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第1話 路傍のモヤ、害虫を穿つ


「お前の責任だろ、この無能が!」


 上司の唾が、顔面に降りかかる。


 ブラック企業の底辺で身を粉にして働いた結末がこれだ。数ヶ月間、不眠不休で作り上げたプロジェクトの全データを、上司はあろうことか自分の手柄として密かに競合他社へ売り払い、そのすべての罪を、一番下にいた俺へと綺麗に擦り付けたのだ。


 信頼していた同僚たちも、上司の保身のために「こいつが一人で勝手にやったことです」と冷徹な嘘の証言を並べ立てた。会社の利益のために心身を削り、尽くし続けた結果がこれだった。


 だが、絶望はそれで終わらなかった。


「会社のために残って始末書を書け」と夜遅くに呼び出された暗いオフィス。そこで待ち構えていたのは、冷笑を浮かべる上司と、裏で繋がっていた反社会的組織の男たちだった。


 借金の肩代わりだの、海外への不法な裏金づくりの身代わりだのとして、俺の身体は闇の臓器密売組織へと商品として売り飛ばされていたのだ。


 信頼していた仲間たちに笑顔でハメられ、監禁された冷たい地下室。麻酔など最初から用意されてなどいない。


 意識が冴え渡った地獄のような絶望の中、生きたまま腹を裂かれ、自分の臓器が次々と生々しく切り出されていく激痛に絶叫した。


 利用するだけ利用され、すべてを奪われ、最後は人間の尊厳も肉体もズタズタに引き裂かれて殺された。


 ――ふざけんな。

 ――ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな……!!


 悔恨と絶望、そして底知れぬ呪詛が、ドロドロの塊となって俺の魂を染め上げる。死してなお消えない強烈な執着と怨念が、俺の肉体を消し去ったあとに、一つの「歪み」を生み出していた。


 気がつくと、俺は青空の下にいた。


 いや、正確には「空の下」に浮いていた。


 見下ろすと、そこには半透明でぼんやりと輝く、ただの「モヤ」のような影がある。手足もなければ、顔もない。物理的な質量すらゼロ。風が吹けば木の葉のように流され、石ころ一つ動かすことすらできない、文字通りの「地縛霊ゴースト」だった。


「ここが……どこだよ……」


 声にならない思考が、虚空に溶ける。


 周囲を見渡せば、荒涼とした大地を巨大な魔物や、血走った眼をした山賊たちが我が物顔で闊歩している。ここは人と魔物が殺し合う無法地帯。そこかしこで強者が弱者を蹂躙し、命がゴミのように踏みにじられている。


 生前、あの会社で味わった理不尽な陰謀と全く同じだ。あそこでも、上の人間が私腹を肥やすために下を騙し、ハメて、すべてを奪い尽くした。


 そしてこの新しい世界でも、結局は同じ構図が敷かれているのだろう。力を持たない者は、最初から騙され、虫けらのように踏み潰されていく運命なのだと、本能が理解していた。


 怒りが、冷徹な炎へと変わっていく。


 ――もう、二度とごめんだ。

 ――奪われる側には戻らない。あの会社でも、このクソみたいな世界でも、上に立つ者たちがすべてを支配し、下の人間を虫けらのように踏みつぶしていくのなら……。


 その強烈すぎる執念が、俺の存在そのものを変質させる。実体を持たぬはずの霊魂に、他者の生を奪い、自らのものとするための歪んだことわり――『魂魄強奪ソウル・スナッチ』の衝動が芽生えた。


 そうだ。指一本触れられないなら、相手の身体に直接入り込んで、丸ごと乗っ取ってやればいい。この世界に転がっている強者のすべてを奪い、俺の踏み台にして這い上がってやる。


 その時、俺の目の前の草むらを、ガサリと音が揺らした。


 這い出てきたのは、人間の拳ほどの大きさがある禍々しい大ムカデ――『ポイズン・センチピード』だった。紫色の毒液を牙から滴らせ、ギラギラとした複眼で周囲を威嚇している。魔物の下層に位置する、ただの害虫だ。


 だが、今の俺にとっては、この世の終わりのような巨獣に見えた。しかし同時に、本能が告げている。


 ――あれを喰らえ。あの肉体を奪い尽くせ、と。


「くそっ……! やってみるしかない……!」


 失うものなど最初から何もない。


 俺は風に身を任せるように急降下し、その半透明のモヤの身体を、巨大ムカデの頭部へと直接「叩き込んだ」。


「ガアアッ……!?」


 ムカデの意識が、激しく波立つ。


 脳みそを直接かき混ぜられるような激痛と拒絶反応が俺の精神を襲う。


 だが――こんなものの比ではなかった。あの薄暗い地下室で、信頼していた仲間に裏切られ、麻酔なしで生きたまま腹を裂かれ、臓器をえぐり出されたあの地獄の苦痛に比べれば、頭が割れるような痛みなど泥を噛むほどのちっぽけな苦痛にすぎない。


 組織の男たちにプライドも肉体も木端微塵に砕かれ、虫けらのように使い潰されたあの屈辱に比べれば、意識を引き裂かれる拒絶反応なんて心地よい微風だった。


 怨念の塊となった俺の執念は、生前味わったすべての理不尽と絶望をねじり込み、圧倒的な力でムカデの精神を叩き伏せる。拒絶する脳を焼き払い、脊髄の奥底まで俺の意識を染み込ませていく。


 ――支配する! 奪われる側に甘んじた過去など知るか。奪われ続けた鬱憤を晴らすため、この世界のすべてを俺の踏み台にして這い上がってやるよ!!


 肉体が変異する。


 半透明だったモヤの輪郭がドロリと溶け出し、ムカデの黒光りする外殻と完全に融合していく。


 頭の中に、ムカデの本能と感覚が雪崩れ込んできた。何十本もの足が地面を掴む冷たい感触。毒液を生成する内臓の熱。そして、微弱ながらも確かな薬品……いや、確かな「肉体」を持つという圧倒的な実感が、俺の魂を満たしていく。


 俺は、路傍の害虫の身体で、初めてこの世界の地面をしっかりと踏みしめた。


 空っぽだった「モヤ」の霊魂が、殺意と力を帯びたプレデターへと変貌を遂げた瞬間だった。


「……まずは、この街道を這い回る最初の獲物を、その毒牙でブッ殺してやる」


 足元を通りかかった別の魔物の影に向かって、俺は禍々しい複眼を向け、音もなく滑り出した。


 これは、名もなき最弱の地縛霊が、あらゆる強者の肉体を奪い尽くし、世界の頂点へと君臨するための狂乱の物語の、ほんの始まりに過ぎない――。

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