Ⅱ
人の世にどんなことが起きていようとも、朝は必ずやってくる。
──こんなに穏やかな気持ちで朝を迎えるのは、久しぶりのことかもしれない。
柔らかく日が差し込む窓辺に置かれた、小ぶりな円卓。
用意された席につき、食後のお茶を味わっていたレティシアは、体を満たす温かさにホッと小さく息をついた。
「お口に合いましたか?」
そんなレティシアの安堵の吐息を聞き取ったのか、対面の席についたアナスタシアが口を開く。レティシアが視線を上げれば、アナスタシアは柔らかい日差しの中で、自身を照らす日差しよりも柔らかく微笑みながらレティシアを見つめていた。
今のアナスタシアは、部屋着用の簡素な淡水色のドレスを纏っている。食事の邪魔にならないようになのか、髪は後ろで緩く束ねられていた。柔らかな日差しの中に淡い色合いを纏うアナスタシアがいると、全てが柔らかく溶け合って暖かな空気の中に溶け出してしまいそうだ。
──『白銀の聖女』として夜の色彩を纏っているアナスタシア様も素敵だけど、こうして陽だまりの中にいらっしゃるアナスタシア様のお姿は……
何だか、見ているだけで、心が温かくなる。
「はい。お食事も、このお茶も、とても美味しいです」
「良かった! 料理人も、侍女のみんなも喜びます」
今まで対面してきたどの時よりもくつろいだ姿をしているアナスタシアは、ぐっと少女らしさを増していた。そんなアナスタシアが無邪気に喜ぶ様はますますウサギらしさが増していて、レティシアも思わず目元が緩む。
「安心して眠っていただけたようですし、少し安心できました」
だがその笑みは、アナスタシアが続けた言葉に吹き飛ばされた。
「アナスタシア様、今朝のことは忘れてください……」
「なぜですか? レティシア義姉様の寝顔を拝見できて、わたくしは嬉しかったです」
カアッと頬に集まる熱を誤魔化せずに視線を伏せると、今度はアナスタシアが目を細めたのが気配で分かった。きっと今のアナスタシアは、レティシアが寝起きに遭遇したようなあの麗艶な笑みを浮かべているに違いない。
──まさかわたくしが通された部屋が、アナスタシア様の寝室だったなんて……
昨晩、冷え切った体を風呂で温めたレティシアは、豪華な寝室に案内された。特に詳しいことを説明されず『今宵はこちらでお休みください』とだけ双子侍女に告げられたから、レティシアは深く考えることなく『急な泊まり客のためにこんなに豪華な部屋が用意されているだなんて』と素直に驚いた。
客間であるはずなのに、五人はゆうに並んで眠れるだろうという大きさの寝台が置いてあったり、寝具からアナスタシアが常に纏っている甘くも涼やかな香りが漂っていたりと、今思い返せば違和感の元は随所にあったはずだ。
だがアナスタシアが指摘した通り、レティシアは無自覚に疲れていたのだろう。『さすがアナスタシア様』と深く考えることなく感嘆したレティシアは、特に疑問を抱くこともなく素直に寝台に潜り込んだ……のだと思う。
その辺りが曖昧なのは、寝台に潜り込んで間を置かずに意識が落ちたからだ。『あ、アナスタシア様と同じ香りがする……』と思ったことまでは覚えているのだが、その香りが睡眠薬として働いたのかと疑いたくなる早さでレティシアの意識は落ちてしまった。
そして、今朝のこと。
淡く差し込む朝日の気配で意識が浮上したレティシアが目を開くと、真っ先に目に飛び込んできたのが麗艶な笑みとともに自分を見下ろすアナスタシアだった。
【おはようございます、レティシア義姉様】
いつになく近い距離よりも、アナスタシアが寝間着姿であったことよりも、今まで向けられたことがない艶やかな表情に目を奪われた。
【安心して眠っていただけたようで、嬉しいです】
──あ、あの艶やかな表情は、その……あの……
友人や、義理の姉に向ける表情ではなく、恋い慕う相手に向けるものだった。
さすがにあれだけ艶がダダ漏れていれば、その手のことに疎いレティシアも分かってしまう。
【警備面を考えると、休むのに一番安全なのがわたくしの寝台でした。「わたくしの寝台で一緒に寝てください」とお願いすると、レティシア義姉様に余計な緊張や遠慮をさせてしまうかと思ったので……】
だから、レティシアを先にアナスタシアの寝室へ案内し、レティシアが寝入るまで時間を置いてからアナスタシアが寝台に入ったという。見ての通り寝台は無駄に広いし、二人で寝ても十分に余裕はある、というのがアナスタシアの言だった。
【レティシア義姉様。わたくしはレティシア義姉様をお慕いしておりますが、お慕いしているからこそ、寝込みを襲うような真似は決していたしませんわ】
──そこはご信頼しておりますが……!
『寝顔をじっくり眺め倒す』は、『寝込みを襲う』には入らないのだろうか。ものすごく恥ずかしかったのだが。
──でも嫌ではなかったというか、……甘くて艶やかなアナスタシア様には、ドキドキしたというか……
「レティシア義姉様」
『こんな気持ちを、自分は一度でもアルバートに対して抱いたことがあっただろうか』と考えてしまったレティシアは、不意に真剣味を帯びたアナスタシアの声にハッと我に返った。
「込み入った話は、バートネット公爵がいらっしゃってからにしましょうと昨晩は言いました」
慌てて顔を上げれば、アナスタシアは真剣な表情でレティシアを見つめていた。その視線を真正面から受け止めたレティシアは、手にしていたティーカップを机に戻すと、スッと背筋を正す。
「はい」
「でも、その前に。……レティシア義姉様には先に、ご説明したいことがあります」
レティシアの視線を受けたアナスタシアは、一度言葉を切るとコクリと喉を鳴らした。
ここまで緊張したアナスタシアの姿を、レティシアは初めて見る。
「聖女の伴侶について、です」
重く切り出された言葉に、レティシアはそっと息を呑んだ。
だが視線を逸らすことなく、怯むこともなく、静かな心持ちで小さく顎を引く。
「お伺いいたします」
昨晩の舞踏会の場で、アナスタシアはレティシアへ『どうかわたくしの伴侶として、わたくしの隣でともに生きてはいただけないでしょうか?』と告げた。
あれは世間一般に言われる『プロポーズ』というものだ。あの一言をアナスタシアがその場しのぎで言ったわけでもなければ、レティシアへの同情や政治的な理由から口にしたわけでもないということは、アナスタシアの態度で察している。
アナスタシアは本気で、世間一般で言われている『伴侶』と同じ意味合いで、レティシアを自分の隣に迎えたいと口にしたのだ。
──だけど、わたくし達は女同士で……
そもそも『聖女』は次代の聖女が現れるまで、乙女でなければならない。つまり伴侶を迎えることなど許されない立場である、というのがレティシアの認識だ。
「まず、単刀直入に『聖女が伴侶を迎えることはできるのか』という点ですが」
レティシアが内心で思い浮かべた疑問を察しているのだろう。アナスタシアは余計な前置きをすることなく、レティシアの疑問に答えをくれた。
「実は、同性同士ならば許されます。ただし、あくまで『許される』であって、積極的に推奨されているものではありません。歴代の中で、在任中の聖女が伴侶を迎えた事例は数件ありますが、稀なケースであると言えます」
聖女は、アレスティア王国を守護する女神と、アレスティア王国の民を繋ぐ存在だ。女神からの託宣を受け取り、女神から与えられた力で不思議を操り、国と民を守る。
その聖女を選ぶのは、女神自身だとされている。具体的には、次代の聖女が覚醒する時期が近付いてくると、国と教会の重鎮複数人に同時に託宣が降るらしい。
聖女に選ばれる者は、乙女という条件のみが共通していて、特に他に条件があるわけではない。歴代を広く見れば王族から貧民まで、すでに歳を経た者から生まれたての赤子まで、身分も年齢も様々な乙女達が聖女に選ばれてきた。在任期間もまちまちで、幼い頃から死の瞬間まで聖女であった者もいれば、数年で退いた者もいる。
だが一番多いのは、少女の頃に聖女に選ばれ、結婚適齢期で任を解かれるというパターンだ。一度聖女として召し上げられた乙女達は元の身分が何であれ国の重鎮として扱われるため、大抵が貴公子と結婚することになる。
──巷の少女達が『聖女』へ強い憧れを抱くひとつの要因がそれだという噂でしたね。
「聖女の伴侶に選ばれた者は、公私を問わず、聖女の隣に、常に一番近くに立つことになります。王が王妃を伴って式典に参加するのと同じ感覚で、聖女は伴侶を伴って行動することが可能です」
「一番の護衛になれますね」
思わずポロリとこぼしたレティシアは、ハッと片手で口元を押さえた。そんなレティシアの様子にアナスタシアがキョトンと目を丸くする。
──アナスタシア様は、そういうつもりでわたくしを傍に置きたいわけではないでしょうに……!
レティシアが公爵令嬢でありながら剣を握ってきたのは、アルバートの隣に立った時に最後にして最強の盾となれるようにという実家の教育方針によるものだった。そうやって叩き込まれてきた思考の癖は、そう簡単に消えるものではない。
「レティシア義姉様に守っていただけるならば、わたくしはとても心強いです」
思わず赤面するレティシアに、アナスタシアは心の底から嬉しそうに微笑んだ。その純真な笑みに、レティシアは思わずほぅ、と見入ってしまう。
「事実、歴代の伴侶の中には、護衛官としての役割を帯びた方もいらっしゃったそうです」
失言からの羞恥を微笑みのひとつで消し飛ばしてしまったアナスタシアは、不意に真剣な表情をレティシアに向けた。
「レティシア義姉様。先程も申し上げました通り、聖女の結婚は強制されるものではありません。そしてわたくしは、生まれながらにして聖女でした」
アナスタシアの言葉に、レティシアは小さく頷いた。
国主の血筋に連なる者は、婚姻とは無縁ではいられない。
政略結婚は政を円滑に回すためのひとつの手段だ。国王の娘ともなれば、本人の意思など一切関係ない場所で婚姻を決められ、何を感じていようともその婚姻を呑まなければならない。
だがアナスタシアは、例外中の例外だった。
アナスタシアが聖女として指名されたのは、アナスタシアがまだ王妃の腹の中にいる時のことだった。生まれる前から聖女の託宣を受けていたアナスタシアは、五歳の時に正式に先代から聖女の座を継承している。
聖女は、乙女でなければならない。そして聖女はアレスティア王国になくてはならない存在だ。アナスタシアが現国王の娘であろうとも、聖女としての立場が当然優先される。
結果、アナスタシアは十六歳になった今でも、結婚とは縁遠い存在だった。生まれてから今まで婚約者候補の名さえ上がったことがない唯一の王族とも言える。
「この肩書きに、苦しめられたこともありました。窮屈な思いをしたこともあれば、重責に潰されそうになったこともあります」
アナスタシアの言葉を、レティシアは無言で受け止めた。アナスタシアを幼い頃から知っているレティシアには、その全てとは言えないが、片鱗くらいは感じることができたから。
「ですが、感謝もしていたのです」
真剣な視線を注ぐレティシアに、アナスタシアはわずかに瞳を細めた。その表情の中に滲んでいるのは、見る者の心を締め付けるような切なさだ。
「だって、レティシア義姉様が、お兄様の元に輿入れされる予定だったから。……わたくしが結婚しないで王宮に居座ることができれば、わたくしはレティシア義姉様に二番目に近い場所にいられる」
「アナスタシア様……」
──知らなかった。
アナスタシアが自分に心を開いてくれていることは知っていた。そうでなければレティシアはアナスタシアと私的な交流など許されていない。
しかしそれは、義姉として慕ってくれているからだと思っていた。アナスタシアがレティシアに恋をしていたからだとは、つゆとも思っていなかった。
──確かに、わたくしはその手の感情に疎いかもしれないけれど。
だが今回に限って言えば、レティシアが知らずにいたのは、アナスタシアが徹底的にその思慕をひた隠しにしてきたからだろう。
レティシアは、アルバートの婚約者だったから。アナスタシアが恋心を見せてしまえば、レティシアを困らせることになるから。
ここまでアナスタシアがレティシアに向けてくれた気遣いを思えば、その一心でアナスタシアが想いを秘め続けてきたのだと、レティシアにも分かってしまう。
「レティシア義姉様。わたくし、一生隠し続けられると思っていました。お兄様の隣で幸せそうに微笑むレティシア義姉様を、お兄様の次に近い場所から見ていられれば、それで幸せだって」
アナスタシアは、不意にクシャリと顔を歪めた。泣き出しそうになるのを必死に堪えている顔の中には、悔しさや怒り、それ以外にも言葉で表現できない苦みがグチャグチャに入り乱れている。
「本当に、そう思っていたのです……!」
泣けないレティシアに代わって、アナスタシアが泣いていた。
涙は流れていないが、アナスタシアは心の中でレティシア以上に泣き、怒っている。
レティシアの幸せを心の底から願い、自分の想いを全て封じ込めてきたからこそ。アナスタシアは今、その全てを踏みにじるような真似をしたアルバートに怒り、傷付けられたレティシアの心を思って泣いてくれている。
──馬鹿ね、わたくし。
その事実に少しだけ目を瞠ったレティシアは、次いでそっと目を細めた。
──こんなにわたくしを想ってくれている方が傍にいたのに、気付きもしないなんて。
「信じます、アナスタシア様」
こんな状況に置かれているのに、心がこんなにも温かい。
アナスタシアがここまで心を痛めてくれているのにそれが『嬉しい』だなんて、不謹慎なのかもしれないけれども。
「アナスタシア様は、本当に、何も告げることなく、わたくしの幸せを見守ってくださる覚悟でしたのね」
レティシアが柔らかく告げて微笑むと、アナスタシアの頬を堪えきれない涙がツッと一筋伝った。
その涙をグッと手の甲で拭ったアナスタシアは、席を立つとレティシアの隣へ回り込む。
「愛しています」
レティシアの隣に立ったアナスタシアは、レティシアの手を両手で握り込むと祈るようにその場に膝をついた。
「愛しているのです、レティシア義姉様」
「はい」
「わたくしがレティシア義姉様に向ける『愛』は、世間一般の男女の間で囁かれる『愛』と同じ種類です。本来ならば、同性間で向け合うものではない」
「そうでしょうか?」
己の罪を懺悔するかのように想いを吐き出したアナスタシアは、レティシアの静かな問いにコクリと頷いた。キュッとレティシアの手を握りしめるアナスタシアの手は細かく震えている。
「貴女の一番傍にいたい。貴女の一番になりたい。貴女を独り占めして、誰にも譲りたくない。……聖女としては不適格なもっと穢い感情も欲も、わたくしはレティシア義姉様に抱いてしまっているのです」
口で己の内にある激情を訴えながらも、レティシアの手を取ったアナスタシアの手は振り解こうと思えば振り解ける程度の力しか込められていなかった。
この場面でもアナスタシアは、レティシアが本気で逃げ出そうと思えば逃げ出せる道を残してくれている。レティシアを思いやり、踏みにじらないように気遣ってくれている。
「レティシア義姉様の逃げ道を奪ってしまった状況でこんなことをお伝えするのは、卑怯なことだと分かっているのです。それでもわたくしは、伝えないままレティシア義姉様のお傍にいることができなくて……!」
「いいえ、アナスタシア様」
それが分かったからこそ、レティシアは空いている手を自らの意思でアナスタシアへ伸ばした。うつむき続けるアナスタシアの頬へそっと指先を添わせれば、アナスタシアは弾かれたかのように顔を跳ね上げる。
「アナスタシア様がこの場でその感情をお伝えしてくださったのは、卑怯であるからではなく、わたくしに誠実でいようとしてくださっているからですよ」
涙で滲んだ満月の瞳には、レティシアだけが映っていた。
そのことに、なぜか胸がひどく甘く満たされる。
「アナスタシア様。わたくし、申し上げました」
その甘さを『幸せ』として噛み締めているのだから。
アナスタシア以上にきっと、レティシアの方が罪深い。
「アナスタシア様を、大切にしたいと」
レティシアがそっと告げると、アナスタシアはクシャリと顔を歪めた。その頬を、今度は幾筋も涙が伝っていく。
「アナスタシア様。わたくしは、アナスタシア様のお気持ちを、つい昨日知ったばかりです」
「っ、はい」
「すぐに同じだけの気持ちを返せるかと言われれば、それは難しいことでしょう。ひたむきに想ってくださっているアナスタシア様の御心を軽んじることにもなりかねないと思います」
レティシアが今アナスタシアに向けているのは、義妹への親愛の情だ。決してアナスタシアがレティシアに向けてくれているものと同種ではない。
だがその心が、少しずつ動き始めたことを、自覚している。甘く疼くこの熱は、明らかに義妹に向けるには不適切なものだ。
「だけど、育んでいきたいと、思っております」
こんな気持ちをアルバートに抱いたことはなかった。
アルバートとの婚約は国に決められたことで、アナスタシアからのプロポーズは追い詰められた末の選択だ。『他に道がなかった』という点は両者に共通している。
それでも。
「アナスタシア様。そんなわたくしを、誰よりもお傍に置いていただけますか? 恋にも愛にも未熟なわたくしを、見守っていただけますか?」
昨晩は言葉にできなかった『返事』に、アナスタシアは目を丸くした。
そのまましばらくポロポロと涙をこぼしたアナスタシアは、月下美人が花開くかのようにゆっくりと美しい笑みを顔中に広げていく。
「はい、レティシア義姉様……いえ、レティシア様」
ゆっくりと幸せそうにレティシアに答えたアナスタシアは、頬に添えられたレティシアの手に己の手を重ねると、夢見る少女のような眼差しでレティシアを見上げた。
「この身、この魂が尽きるその瞬間まで。どうかわたくしの隣に、誰よりも近くにいてくださいませ」
そのとろけるような声に笑みを深めたレティシアは、アナスタシアの頬に手を添えたままそっと上体をかがめると、アナスタシアの額に祝福の口づけを送った。




