111 夏があまりにも暑いものだから
空は晴れている。
王都より北方の地。
涼しいとは言え、やはり夏は暑い。
公爵家と違い、陽を遮る壁もまともになければ、扇の一つもないのがこの家だ。
窓が一つしかないから、風も通らない。
これは、扇の一つも買っておくべきだったか。
ハルムは、開け放った窓の外を見ながらそんなふうに思う。
水はある。
川の水はほのかに温かいけれど、井戸の水は冷たいままだ。
あれで凌ぐことは出来るだろうと思ったのが間違いだった。
「暑いですわね」
ハルムの背後で、アセリアがそう呟いた。
アセリアが足元に置いた桶から足を出すと、ポタポタと、水滴が水面を叩く。
その音に耳を澄ませ、絶対に見るわけにはいかないと全力で見ないようにする。
「そうですね」
見たらお終いだと思った。
「ハルムは大丈夫なんですの?こう暑くて」
パチャパチャと音がする。
どうやら今度は、その足で水面を叩いているようだ。
想像する。
裸足のつま先が、水面に触れている。
ふくらはぎが、スルリと上に伸びている。
持ち上げられた太ももが、シャツの下から顔を覗かせる。
じゃあその先は?
そんなことを考える自分に嫌気がさし、そして更に見ないようにする。
「私は大丈夫ですよ。王都では、もっと厚い服をずっと着ていましたから」
「そうですの」
冷えた水に触れているからか、アセリアの返事はそれだけで爽やかさを帯びている。
「そういえば、」
アセリアの声が、風のようにハルムの耳に届く。
「執事服は、暑そうでしたものね」
「そうです」
ふと、王都にいる頃のアセリアを思い出した。
夏だというのに部屋の中でも簡素なワンピースすら着ないで、いつだってしっかりとコルセットをつけ、暑そうなドレスを身につけていた。
いつだって背筋を伸ばして。
自分だって、同じだろうが。
そんな文句を飲み込む。
ここに来てよかった。
……暑さのせいか、口に出来ない言葉ばかりが頭を巡る。
その間も、ピチャピチャという音が、背後で跳ねていた。
聞かないように、と意識すればするほど、それはうまくいかない。
どうしてそんなにも無防備なんだよ。
暑いせいか、冷や汗なのかわからない汗が、ハルムの顎を伝う。
膝の上に置いていた手の甲に、雫が落ちる。
せめて見ないように。
決して見ないように。
「ハルム」
背後から声がかかる。
「何ですか、お嬢様」
振り向くことはせずに返事をする。
「ハルム?」
アセリアのことだから、何か困ったことになっている可能性もないではないので、仕方なく振り向く。
すると、やはり桶の上で足をブラブラさせていたアセリアが、やや不満そうにこちらを見ていた。
「どうしてこちらを向きませんの?」
瞬間、ハルムの顔が真っ赤に染まる。
どうしてって。
その姿を見ないためだろ。
けれど、口にするわけにはいかなかった。
口にすることで、この家の中でまで、気を張らせるわけにはいかなかった。
かつてのアセリアのように。
だから言えない。
言うわけにいかない。
その足が見えていることも。
汗と桶の水のせいで、シャツがすっかり身体のラインに張り付いてしまっていることも。
暑さのせいで久しぶりに見えた首筋に、目を奪われてしまうことも。
「……開けた窓の方を向いていれば、少しは涼しいかと思ったんですよ」
アセリアが、キョトンとした顔で両足を桶の中に突っ込んだ。
「そうですの」
少し笑った君の顔が、あまりにも眩しいから。
俺はまた、窓の外を眺める作業に入ったんだ。
夏は特に我慢してそうなハルムくんですね。




