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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第四章「芽吹きの春と燃えるような夏」
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間話07「ベゼッセン視点_黒き赤」




 私は、底知れぬ暗闇の中に立っている。


 いや、違う。暗いのではない。


 これは、どす黒く濁った「赤」だ。


 視界を埋め尽くすのは、あの日焼き付いた光景。



 見渡す限りの、黒ずんだ赤。湿り気を帯びて重く沈んだ色が、世界の果てまで塗り潰している。足元も、空も、どこを向いても逃げ場はない。



 これは夢だ。



 頭のどこかでは分かっている。これは「今」ではないのだと。


 なのに――鼻を突くのは、吐き気を催すほどの生々しい鉄の臭い。


 それは喉の奥から、さらには胸の深淵から、じわりじわりと這い上がってくる。どれほど息を止めても、肺の奥底まであの夜の匂いで満たされていく。


 そして、その黒き赤の真ん中に――。


「人のようなもの」を認識した瞬間、私は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


 けれど、声はひとつも出なかった。



 ――これは、夢なのだから。







 ―――



 酸素を求めて水面へと跳ね上がるように、ベゼッセンは闇の底から飛び起きた。


 悲鳴のような音を立てて、肺が大きく膨らむ。一度、二度、三度。荒い呼気が静まり返った寝室に虚しく響くが、どれだけ吸い込んでも足りない。


 喉は焼けるように乾き、喘ぐたびに胸が痛んだ。


 全身が、嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。肌に張り付くシャツが体温を奪い、不快な冷たさが背筋を這う。布団を被り直しても、骨の芯まで凍りついたような震えは一向に収まらなかった。


 早鐘を打つ心臓の音が、鼓動の振動とともに耳の奥まで突き上げてくる。


 胃の底に鉛を流し込まれたような吐き気に耐えながら、ベゼッセンは上体を起こしたまま、しばらく動くことさえできなかった。



 ふと、視界の端で何かが揺れた。


 薄暗い部屋にたゆたう、紫の煙。


 そこには、ヴェルメがいた。


 いつからそこにいたのだろうか。首のない黒鉄の騎士は、ベッドの脇に音もなく佇んでいた。肩口から立ち上る紫の霧は、いつもより激しく、細かく揺れている。まるで、主の苦痛を代わりになぞっているかのように。



 ヴェルメは静かに動き出した。枕元の台から水差しを取り、迷いのない所作でコップへ水を注ぐ。黒い籠手がわずかに傾けられ、縁ぎりぎりまで満たされた水が差し出された。

 ベゼッセンは、強張った指先を震わせながらそれを受け取る。


 一気に煽った水の冷たさだけが、今この瞬間、唯一信じられる「現実」だった。


 空になったコップを返すと、ヴェルメはそれを慈しむように受け取り、音を立てず台へ戻した。続いて、もう一方の手から柔らかなタオルが差し出される。


 それを受け取り、額の汗を拭う動作さえ、今のベゼッセンには酷く緩慢で重苦しいものに感じられた。



 そして――拭い終えても、手の震えだけが止まらなかった。


 ヴェルメはしばらく、ただ無言でベゼッセンの前に立っていた。


 頭がない彼に、表情はない。声もない。それでも、長い年月をともにしてきたベゼッセンには分かった。その沈黙の佇まいに込められた、切実な響きが。



 ヴェルメはゆっくりとベッドの縁に腰を下ろすと、大きな腕を回し、静かにベゼッセンを抱き寄せた。


 黒い甲冑は、血の通った温もりを持たない。肌に触れる鉄の感触はどこまでも冷ややかで、無機質だ。



 それでも。


「......っ」


 ベゼッセンは、その冷たい腕の中で、糸が切れたように崩れ落ちた。


 抱きしめられるという、ただそれだけのことが、今の彼には何よりも必要だった。


 狂ったように跳ねていた心臓が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。硬直していた体から、ゆっくりと力が抜けていく。鉄の冷たさが、脳裏にこびりついた「黒き赤」の熱を、少しずつ、穏やかに塗り替えてくれた。



 いつの間にか、頬を涙が伝っていた。


 いつから流れていたのか、自分でも分からない。ただ、一度溢れ出した雫は、止める術を知らなかった。


「すまない......」


 枯れた声が漏れる。


「すまない......すまない、ヴェルメ......」


 誰に、何に対して謝っているのか。


 本当は、自分でも分かっていた。だからこそ、それ以上の言葉にならない。意味を持たせた瞬間に、保っていた全てが砕け散ってしまいそうで――だから彼は、「すまない」という言葉に全てを委ねるしかなかった。


 ヴェルメは何も言わない。声を持たぬ彼は、ただ、抱きしめる腕の力を微かに強めることで応えた。


 それだけで、十分だった。


「......すまない」


 ベゼッセンはただ繰り返した。

 涙を拭う気力もなく、弱々しく声を押し殺しながら、ただ。


 窓の外では、春の夜空がどこまでも静まり返っていた。


 二人を包むようにヴェルメの霧がゆるやかに揺れ、遠い星々は、地上の悲しみなど何も知らぬ顔で穏やかに瞬いている。


 ベゼッセンは、なおも泣き続けた。


 届くはずのない謝罪を、夜の静寂の中に、何度も、何度も、こぼしながら。


 ヴェルメはただ、そこにいた。


 夜が明けるまで、ずっと、彼の傍に。



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