富士子編 9 最上階・会長室
シーン9 最上階・会長室
国男はイギリス紳士が愛してやまぬブランド店で、仕立てた栗皮色のスーツに亜麻色のワイシャツを合わせ、芽吹きを思わせる深緑色のネクタイ姿で、フローレンス・ノールが手がけた朱色がかった羊羹色もきらやかな、3人掛けソファーの中央に深々と座っている。
鼈甲の伊達眼鏡をかけた切れ長の目に明達な光を称え、されど冷えた視線の国男は、富士子の表情を見据えていた。
ローテーブルを挟んだ一人掛けソファーに富士子は背筋を伸ばして座り、液体デイバイスの納期に関する打ち合わせは、これで何十回目だったろうかと、最近頻繁に行われるようになったと、何度説明を重ねれば理解するのかと、うんざりだと思いつつ、焦点を合わせていない目で、国男のスーツの襟で輝く金であろう社章を眺めていた。富士子の襟にもあるにはあるが、「社章です。会長から手渡すよう言われました」と言って樽太郎が差し出した桐箱を受け取りはしたが、開けもせず即刻に引き出しに入れたままで、富士子は小さな反抗心から今も、会社の売店で購入したものを使用している。
富士子の左隣のソファーに座ったBは、いつものポーカーフェイスだ。
今日の父との無言の対面は、すでに15分になる。Bは両手持ちしたiPadに親指で何かを打ち込んで、こちらの雰囲気を気にする様子もみせない。一体いつまで、この無駄で、無意味な、色彩に欠ける時間は続くのだろう。そう思ったら、欠伸が出そうになった。眠気を追い払いたく、富士子はお茶を飲む。
そのタイミングを掴んで国男は沈黙を破る。不意打ちだ。我が子の不意を突くとは、流石ですお父様。白けた気分でお茶を飲みながら聞く。
「どうして、ダメなんだ富士子。液体デイバイスの品質は、国の要望を今の70%の段階でも 、十二分に満たしているんだぞ。お前のこだわりのために、国家との契約をこれ以上は延ばせん。このプロジェクトはわが社に莫大な利益をもたらす。国益にもなる。いい加減にしろ」と言った父の言葉は、言葉の違いがあるけれど、その内容は毎回、父が語る液体デイバイスに対する見解と会社の方針だ。
いつもどおりに応じる。「確かに、会長がおっしゃる通り、今のままでも実用化は可能です。ですが、液体デイバイスが第2世代、第3世代と移行していくうちに、70%の第1世代がバグを起こしてゴースト化し、体内に残留する恐れがあります。ナノ化した混合液体の強度をあと0.2上げてから、実用化に踏み切らせて頂きたいと考えています」と事務的な口調で返す。この押し問答は今日はどこに向かい、どう着地するのだろう。0.2なんてとっくにクリアしているのよ、お父様。こだわりではなく、まだ、未完成なのです。ですから世に出すわけにはいかないのです。ただ、それだけです。不良品を納品するとはどうかしてる、お父様。冷め、白々とした心の中でそう思うが、口にはせず、父の目を見る。口に出すだけ、口論になるだけ、無駄だから。
二人の会話を聞いていたBはiPadを見たまま「今のまま実用化したら、ビッグデータが取れるんですけどね」とつぶやく。データが取れるチャンスを逃すなんて、勿体無い。液体デイバイスのアルゴリズムを、発見できるかもしれないのに・・・世間知らずな、お嬢様だ!いつものようにBも、内心で、富士子の頑固さを罵る。
白けた横目でBを見た富士子はBに言い返そうと思うが、今は父の説得が先だと思い直して、無表情の仮面をより一層、厚くして父に向き直り「70%の完成度しかない液体デイバイスには、3日おきに、4時間のメンテナンスが必要です。それでは利用者さんの精神が消耗します。混合液体にあと0.2の強度が加えられたら、メンテナンスは永久に必要が無くなると確信しています。ですから、待ってくださいとお願いしているんです。それに利用者に精神的な負荷をかけるのは、私が目指している事から大きく、ズレた結果をもたらします」、また、Bが口を挟む「欲しい。そのズレが起こす多様なデータを研究材料にしたい」夢見るように呟く。
会長然とした顔を引き締めた国男は「実用化したのち、取れたデータを元にして改良を加えていけばいいじゃないか。今と変わらん。何が違うんだ⁈これだと思う方向が確定した時点で、舵を切ればいい話じゃないか。今のまま運用した方が、Bが言うようにデータが取れる。使用感の意見だって聴取できる。その方がより効率的で、生産性がある。何度も言うが今の時点で、液体デイバイスを実用化するのは可能だ。他の研究者の総意も得ている」傲慢と言う言葉が口をきけたらこんな音だろう声で話す。
利用者の気持ちを考慮してないずさんとも言える感覚に、富士子は激しく憤る。その憤怒が宙に舞い上がり、ソファーに座る3人を、父と対立する自分を、Bの無関心さを、空中から観察しているかのような感覚を、富士子にもたらした。
富士子の脳は勝手に描き出した映像を富士子に見せ初め、突如、スパークして燃え上がる。炎上する炎が、父に対する富士子の怒りにエネルギーを注ぐ。
目が正座した富士子は「開発の軌道を修正したとしても、それまでの利用者さんはどうなるですか?不十分な完成度の液体デイバイスが、もし、何らかの不測事態を引き起こしたら、どうするんですか? 確かに今のままでも、そんなことが起きる可能性は低いと言えます。いえ、そんな事は起こらないと断言できますが、完璧なゼロとは言い切れません。もっと確実な精度にしてから、液体デイバイスの実用化に踏み切ってくださいと、先ほどから言っているだけです。会長、利用者は承諾書にサインしているから、不備が起きたとしても会社には関係がない、デメリットは説明してある、だから問題ない、な〜んて、思ってらっしゃいませんよね?利用者の人生は続いていくんです。開発者の私には、その方達の今後の人生に対しても責任があるんです」永久凍土の声で、富士子は淡々とキレた。
国男は動じる様子もなく、富士子をただ、ただ、見ている。
富士子の怒りが表情に現れた瞬間、国男は「何かを得ようとする時、何か大切なものを差し出した方が、より良きものが手に入ると富士子、そう思わないか」重低音で、スパリと言い切った。富士子の血が凍る。父の言いたいことが富士子には分かった。
【お前を得るために、私は最愛を差し出した。そのおかげで、莫大な富を私は手にする】母を、交渉材料にした……なんて人!!!!
流石のBもiPadから視線を流して、国男の顔を見る。執念ともいえる国男の商魂が放つ臭気に、さすがのBも耐えられずに顔をしかめ「 もう一度、データをさらいますか」と言いながら、ソファーから立ち上がった。
富士子も立とうとしたが、心も身体も深海から引き上げるように重い。父の言葉に、意志に、ダメージを受けていた。心が傷ついたのか、身体が強張っただけなのかが、わからない。とにかく身体が重い。仕方なく富士子は膝掛けに、右手をついて両ひざを伸ばしかける。
「期限は明日の18時だ」国男は最後の一打を悠然と放つ。
守銭奴。赤く、尖らせた目で父を見る。怒りを糧に、富士子はソファーから立ち上がった。




