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茗荷  作者: 花村かおり
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茗荷1

その日は秋の長雨が終わり、天気の良い日だった。直子が勤める会計事務所は少し古いビルにあり、エアコン配備されているものの、ビルの設計が悪いのか、室内は少し汗ばむくらいであったが、直子は淡々と仕事を進めていた。

公認会計士の先生が1名、従業員4名、パートさんが3名の小さな事務所ではあるが、それぞれが担当毎に仕事を上手く回し、また人間関係もとても良かったこともあり、直子にとっては居心地の良い職場だった。直子は大学で会計を学び、公認会計士の第1段階となる試験は合格しており、この事務所で実務を経験しながら、残りの試験に合格して、ゆくゆくは公認会計士になり、独立などを考えていたが、居心地の良さに、ずっとこのまま補助者でも良いと思ってしまう。

年度末調整の時期は、ものすごく忙しくなるが、それ以外は残業も少なく、自分の時間もとれた。その日も定時を少し過ぎると、次々と社員が「おつかれさまです」と声をかけて帰っていった。直子もそれに違わず、挨拶をして事務所を出た。

事務所は直子の自宅から1駅ほどの場所にある。晴れた日は1駅、30分ほど歩いて帰ることが多かった。その日も天気のよさにつられて、30分歩いて家路についた。

直子の自宅は閑静な住宅街であったが、その中にぽつんと理容店と日本料理屋が2店並んで、商売を営んでいる。直子の家はその「ぽつん」の1つの理容店であった。日本料理屋は1つ小さな道を挟んで向かい側にあった。

家に帰ると両親が数名のお客の対応をしていた。お店は8時まで営業していたから、夕飯は直子が作ることが多かった。

昼間に母親が買ってきた食材を利用して、簡単なおかずを作って、食卓に並べるとその日の仕事が終わったような気がした。本来ならば、両親の仕事が終わるのを待って、一緒に食事をするのだが、その日はその気になれず、一人先に夕飯を済ませ、自分の部屋に戻った。

直子にはつい最近まで恋人がいた。大学時代の一期先輩で、テニスサークルで知り合った。大学時代から付き合っていたのではない。卒業してから、OB会で再開し、自然の流れで付き合うようになった。特にお互い猛烈に好きだったという訳でもなかった。でも、お互い気が合う相手だったし、付き合っている間は楽しかった。しかし、別れる数ヶ月前から詳しいことは良く分からないが、会社の経営が危うくなり、彼も仕事に付きっ切りになっていた。一週間に一度ぐらいは時間を作って、会うようにしていたが、それもままならなくなった。直子が心配してメールをしても、返信はほとんどなくなった。今年の夏の終わりに「私のこと忘れちゃったのかな?会いたくないのかな?」というようなメールを送った。それから、何度メールを送っても、返信が来なくなった。病気でもしていないかと、心配になって、昨夜、携帯に電話をしてみたら、着信拒否となっていた。そのとき、捨てられたのだと認識した。こんなこと生まれて初めてだった。

なんで捨てられたのか分からない。でも、受け止めるしかないのだ。よくよく考えてみれば、彼の外見も性格も好きではなかったような気がする。彼のことを本当に愛していなかったのだと思った。悲しくもなんともなかった。ただ、彼が不誠実であることに失望した。こんな風に簡単に捨てられてしまう自分が惨めになった。

「まあ、こんなこともある。考えても仕方ない」と声を出していった。

すると母親が私の部屋に入ってきた。

「直ちゃん、もう寝ちゃったの?」

「寝る訳ないじゃない、まだ8時前だよ」

「だってご飯先に食べちゃったみたいだから」

「ああ…、ちょっと、勉強しようと思って」

その割には参考書もノートも広げていないのを母親は気づいてか、

「あら、そうなの。勉強中悪いけど、寿屋さんに茗荷、分けてもらってきてほしいの。お父さんがどうしても冷奴の薬味に食べたいんだって」と言った。

「うーん。わかったよ」と私はしぶしぶ椅子から立ち上って寿屋に向かった。寿屋は向かいの日本料理屋さんのことである。寿屋の裏庭では、この時期になると茗荷が自然に生えてくるのである。

私は道を横断して寿屋の勝手口に向かった。


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