遇には、どうにも虫酸が走る。
追手が剣を振り下ろそうとした、その瞬間――。
土煙を上げて飛び出した4メートルの巨獣(俺)を捉えようと、少女の瞳が怪しく紅く光った。
彼女が持つ特殊な眼には、目の前の異形の存在が放ち出す気配が生々しく映し出されている。そこにあったのは、自分に対する強烈な殺意や敵意ではなく――ただ冷徹なまでの生存本能と、追手たちに対する不快感だけだった。
自分に敵意がないことを眼の力で瞬時に悟った少女は、驚愕に目を見張る。
そして、ふいに目が合った瞬間。
彼女の特殊な眼を通じて、魔獣の奥底に巣食うドロドロとした感情が、津波のように流れ込んできた。
具体的な記憶までは伝わらない。しかしそれは、理不尽に肉体を切り刻まれた剥き出しの絶望と、底なしの殺戮衝動、そして世界そのものを呪い殺すような悍ましい殺意の残滓だった。
「っ……ひっ……あ……」
あまりに重く歪んだ呪詛の気配をダイレクトに浴びせられた少女は、胸を突かれるような眩暈に耐えきれず、大粒の涙をぽろりと零した。
「邪魔だ、クズども」
俺は4メートルの巨体を躍らせ、草むらから音もなく飛び出した。
狙うは先頭に立つ冷徹な男。腐りかけた肉体の底から爆発的な筋力を絞り出し、鋼のように硬く、触れただけで肉を断ちそうな禍々しい前足の爪で、男の胸を覆う重厚な鉄の胸甲めがけて全体重を乗せた強烈な殴打を叩きつける!
「グァッ……!? なんだ、この化物はっ……!」
不意を突かれた追手の男は、凄まじい質量と物理的な衝撃をまともに受け止めきれず、胸甲をひしゃげさせながらたまらず吹き飛ばされ、激しく地面を転がった。
底辺から這い上がったプレデターの反撃の狼煙が、今、静かに上がったのだった。




