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京橋の伝と本所の銕(てつ)  作者: 泥亀草也
第二章 伝蔵とよね
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第九話 本所の銕(てつ)後



 吉川町は両国西広小路に面しているので、夏の隅田川花火と深川の富岡八幡宮例大祭には屋台や見世物小屋が広場にひしめき、町家主が自身番に詰める月行事(がちぎょうじ)も夜遅くまで忙殺される。

 普段は、木戸が閉まる暮れ四つ(午後十時帯)には家主も自身番から自宅へ引き揚げるのだ。


「ま、とっくに閉まってんなら、それもいいさ」


 父伝左衛門も六十を過ぎた。赤いちゃんちゃんこは絶対着んぞ、用意もするなと逃げたが、もう追い剥ぎ相手に取り押さえる気概をふるえる歳でもない。

 だが向かってみると、案に相違して自身番にまだ明かりがついていた。


「親父殿?」


 伝蔵が中に声をかけて自身番の戸を開けると、奥座敷にがっちりした肩幅の白髪頭が畏まっていた。

 先客がいて、四十前後の押し出しのいい男がくわえ煙管でふり返る。

 着流しだったが見るからに地位の高い上級武士だった。どうやら二人きりで話し込んでいたらしい。


「おう、伝蔵に百樹か。どうした、こんな刻限に二人そろって」

「なんだい、伝さん。孫たちが迎えに来たのか?」


「何おっしゃってるんですか、てつさん。どっちもせがれでございますよ。まだ子の背を借りる歳でもありませんし」いや、親父殿あんた六三なんだが。


 父伝左衛門がちょいちょいと手招きするので、伝蔵と百樹は戸を閉めて奥へ入った。

 その戸の外に、手拭いを捨てた。


 自身番には牢はないが、広い土間と罪人を繋ぎおく鉄輪を打ち込んだ大黒柱が生々しい。

 父の話では泥酔した大虎をここで介抱してやることの方が多いんだとか。


「お前たちに紹介しよう、こちらは西丸書院番士の長谷川平蔵様だ。わたしが伊勢屋で奉公していた時分からお世話になっていて、本所のてつと言えば泣く子も黙ったご器量人だよ。ご挨拶しなさい」


「伝さん、俺はお世話した覚えはねえぜ。むしろこっちがいろいろ話を聞かせてもらってたんじゃねぇか」


 歳が二十も離れていそうな二人が和気(わき)藹々(あいあい)と旧交を温めている。

 伝蔵にはいまだ、どういう関係なのかさっぱりわからない。

 兄弟で名のると長谷川平蔵は笑顔で鷹揚に頷き、百樹の手に提げた折り箱に目を止めた。


「おっ。そいつは夜寿司か」

「えっ。あ、これは……」百樹がとっさに後ろへ隠した。 


「すまねえな。ひと摘みさせてもらえねえか。腹が減っててな」


 子供をからかってる様子はなさそうだ。父と随分話し込んだらしい。


「百樹。てつさんは食いしん坊なんだ。見つかったのが運の尽きとお(あきら)め。わたしもこの人に何軒、馴染みの店をとられたか」


「伝さん、その言い方はねぇだろう」と、また二人でがはははっと笑い合う。


 伝蔵が弟を促すと青い月代さかやきがうなだれて、渋しぶ折り箱を差し出した。


「悪いな。……おっ、この玉子焼きの手鞠(てまり)は柳橋河内屋の黄金こがね巾着だな」


 父の言どおり、長谷川平蔵は相当な食い道楽らしい。寿司の意匠だけで店を言い当てた。

 小鯛(こだい)の握りに指を伸ばしたとき、百樹が物欲しそうに口を開けるので伝蔵が袖を引っぱって窘め(たしな)る。


「うん、うん……うまいっ、粕酢(かすず)塩梅(あんばい)が見事だ」


 父伝左衛門がそつなく淹れ直したお茶を出すと、長谷川平蔵は片手拝みで受けとって口福そうにすすった。


「よし、帰ろう」


 紙入れから長火鉢の縁に一分金貨を置いて立ちあがった。


「銕さん、長谷川様。これはいけませんっ、にぎり一貫には多すぎます」


「いいじゃねえか。寿司は倅が家で待ってる家人のためと持って帰ろうとしたもんだろう。それを武士(さむらい)が横取りしたんだ、せめてもの詫びだよ」


 町人相手にそんな殊勝な考えをするお武家がいるのか。

 伝蔵は背骨に雷が落ちたみたいに衝撃が走った。弟を見ると同じ心境だったらしく、唖然とした様子で息をつめていた。弟の感情が顔に出たとはいえ、洞察が怖ろしく早い。


「悪かったな、百樹。本当に腹が減ってたんだよ」


 長谷川平蔵は大刀を差すと菅笠(すげがさ)を持って、戸口に手をかけた。

 伝蔵は思わず身を乗り出す。


「長谷川様。申し訳ございません」

「ん、なんの詫びだ?」


「おそらく、女の色香に惑わされた男たちがここに集まってくるかもしれません」

「ほぅ、女の色香か……お前が呼んだのかい?」


「それは……いいえ。手拭いを落としただけです」

「自身番の前にか?」


「はい。この中を(あらた)めさせて、からかってやろうかと」


「相手は」

「女から聞いた話が確かなら、五人。長ドス持ちです」


「ふぅん、田舎の地廻りがねえ。ふっ、ここで腹ごなしをしておいて当たりだったな」


 そう言い残して長谷川平蔵は戸を開けると、すでに外は五人の強面(こわもて)が取り囲んでいた。


「はせが……っ!?」


 声をかけ終わる前に、鼻先でぴしゃりと戸が閉められた。


「親父殿……っ!?」


 父伝左衛門を見れば、折り箱からひらめをつまんで口に入れると、山葵(わさび)が抜けたか鷲鼻(わしばな)を摘まんで目をしばたたいた。


「安心おし。あの方は三人どころか四、五人相手でも一人でさばいてしまうさ」


「いやでも……っ」


「あの方のヤットウの腕は鬼が宿ってるらしいし、実際、鬼を何人も斬ったよ」

 父の笑みは、昔を懐かしむようで、どこか誇らしげだった。


(てつ)さんは、今のお役目を役不足だとうそぶいて、城外で定廻り同心みたいに揉め事を探して歩いてる。嵐みたいなお人だよ……お前の悪戯(あくぎ)は褒められたもんじゃないが、まあ大丈夫だろう。竹刀すら握ったことがない、お前の出る幕はないよ」


「それは……そんな人が、どこで親父殿と?」


 父は、軽い気持ちで鬼をからかうつもりが、大事になった気がして意気消沈する伝蔵を一瞥(いちべつ)して、口許だけ笑みを浮かべた。


「お前が生まれる前から、わたしが質屋だった。お宝を質入れして金にしようとやって来る客が、いつも貧乏人とは限らんだろう? それより帰る支度をするから」


 結局、この日のことがどうなったのか、伝蔵の所には聞こえてこなかった。

 小屋に隠れていた女が逃げ切れたのかどうかも、長谷川平蔵が持っていった赤い手ぬぐいの行方もだ。

 こののち、伝蔵が長谷川平蔵と再び顔を合わせるのは、四年後のこと。

 本所のてつが、火付盗賊改方頭に着任する直前になる。



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