富士子編 10 最上階‥エレベーター前
シーン10 最上階‥エレベーター前
会長室のドアを勢い任せで閉める。重いドアだから簡単だった。子どもっぽいとは思ったが、泣きじゃくる心の友ブルーを冷静にする為に、父に当てつける為にも、あえてそうした。されど、ちっとも心は晴れない。
ブルーを諭す。『お風呂に入って、服を着替えて来なさい』と。ブルーの愛らしいピンクのワンピースは、父の言葉の返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。涙に暮れる目を上げたブルーは『ふじ、ふじちゃん、ひと、ひとりで、だいじょぶ? 』しゃくり上げながら富士子に聞く。
『私は大人だから、大丈夫。それにまだ会社にいるわ。今は泣いちゃダメなのよ。それに泣くほどの事でもないわ』と答えた私に、ブルーはうなずき『え、えらい。ふじち、ふじちゃん、そばに居られなくて、ごめんなさい 』と言いながら、ヨタヨタと立ち上がり、歩き出して宮殿の奥へと消えた。
ブルーの背中を見送った途端に、富士子の怒りはぼんやりとした空虚に変わる。呆然としたままエレベーターホールへと歩く。全面ガラスの前に立ちすくみ、眼下に広がる東京砂漠を視点の合わない目で眺める。
会長室での会話を思い出そうとしたが、記憶は途切れていた。まただ。回復したと思っていたのに・・・。また、記憶を失うようになってしまった。不安が押し寄せてくる。ブルーと・・相談しなければ。
Bは富士子の3歩後ろに立っていた。外を見るでもなく、富士子を気遣う訳でもない。iPad画面に視線が釘付けだ。
富士子が静寂に包まれた頃、Bの今日の専用携帯が鳴った。Bは富士子に背を向けて廊下を歩き出し、誰かと会話し始めた。
保安上、本社ビル勤務の社員にはビル内・専用携帯電話が配布されている。この携帯電話を受け取るには、まず、正面玄関前の警備ゲートの認証機に社員書を通した後、右手の平の静脈認証を受け、警備員による持ち物検査と身体検査を受け、その後、警備員と共に保安室の隣にある管理室に移動して、その日の入室順に、ランダムに選択された番号の保管庫に、規定の個人スマホや電子端末等々を入れ、警備員が保管庫を施錠して、保管庫と同じ番号の社内専用の携帯電話を手にする事ができる。
まだまだ続く。警備員が管理している小型端末に、会社が決めた個人の認証番号を登録し、端末に表示されたパスワードを社内専用携帯に入力すると、ようやく専用携帯が起動する仕組みになっていた。
専用携帯に着受信した先の番号、メールアドレス、会話、メールの内容、内線、社内専用PCでのやり取り、その全てがビル内のスパコンで管理され、データ化されて保存される。
社内PCと専用携帯のメールアドレスは、3時間おきに自動変更され、入館時、警備員の端末に表示されたパスワードを打ち込んで、更新しなければ送受信できなくなる。保安に関して本社ビルは要塞の如く鉄壁だ。本社ビルにプライバシーはない。本社勤務の社員は皆、同意書にサインしていた。
液体デイバイスの機密性を内外の干渉から守るためには、仕方のない不自由さだった。
電話を終えて戻ってきたBは指紋認証のエレベーターボタンを押しながら、富士子に向き合い「ノンカフェと紙資料が、デスクの上に置いてあります。カフェはもう冷めてると思いますけど、レンジで温め直したらまだいけるでしょ。それ、飲みながらでも、資料に目を通してくれるとありがたいです」と言った。
いつもとは違うBの言葉遣いに不気味を感じつつ「そうするわ。ノンカフェ、いつもありがとう」と応える。
Bの口元がニヤリと緩む。その笑い方が、富士子は生理的に嫌いだ。




