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京橋の伝と本所の銕(てつ)  作者: 泥亀草也
第二章 伝蔵とよね
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第十話 江戸に灰が降った日



 それから三ヶ月がたった、天明三年七月八日のことである。

 伝蔵は、おなじ北尾重政門下で三つ下、十九歳の北尾政美(まさよし)こと赤羽の三治郎と『狂文宝合記』の追い込みにかかっていた。

 森島万蔵が催す宝合会は相変わらず好評を博し、蝦夷から一時帰省していた平秩へづつ東作を早速巻きこんでいた。それはいいのだが、宝合会の宝物を画集にするのは細部まで筆を入れなければならないので手間だ。こんなものが黄表紙として本当に売れるのか、伝蔵は首を傾げる。


「ねえ、(あに)さぁん」


 三治郎が畳に毛氈(もうせん)を敷いた上で筆を動かしながら、声をかけてくる。


「ここ何日か、せみの声を聞きましたあ?」

「蝉ぃ? そういや……今年はまだ聞いてねえな」


 画紙から顔をあげて耳をすませた、確かにこの時期やかましい蝉どころか鳥の(さえず)りすら聞こえない。今朝の空模様はずっと妙な土色をしていたことを思いだした時だった。


 轟音が降ってきた。


「うひゃんっ!?」三治郎が悲鳴をあげた。


 昨夜から雷が多いのは気づいていた。今のはやけに下っ腹に響く、天が地面に落ちたみたいな重い音だった。


「あ~もぉ、脅かしやがって。墨が()ねちまったよぉ。ここまできて描き直しだあ」


 三治郎が畳に体を投げ出したその上を、伝蔵はまたいでとなりの納戸なんどふすまを開けていた。よねも兄に異常を訊ねようとしたらしい、襖に手をかける体勢のまま目をぱちくりさせていた。思わず笑みがこぼれそうになるが、なごんでいる場合ではない。


「兄様、今の音。なに?」

「わからん」


 伝蔵は妹の細い背中と両脚を抱きかかえると、縁廊から足袋のり音が滑ってくる。


「よね、伝蔵さんっ!?」

 障子を開けた母大森に出会い頭、伝蔵は妹を預けた。

「母上、私は百樹を迎えに行ってまいります」

「はい、お願いしますっ」

 伝蔵は家を飛び出すと八丁堀へ向かった。



 八丁堀には町奉行吟味(ぎんみ)役与力で書家の加藤千蔭が、非番の日だけ筆蹟塾を開いている。

 門人は四十代から十二歳まで、多いときは一度に三十人も集まる。百樹は十四歳なので寺子屋の書き取りは終わり、武家が用いる書体を学びにかよっていた。


 自宅の新両替町から八丁堀までは四町(約四三六メートル)ほどで、走って迎えに行ける距離である。町衆もさっきの不穏な音を聞いて、軒先のきさきから小雨がふり出す空を見上げていた。


「富士の方はなんともねえのか。まったくふざけた天気だ、真夏に鳥肌が立ってやがる」


 北の空がやけに暗い。一体全体、何が起ころうとしてるのかさっぱりだった。それでも先を急げば襟ぐりに汗がしみこんだ。


「これ以上、世知辛くなるのは勘弁してくれよ」


 亀島橋を和田倉門(八重洲)方面へ渡り、与力組屋敷の加藤千蔭宅へ向かうと、門前に子弟を迎えに来ている家族でごった返していた。


「兄上!」

 伝蔵が見つける前に、百樹のほうから駆け寄ってきた。


「百樹、加藤様は?」


「母屋に集まった非番同心たちを差配されています。手習は終わっていますが、みな少しでも空が鳴った事情を町方から聞こうと帰宅を思い留まっているみたいです」


 伝蔵もうなずいて周囲の不安に共感した。


 しばらくして、顔見知りの定廻り同心が血相を変えた様子で走り込んできて母屋に飛びこんだ。またしばらくして上がり框に(かまち)町奉行吟味役与力の加藤千蔭が出仕支度を調えて出てきた。門弟が自然と彼の足許に集まる。岩瀬兄弟もそれに倣った。


 加藤千蔭は厳しい顔色で、口を開いた。


「皆の者、聞いてくれ。今し方、奉行所から報せが入った。上州(群馬県)と信州(長野県)の国境にある浅間山が噴火した。今なお周辺の国にも被害が拡大しているそうだ」


 浅間山噴火。聞いていた伝蔵も百樹も、その場の全員が固唾を呑んだ。


「じきに江戸市中にも灰が飛んでくるだろうが、直ちに町へ影響が出ることはないとお奉行は見ている。わたしもその通りだと思う。だから皆も安心して家路につくがよい。塾は当分休むことになるが、各々精進は怠らぬように。話せることは以上だ」


 加藤千蔭が同心たちを引き連れて出かけると、門弟たちも三々五々、加藤邸を後にした。

 兄弟で亀島橋まで戻ると、百樹が兄の背に声をかけた。


「兄上、何を考えておられるのですか?」


 伝蔵は北から近づいてくる暗雲を見あげて、


「私は家で、浅間山が噴火した音を聞いて、お前を迎えに来たんだ。なのに、加藤様は上州周辺の国にも被害が拡大していると言ったんだ」


「はい、そうですね」

「早くないか。山の噴火から、被害が拡大するまでの時が早すぎる」

「えっと……つまり、どういうことですか?」

「噴火は今日始まったのではない、ひょっとすると昨日の晩からなのかもな」


 尊大な口調にふり返ると、みすぼらしい着物の素浪人が伝蔵の隣に立っていた。

 伝蔵はとっさに声が出ず圧倒されてしまった。年齢は十八前後、身の丈が六尺(一八〇センチ)もある。馬が立っているのかと思った。


「馬っ、無言で兄上の隣に立つな!」うま?

「百樹、知り合いなのか?」

「滝澤左七郎、興邦おきくにだっ。いいかげん覚えろ」


 馬面に剣呑なシワが寄った。この二人、仲が悪いらしい。


「誰が覚えるか。馬で充分だ。兄上、帰りましょうっ」


 百樹が伝蔵の手を引いて、歩き出す。


「岩瀬、兄に手を引いてもらわなければ前に進めぬのか?」


 左七郎の謎かけに、伝蔵はふり返る。百樹はギッと長身の門下生を見あげた。


「馬がしゃべるなっ。今手を引いてるのは、おれだっ」

「気づけ。貴様の顔色と兄上殿の顔を伺えば、貴様がガキだとわかる」


 百樹の表情が怒りに赤黒く豹変した。生まれた直後から知る弟なのに本気で怒るところを見るのは初めてかもしれない。


「この野郎、もう許さねえぞ!」

「やめとけ。彼は年上で、御家人だろう」 


 挑みかかっていこうとする弟の腕を伝蔵が掴んで歩き出す。

 滝澤左七郎は歯に衣を着せない性質たちか。まだ若いのに不器用な武士道を歩いていくつもりらしい。

 とにかく子供の喧嘩でも、町人が二本差しに飛びかかるのは何かと分が悪い。


「左七郎さん。あんたも早く帰った方がいい。住まいは」

「心づかい痛み入る。深川で兄と母と暮らしている」


 深川は四月の頭に大火があった。近場で師と学ぶ場所を得るのは難しかったか。わざわざ八丁堀まで足を伸ばすあたり、おのれを啓発する意欲は人一倍なのだろうが。


 伝蔵はひとつ頷くと、罵詈雑言を喚き続ける弟を引きずって歩き出す。

 家に着く頃には小雨を浴びたと思っていた雨が着物を黒く汚していた。

 その日、夜更けから雨が大降りになり、灰と砂が江戸の町に降り続けた。

 浅間山大噴火は、被災死亡数一六〇〇余人をかぞえ、後世にまで残る火山災害となった。

 だが、これが天明災害の幕開けであることを、伝蔵は知る由もなかった。



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